閑語のつづき2023年07月07日 09時01分00秒

タイムマシンの実現可能性に関連して、「親殺しのパラドックス」というのがあります。有名な話なので今更ですが、もしタイムマシンで過去に戻って、自分が生まれる前の親を殺したら、いったいどうなるのか?という思考実験です。

自分の親を殺したら、自分も生まれないわけだから、そもそも親殺しを企むことはできないし、親を殺すこともできない。でも、その出来ないはずのことを、あえてやらかしたら、一体どうなるのか?

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先ほど、自分のことを称して「守旧派」と書きました。
でも守旧派とはいっても、例えばツイッター上で、日の丸アイコンを用いたり、プロフィールにことさら「日本を愛しています」と書くことは決してないでしょう。西行だって、利休だって、光悦だって、芭蕉だって、そんなことはしないはずです。それはいかにも愚かしい振る舞いだと思います。

それを愚かしいと感じるのは、どうやらネット上で日の丸を打ち振って「日本大好き」と叫ぶ人々は、往々にして中国や半島の文化とその影響を否定し、その上で本朝の絶対的優位を主張したいらしいからです。それは端的に物を知らない態度だし、いにしえの文化創出者がいちばん驚くのも、たぶんその点でしょう。

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彼らの試みは、一種の「親殺しのパラドックス」です。
不可能という以前に、パラドキシカルで不条理な試みです。

Player 1、応答せよ2023年04月25日 06時31分20秒

週末は風邪症状で、ずっと寝ていました。
1日10数時間以上も眠り続けていたので、風邪というよりは、単に疲れが溜まっていただけかもしれません。

そして、私が眠りこけている間にも世間ではいろいろな事が起こり、目覚めてみれば、国内では衆参補欠選挙で自民辛勝、国外ではスーダン情勢がさらに緊迫というニュースが流れていました。世界は常に動いていますね。

選挙のたびに投票率の低下を憂う声が上がります。私も主権者の権利放棄という意味で、それを嘆かわしいことだと感じます。でも、投票しない人もまた投票しないことによって世界を動かしていることは確かです。

今や78億に達した世界の人々は、その一人ひとりが全て歴史というゲームに参加しているプレーヤーであり、そして選挙と違って、この歴史ゲームのプレーヤーたることは、彼/彼女が生きている限り、決して棄権することができません。

…そんなことを思いながら、ニュースを見ていました。

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さて、さまざまな天文レリクス(遺物)の向こうに、往古の歴史ゲームを振り返ろうという本来の記事は次回に。

歴史瑣談【補遺】2023年04月22日 09時01分26秒

端午の節句の掛け軸に端を発した、鷲雪真と仁徳天皇陵古図の一件【LINK】。

でも、あの件がすでに関係者には既知のことであり、私の独り相撲だと滑稽ですし、何より手元にある絵の作者の正体を知りたいということもあって、問題の資料を所蔵する八王子市郷土資料館に、その点をお尋ねしてみました。

その後、ご担当の加藤学芸員様から大要以下のような返信をいただいたので、今後の参考として記しておきます(あくまでも大意です。文責引用者)。

●これまで多くの研究者が、石棺図の左下の記述を「鷲雪」の「真模」であるととらえてきた。これは「鷲雪真」という絵師はいないと考えていたためで、当館でもそのように理解してきた。

●「鷲雪真」という絵師の存在を指摘した研究者はいないと思われる。今後は「鷲雪真」という絵師の存在も視野に入れて検証してみたい。

●この絵図を所有していた落合直澄は、明治8年当時、伊勢神宮にいた。堺県での出来事を聞きつけて、堺県令税所篤のもとを訪れたと考えると、出身地八王子の絵師をわざわざ連れて来たとは考えづらいので、関西方面の絵師だった可能性も想定できる。

…というわけで、肝心の鷲雪真の正体は依然茫洋としていますが、とりあえず独り相撲でなくて良かったです。

冷静に考えると、この図を写した画家の素性によって、本図の持つ意味合いが変わるとか、何か新たな歴史がそこから生まれるということもないので、まあ瑣末といえば瑣末な事柄ではあるのですが、歴史においてはファクトが重要ですから、「鷲雪真という絵師の存在」を事実として提示しえたことは、まんざら無駄でもなかろう…と、総括しておきます。

