余滴…「首相の招き断った 漱石の心中は」2020年11月01日 13時47分18秒

私の古典回帰は、プトレマイオスの『アルマゲスト』にまで至りました。
しかし、この古代天文学の精華は、なかなか難解です。ここは安野光雅氏の『天動説の絵本』を読む方が、いっそスマートではなかろうか…と思ったりします。

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さて、今日も本題を外れた雑談で恐縮です。

朝日新聞の各編集委員が、回り持ちで書いているコラム「日曜に想う」
今日の担当は、曽我豪氏でした。曽我氏は政権擁護の姿勢を、常ににじませている人で、朝日新聞の中ではちょっと異色な人だと思いますが、氏のコラムはいつも不思議な気持ちで拝読しています。

氏の文章には、一種の「型」があって、必ず遠近の歴史上のエピソードが織り込まれています。まあ、自説の補強に用いるための引用ですから、当然といえば当然なんですが、それにしても我が田に水を引くのに、あまりにも遠慮がなさすぎるのではないか…と、ときに唖然とすることがあります。

   ★


今日のコラムもそうでした。
しかも、今日のエピソードが漱石先生だと聞けば、これは一寸看過できないものがあります。私は格別熱心な漱石ファンではありませんが、妙なところに、妙な形で漱石を引っ張り出すことは、漱石の真面目(しんめんぼく)に照らして、許されぬことと感じました。

テーマは、例の日本学術会議問題です。
曽我氏はこの件について、以下のように書きます。

 「言論は両極に割れる。一方は、憲法23条の「学問の自由」を侵害したと断じて菅政権の権力体質を難詰する。もう一方は、国家補助を受ける以上は国益に沿うべきだとし、学術会議の古い体質を改める「行政改革」へ論点を移そうする。

 国会も政権に対する肯定と否定の両極に分かれ、冷静に善後策を探る中庸の論はかすむ。相手の混乱に責任を負わせて譲らぬ分断状況こそが、安倍晋三前政権時代から続く「負の遺産」に違いない。」

いわゆる「どっちもどっち論」ですね。
自分はその局外にあって、冷静に事態が見えているとするポーズのいやらしさは脇に置くとしても、氏として、結局この問題をどう考えているのか、氏が言うところの「中庸な善後策」とは一体何なのか、読んでもさっぱり分からない文章です。

そして、任命拒否の妥当性については――それこそが問題の核心のはずなのに――いっさい触れずに、「言論が肯定と否定の両極に分かれていること、それ自体が問題なのだ」という立場をとることは、意図的かどうかは分かりませんけれど、論点ずらし以外の何物でもありません。

そもそも、ここで氏が挙げている二つの論は、「両極」でも何でもありません。
両極というのは、1本の軸の両端を意味するはずですが、上の2つの意見は、全然1本の軸に載っていません。学問の自由を尊ぶ人が、学術会議の改革を志向しても全然構わないし、その逆もありえます。要は、曽我氏は「学問の自由は常に不可侵かどうか」という軸と、「学術会議の在り方は現状のままでよいか」という軸の2本をごっちゃにしているのです。

氏の言い分を貫徹させるならば、

 「言論は両極に割れる。一方は、憲法23条の「学問の自由」を侵害したと断じて菅政権の権力体質を難詰する。もう一方は、国家補助を受ける以上は国益【=時の政権の意向、の意】に沿うべきであり、それに反して守られるべき「学問の自由」などというものはないと主張する。」

としなければ、論として成り立ちません。
そして、改めてこの「両極」に対して、氏はどう向き合うのでしょうか?
やっぱり「どっちもどっち」と言うのでしょうか?

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そんなわけで、氏の所論が無益であることは明らかですが、肝心の漱石先生の件に触れてないので、さらに先を読んでみます。

 「歴史が教える通り、言論の両極化は民主主義にとって脅威となる。〔…〕
 
 恐れるべきは、両極化によって言論が政治にもたらす善の力を失うことだと思う。熟考をもとに、時代の最適解と守るべき価値の優先順位を探り当てる穏当な文化の力である。それなくしてポストコロナの時代が開けてこようか。漱石の訴えは今日でも有用であろう。」

「善の力」とか、「穏当な文化の力」というのが、何を指しているのかは、前後を読んでもよく分からないのですが、話のついでに担ぎ出された漱石こそいい迷惑です。

ここで曽我氏が引用する漱石のエピソードというのは、以下のようなものです。

明治の終わりから大正にかけて、フランスに留学した自由主義的な西園寺公望と、陸軍出身で国家主義的な桂太郎が交互に政権を担った、いわゆる「桂園時代」というのがありました。その西園寺が首相のとき、文人たちを招待して宴を催したことがあったのですが、漱石は何度招待されても、頑として招きに応じませんでした。

このことから曽我氏は、漱石が自由主義からも国家主義からも距離を保ち、単一の主義に偏するのを避けたのだ…と言うのです。そして、学術会議問題についても、「両極」はダメだと言いたいわけです。

妙な理屈だなあ…と、思います。

漱石が西園寺の招待に応じなかったのは、別に自由主義から距離をとったわけではなくて、「時の権力」から距離をとったわけです。ですから、時の権力からの独立を旨とする学術会議に、権力が介入したことに、今回多くの人が非を鳴らしたことに対して、漱石が「それは極論だから、自分はそれに賛成できない」と言うはずがありません。むしろ積極的に賛同したでしょう。