それに同じ掛軸でも、上のようなエピソードを知って眺めるのと、知らずに眺めるのとでは大きな違いがありますから、私個人にとって、これは瑣末どころの話ではありません。

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末筆ながら、お忙しい中懇切なご回答をいただいた、八王子市郷土資料館の加藤典子様にこの場を借りて厚く御礼を申し上げます。

歴史瑣談…鷲雪真と仁徳天皇陵古図2023年04月17日 05時29分48秒

天文趣味や理科趣味とはあまり…というか全然関係ない話題ですが、備忘のためここに書いておきます。

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今を去る30年前、私も人の親となり、大いに張り切っていました。

男の子だから端午の節句を祝うという段になって、普通に人形屋に並んでいる五月人形では面白くないとへそ曲がりなことを考えて、床の間に端午の節句にちなんだ古画を飾ることにしました。今にして思えば、若干スノビッシュな感じもしますが、当時は素敵なアイデアに思えたので、いそいそと京都まで出かけて、縄手通界隈の古美術店で一幅の具足絵を買い求めたのです(まだネット販売のなかった時代です)。


それを押し入れから出してきて、今年も飾りました。

(一部拡大)

まあ、いかに京都で風流人を気取っても、先立つものがないので、これは無名の絵師の作品に過ぎません。しかし無名とはいっても、やっぱり名前はあるわけで、絵の隅っこには「雪真鷲源正直図之」という署名があります。


印章は「鷲正直」と「雪真」の2つ。つまりこの絵を描いたのは、本姓は源、氏は鷲、名は正直、号は雪真という人です(「鷲」は珍しい苗字ですが、確かにあるそうです。ただし、これが普通に「わし」と読むのか、あるいは「おおとり」のような読み方をするのかは不明)。

(外箱蓋裏の記載。蓋表には「雪真筆 菖蒲雛画」とあります)

箱書によれば、以前の持ち主はこれを明治13年(1880)5月に調えたとあるので、絵が描かれたのはそれよりもちょっと前でしょう。

当時、書画骨董人名事典の類をいくらひっくり返しても、その名がまったく見つからなかったので、これは余っ程無名の人か、あるいは素人画家の作かもしれんなあ…と思いました。で、今年久しぶりにその軸を出してきて眺めているうちに、「その後ネット情報も充実したし、今なら何か手掛かりが得られるかもしれんぞ」と思って検索したら、たった一点ですが、同じ人の作品が見つかりました。

(出典:https://aucview.aucfan.com/yahoo/p1060857324/ 一部トリミング)

「鷲正直(雪真)槌鼠図横物」の品名で、2022年8月にヤフオクに出品されたものです。

(出典:同上)

印章も同じなので、同一人物に間違いありません。
文久4年(元治元年、1864)の段階では、「法橋」の位に叙せられているので(これは絵師の名誉称号みたいなものです)、この人は素人ではなく、やっぱり職業画家で、幕末から明治の初めにかけて活動した人なのだろうと想像されました。

これだけなら、「ああ、そうなんだ」で終わる話です。
しかし、検索結果の余波として、ここから話は妙な方向に発展します。それはあの「仁徳天皇陵」、今では「大仙陵古墳(大山古墳)」と呼ばれる巨大古墳に関係したことです(以下、話を簡単にするため、旧称の「仁徳天皇陵」を用います)。

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仁徳天皇陵は、現在は発掘はもちろん立入調査も認められていないと聞きますが、明治の初めにその前方部の一部が崩れて、そこから石室が見つかったことがあります。これは大雨によって偶然崩れたとも、当時の堺県令・税所篤(さいしょあつし、1827-1910)が意図的に発掘(あえて言えば盗掘)したのではないかとも言われます。

石室が発見されたのは明治5年(1872)9月7日のことで、ちょうど同時期に文部省の派遣した社寺宝物調査団が近畿一円で活動しており、同調査団は早くも9月19日に現地を訪れて、同行した絵師の柏木政矩(通名・貨一郎、1841-1898)が、石室と石棺の図面を描いています。

何といっても、現在は禁断の遺跡ですから、このとき描かれた図面はすこぶる貴重なものに違いなく、ただ残念ながら原本は失われて、今はいくつかの写本が残されているのみです。

その写本の1つが、国学者の落合直澄(1840-1891)がかつて所有し、現在は八王子市郷土資料館に所蔵されている「落合家旧蔵『仁徳陵古墳石棺図』」と呼ばれるものです。これはその描線や記載事項の検討から、柏木政矩が描いた原図に最も近いものと推定されています。

それがどんなものかは、八王子市郷土資料館所蔵のオリジナルを複製したものが、ウィキペディアの「大仙陵古墳」の項に掲載されているので、簡単に見ることができます(図は2枚から成ります)。



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で、肝心の鷲雪真がどこに行ったかというと、他でもない上の図を描いた(すなわち柏木の原図を模写した)のが、雪真その人なのです。

すぐ上の図の左下を拡大してみます。


そこには「明治八年四月十五日 鷲雪真模」の文字が見えます。

この書入れについて、この資料を学界に初めて報告した小川貴司氏(1983)は、以下のように述べています(太字は引用者)。

「したがって現在確認できる中では、落合家の図が柏木の原図に最も近似するという結論に達する。そしてこのことは図末の「鷲雪真模」の記述にも見ることができる。これは「鷲雪真ガ模ス」とも読めないことはないが、「鷲雪ガ真模ス」と読むべきだろう。「真模」とは本物をもとに正しく模写した意味という。とすると、本図が写しの写しという可能性はなくなり、より信憑性を高くする。」 (p.248)

「次に落合家の図末の「明治八年四月十五日鷲雪真模」の添書きだが、このような記述は今までの図にはなく、この図の由緒を明確にしている点で高く評価できる。直澄が税所らに会った正確な日付けはわからないが、模写された明治8年4月15日は丁度その前後である。とすると、直澄は模写を見て譲り受けたのではなく、柏木の原図を直接見た上で鷲雪に「真模」させたと推定される。〔…〕なお、鷲雪についてはいかなる人物かわからなかった。」 (p.249)

この推論は、その後も玉利薫氏(1992)や内川隆志氏(2020)がそのまま引用しており、本図は「鷲雪」という画家が原図を「真模」したもの…ということになっています。しかし、同じ時期に「鷲雪真」という画家が現にいた以上、これは小川氏が最初に退けた読み方、すなわち「鷲雪真ガ模ス」を採るべきだと思います。そして筆跡の上でも、「雪真」は「真」の字にやや特徴があって、この3点は私の目には同筆に見えます。

(3点の比較)

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まあ、なんだかんだ言って、鷲雪真の伝は依然として不明なわけですが、少なくとも「真模」の一語を重く見た小川氏の論には一定の留保が必要でしょうし、雪真その人の経歴や、雪真と落合直澄の関係を探るという新たな課題が、今後の歴史家には残されている…と言えるのではないでしょうか。

以上は素人の勝手な考証にすぎません。でも貴重な歴史資料にかかわる事柄なので、あえてブログの隅に書き付けました。


【引用・参考文献】

(1)小川貴司 1983 「落合直澄旧蔵の『仁徳陵古墳石棺図』について」、『考古学雑誌』 69巻2号、pp.244-253.
(2)玉利 薫 1992 「堺県令税所篤の発掘」、『墓盗人と贋物づくり―日本考古学外史―』 平凡社選書 142、pp.138-185.
(3)内川隆志 2020  「好古家柏木貨一郎の事績」、『好古家ネットワークの形成と近代博物館創設に関する学際的研究Ⅲ』 近代博物館形成史研究会、pp.3-29.
http://hcra.sakura.ne.jp/hvsiebold/wp-content/uploads/2020/07/siri2020.pdf

※「鷲正直(雪真)槌鼠図横物」の魚拓はこちら。

寺田寅彦と牧野富太郎2023年04月05日 06時23分00秒

かつて「明治科学の肖像」と題して、東京帝国大学理科大学の古い卒業写真を採り上げたことがあります。


そこには、学生・教員とりまぜて、日本の科学を先導した偉人たちが居並んでいるのですが、そのうちの1人が寺田寅彦で、記事を読まれた寺田寅彦記念館(高知市)の関係者からご連絡をいただき、画像データを同館に提供させていただいたことがあります。