   ★

さらに、曽我氏は、漱石が学習院で行った「私の個人主義」という講演(※)に触れて、「個人主義と国家主義は相矛盾するものではない。国家の危機に際しては、誰しも国家の安否を考えるだろう。だが、平穏な時にあっては、個人主義に重きを置くのが当然だ」…という漱石の意見を援用します。

漱石の個人主義は、自他の個性を、ともに尊重することをベースにしています。
それは権力や金力を有する者であっても同様で、自分の持つ力を、他の個人を圧殺するために用いてはならない、個人は個人として常に尊ばれなければならない、国家主義を唱えるのも良いが(ここで、「国家の危機に際しては、誰しも国家の安否を考えるだろう」という主張が出てきます)、人は基本的に「個」であり、常に国家のことばかり考えていることはできない…というところに、漱石の見識が表れています。

そのことが、学術会議問題とどう結びつくのか、私には曽我氏の思路が判然としませんが、漱石は明らかに強権政治を批判する立場であり、「菅政権の権力体質を難詰」することを後押しこそすれ、それに掣肘を加える立場では全くありません。

こういう頓珍漢なことが起きるのは、曽我氏が最初から「為にする議論」をしているからだと、私は考えます。そして、安倍前総理の招きに嬉々として応じ、その宴席にたびたび連なっていた曽我氏が、こういう文脈で漱石を持ち出すことに対して、憤りと失笑を禁じ得ません。


(※)青空文庫で全文を読むことができます。

コメント

_ S.U ― 2020年11月02日 12時12分49秒

夏目漱石には「博士号辞退の件」というのもありましたね。必ずしも反権力というのではないと思いますが、当時の学位授与制度に疑問を持ち「本人がいらないものはいらない」という理由で断ったもののようです。お上がくれる物は何でも有り難くもらっておいて当然という考えからすると、これはたいへんな「極端」ということになると思います。

 しかし、普通の学者は、大なり小なりそういうもので、別に学位や勲章をもらったとか学術会議会員になれたとか、そういうことはそれほど名誉には思わないのではないかと思います。支援者や後進のために社交辞令として嬉しそうにお礼は言いますけれども、本人はそれほどでもないと思います。発表論文が引用されるとか、著書や特許品が売れるとか、事典に載るとかそういうことのほうがずっとずっと嬉しいはずと思います。

 政治家だって、そもそもは肩書きや権力が上がることよりも市民国民の役に立つほうが本当は嬉しいと思うのですが、そうではない肩書きだけ偉い政治家が最近は増えているのか、わざわざ学者の意志をねじ曲げて解釈している輩が目立つように思います。

_ 玉青 ― 2020年11月03日 09時50分13秒

漱石は「反体制」ではなかったですが、はっきりと「反権威」の人ではありましたね。
これは江戸っ子にありがちな気風だ…というと、ちょっとステロタイプな理解になりますけれど、でもある程度までは当たっているでしょう。そういう気風は、自ずと明治の薩長政府をさげすむ態度に通じますが、かといって佐幕的心情でもなくて、漱石が江戸時代に生きていたらいたで、きっと「お上の威光」に反発を感じたでしょう。

ですから、学術会議それ自体が「権威的存在」になってしまえば、それに強く反発することは必定です。(現に明治44年、時の政府が文学の御用団体である「文芸委員会官制」を創設した際は、大いにこれを批判しました。)

>普通の学者は…学術会議会員になれたとか、そういうことはそれほど名誉には思わないのではないか

これは確かに真実でしょうね。ただ、それを逆手にとって、「な、そうだろう?だから今回ぶうぶう文句を言ってる学者連中は、みんな名誉(権益)が欲しくて言ってるに違いないよ」…みたいに、政権やその取り巻き連中が、搦め手で攻めてくることには、十分用心が必要かと思います。(まあ、彼らの場合「高等戦術」というより、単なるゲスの勘繰りかもしれませんが・笑)

_ S.U ― 2020年11月03日 14時03分09秒

学術会議の問題は、いろんな側面はありますが、この手の「ステロタイプ」戦術でいうと、学者は名誉・金銭欲は淡泊で清貧、政治家は金権・利権まみれで詐術まがい、ということになっていますので、私自身は勝負あったと楽観しています。

>名誉(権益)
 私がけしからんと思うのは、学術会議の権益が具体的に何なのか誰も話題にしないことです。給料というほどのものは出ないし自分の研究費が増えるわけでもなく、しかも任期6年で再選なしで、御用団体になっている兆候もありませんので、少し考えれば問題になるほどの「権益」がある可能性は低いはずです。10億円の予算だって、全部会員に配分しても人数割りで一人500万円未満ですから、秘書一人分の仕事も難しいでしょう。

 それでも外野の想像も及ばないような錬金術のような権益があるのかもしれませんが、だったらどんな権益なのか、誰が与えたものなのか、私も知りたいです。いずれにしても、それを具体的に指摘できるほど内実を調べている人はいないわけですから、これぞ「為にする議論」というかデマとしか言えないように思います。

_ 玉青 ― 2020年11月15日 18時12分28秒

間が空いてしまいましたが、学術会議問題での迷走が、その後もひどいですね。

仮に菅さんが言うように「選ぶのは俺だ」という理屈があり得たとしても(私はあり得ないと思いますが)、いやしくも学問の世界の師表たる人物を選ぼうというのですから、選ぶ方にも世の師表たる高潔さが求められて然るべきですが、その辺は言うのも空しい感じです。

自分の非を認めず、言い逃れのためにさらに根拠のないデマを言いふらす。空とぼける。相手を嘲弄する。恫喝する―。政治の世界には、清も濁もあることは承知の上ですが、お粗末に過ぎます。

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