たったそれだけの御縁にもかかわらず、寺田寅彦記念館友の会様からは、会報「槲(かしわ)」を毎号お送りいただいており、さすが土佐の人は情誼に厚いと、大いに感じ入っています。

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先日も会報の第96号が届き、興味深く拝読したのですが、その中に宮英司氏による「寺田博士と牧野博士のご縁」という記事が掲載されていました。

寺田寅彦と牧野富太郎は、ともに高知出身の科学者ですが、両者にはこんなエピソードがあった…として、以下にように書かれています。一部を引用させていただきます。

 「寺田博士(1878~1935年)と牧野博士(1862~1957年)は同じ時代を生きている。この2人に関しては興味深い話が残されている。高知県越知町の横倉山自然の森博物館ニュースの「不思議の森から」(2006年1月号)を以下に引用する。(著者は当時の同博物館の安井敏夫副館長兼学芸員)

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 高知県出身の動物学(魚類学)の大家・田中茂穂博士がかつて東京の私電の中で、寺田寅彦博士と同車した際、たまたま土佐出身の人物の話になり、田中博士が「ときに寺田さん、貴方は土佐出身者で誰を一番偉いと思いますか」と尋ねたところ、寺田博士はすぐさま「牧野富太郎」と答えたという。後日、田中博士が牧野博士に会った時、同じ質問をしたところ、牧野博士は直ちに「寺田寅彦」と答えたといわれている。」
 (「槲」第96号〔令和5年2月〕、pp.8-9.)

これだけでも、だいぶ引用の連鎖が伸びていて、究極の出典は今のところ不明です。話としては、なんだか出来すぎのような気もします。しかし、古来「英雄は英雄を知る」と言いますから、他に抜きん出た存在として、両博士は互いに深く感ずるところがあったのでしょう。

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NHKで朝ドラ「らんまん」が始まり、主人公の牧野富太郎(今はまだ子供時代のエピソードですが、成人後は神木隆之介さんが演じる由)に注目が集まっています。それはそれで興味深く、大いに盛り上げてほしいですが、その人間的魅力やドラマ性においては、寺田寅彦もおさおさ劣りませんから、こちらもいずれぜひ作品化してほしいと思います。(上掲の記事で、筆者の宮氏もそのことに触れられていました。)

春の闇2023年04月01日 21時48分27秒

桜がはらはら散る一方で、樹々はにわかに芽吹き、ピンクとグリーンのコントラストが美しい季節となりました。まこと「柳桜をこきまぜて」と謳われた都の春もかくや…と思わせる四囲の景色です。

だから心が浮き立つかというと、意外にそうでもありません。
秋の心と書いて「愁」。そして「春愁」という言葉もあって、今の季節はのどかな中にも、一抹の淋しさを感じます。命の営みは、どこか悲しさを感じさせるものですが、それがより強く感じられるからかもしれません。

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今日は故・安倍氏の事績を振り返る映画、『妖怪の孫』を見に行ってきました。
そして、家に帰ってからも、何となく索漠とした思いで、従軍慰安婦と歴史修正主義の問題に取材した映画『主戦場』(2019)をアマゾンプライムで見直していました。安倍氏は後者にも登場して、いろいろ「活躍」しているのですが、この間に横たわる4年という歳月が、そこにある種の陰影を添えて、話に奥行きを感じました。

「桜を見る会」でタレントに取り巻かれ、我が世の春を謳歌した安倍氏。両親にねじれた愛憎を抱き、祖父・岸信介を超えることで、彼らに心理的復讐を果たそうとした安倍氏。そのための権謀術数に明け暮れ、果ては凶弾に斃れた安倍氏。

まあ、すぐれて人間的なエピソードではあります。
でも、だからといって、仁も義も乏しい人間が宰相の地位に付くことは正当化できないし、国民の側からすれば、それは悲劇以外のなにものでもありません。

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 灯取虫 死しての後の名なりけり  松宇

「灯取虫」は灯火に慕い寄る蛾のことで、夏の季語です。自ら灯火に飛び込むからこそ、その名があるわけで、これはたしかに「死しての後の名」です。そう考えると、いくぶん理に勝ちすぎている気もしますが、私にとっては不思議と鮮明な印象をもたらす句で、折にふれて口をついて出てきます。

安倍氏と灯取虫がどう結びつくかは、自分でもよく分かりませんが、今また口をついて出た以上、そこには何か連想が働いているのでしょう。でも、安倍氏の姿を仮に灯取虫に重ねたとして、彼が身を焦がした「灯火」とはいったい何だったのか?

(速水御舟 「炎舞」、1925)

ちなみに、作者の伊藤松宇(1859-1943)は古俳書収集で知られた人。齢は正岡子規よりも年長ですが、子規とも交流があり、明治~大正の俳壇で一家を成しました。

おだやかな日曜日に2023年02月19日 11時38分11秒

立春が過ぎ、バレンタインが過ぎ、今日は二十四節気の「雨水(うすい)」。
こうなると雛祭りももうじきですね。


およそ想像もつくでしょうが、私の家は非常に乱雑で、書斎の隣の和室にも本が堆積しています。ただ、それだけだといかにも見苦しいので、部屋の隅に小机と座椅子を置いて、「ここは物置部屋じゃありませんよ、和風書斎なんですよ」と、アリバイ的にしつらえがしてあります。そもそもがアリバイ的なスペースなので、ここで読み書きすることはほとんどありません。それでも貴重な和の空間として、こんな風に季節行事に活用したりもします。


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今日はブセボロードさんから、このブログにコメントをいただき、それとは別に長いメッセージもいただきました。それは人類と戦争の古くて長い関わりに省察を迫るもので、ひるがえって日本の平和主義をどう評価するか、その平和主義が機能する前提は何かを考えさせる内容でした。

これは誰にとっても難しい問いでしょう。もちろん、私にも明快な答があるわけではありません。ただ、この問題を考える際、最大のポイントは憲法前文にいうところの「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」の一句であることは、大方の異論がないでしょう。

「そんなもん、信頼できますかいな」という人も多いと思います。

ヒトは進化の過程で巨大な「心の世界」を手に入れましたが、その一方で他者の心の世界に触れる手段は、極端に未発達のままです。相手が何を感じ、何を考えているかは、言語や表情、声色、そんなものを手がかりに、辛うじて想像できるだけです。その非対称性が「人間、腹の底では何を考えているか分からない」という諦念を生み、警戒と不信の念を掻き立て、結果として不幸な出来事がいろいろと起きたし、今も起きています。

既存の学問体系で、こうした「信頼」の問題にいちばん肉薄しているのは、おそらく哲学でも宗教学でもなく「ゲーム理論」でしょう。「信頼」というと反射的に「お花畑」と切り返す人がいますけれど、「信頼」だけ取り出すと単なる美辞に見えても、それに伴う「利得」まで考慮すれば、それはすぐれてリアルな概念です。

ゲーム理論は演算と親和的なので、そう遠くない将来、最も合理的な意思決定をするプログラムに国家の命運を委ねるというSF的な世界が実現するのかもしれません。(人類にとってそれ以上に幸福だと主張しうる選択肢を提示できないと、必然的にそうなる気がします。)

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…というようなことを考えながら、眼前の平和の有り難さをしみじみ噛み締めています。ゲーム理論もいいんですが、こういうささやかな平穏が大事であることを、すべての議論の出発点にしないと道を誤るでしょう。



青空のかけら、再び2023年02月11日 18時28分12秒

昨日、幼い子どもが泣いている夢を見ました。
その子のお兄さんが不意に亡くなってしまい、身寄りのないあの子は、これからどうやって生きていくのだろう…と、夢の中で私はしきりに案じていました。目覚めてから考えると、ここにはトルコ大地震のニュース映像が大きく影響しているようです。

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トルコ南部の大地震は言うまでもなく大変な惨状を呈していますが、この災害に複雑な影を落としているのが、被災地域にトルコとシリアの国境線が通っていることです。

地図を見ながら、ふと「なぜここに国境線があるのだろう?」と思い、本棚から歴史地図を引っ張り出してきて、夢の中の幼児を思い出しながら、ページを眺めていました。そして、自分がトルコの歴史を何も知らないことを、改めて思い知らされました。

トルコの歴史といっても、遠い過去の話ではありません。
オスマン帝国の近代化につづく第1次世界大戦への参戦と敗北、その後の帝国弱体化とトルコ共和国の成立――そんな19世紀末~20世紀前半のトルコ激動の歴史を、私はほとんど知らずにいたのです。

そうしたトルコの近・現代史は、イスラム世界を「切り取り次第」の草刈り場とみなした西欧列強の露骨な振る舞いと表裏一体のものです。彼らのパワーゲームの中でトルコとシリアの国境線は引かれ、今に続くシリア国内の政情不安も、そこから糸を引いているわけです。

(出典:マリーズ・ルースヴェン、アズィーム・ナンジー(著)『イスラーム歴史文化地図』、悠書館、2008)

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以前も登場したセルジューク・トルコの青いタイル。


元の記事を読み返したら、あのときの自分も2020年7月豪雨を受けて、「こんな青空が一日も早く戻ってきますように」と願っていました。


寒空のトルコにも、早くまばゆい青空をと切に願いますが、被災者の心に青空が広がるのは、多分ずっと先のことでしょう。あるいは、あの幼児に象徴される多くの人々のことを思うと、青空は永遠に来ないかもしれない…と心が曇りますが、それでもいつかはと願うばかりです。

賢治と土星と天王星2022年12月17日 11時24分30秒

先日話題にした、賢治の詩に出てくる「輪っかのあるサファイア風の惑星」

(詩の全文。元記事 http://mononoke.asablo.jp/blog/2022/12/13/9547757

コメント欄で、件の惑星は、やっぱり天王星という可能性はないだろうか?という問題提起が、S.Uさんからありました。これは想像力をいたく刺激する説ですが、結論から言うと、その可能性はやっぱりないんじゃないかなあと思います。

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1970年代後半に、恒星の掩蔽観測から発見された天王星の環ですが、そのはるか昔、18世紀の末にも天王星の環を見たという人がいました。他でもない、天王星の発見者であるウィリアム・ハーシェル(1738-1822)その人で、彼は天王星本体のほかに、天王星の衛星と環を発見したという追加報告を行っています(※)

しかし、他にこの環は見たという人は誰もいないので、まあハーシェルの見間違いなんだろう…ということで、その後無視され続けていました(父を尊敬していた息子のジョン・ハーシェルでさえも、自著『天文学概論』(1849)で、「天王星に関して我々の目に映るものは、小さな丸く一様に輝く円盤だけである。そこには環も、帯も、知覚可能な斑文もない」と、にべもない調子で述べています)。

当然、明治以降に日本で発行された天文書で、それに言及するものは皆無です。
この点も含めて、取り急ぎ手元にある天文書から、関係する天王星と土星の記述(色とか、「まん円」かどうかとか、衛星の数とか)を抜き出してみたので、参考としてご覧ください。


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それともうひとつ気になったのは、これもS.Uさんご指摘の「7個の衛星」の謎です。
土星の衛星は17世紀に5個(タイタン、テティス、ディオーネ、レア、ヤペタス)、18世紀に2個(ミマス、エンケラドス)、19世紀に2個(ヒペリオン/1848、フェーベ/1899)発見されており、その後1966年にヤヌスが発見されて、都合10個になりました。賢治の時代ならば9個が正解です。

ただし、19世紀には上に挙げた以外にも、キロンやテミスというのが報告されており、後に誤認と判明しましたが、同時代の本はそれを勘定に入れている場合があるので、土星の衛星の数は、書物によって微妙に違います(上の表を参照)。
いずれにしても、サファイア風の惑星が土星であり、その衛星が7個だとすれば、それは19世紀前半以前の知識ということになります。

賢治の詩に出てくる

 ところがあいつはまん円なもんで
 リングもあれば月も七っつもってゐる
 第一あんなもの生きてもゐないし
 まあ行って見ろごそごそだぞ

というのは、夜明けにサファイア風の惑星に見入っている主人公ではなくて、脇からそれに茶々を入れている「草刈」のセリフです。粗野な草刈り男だから、その振り回す知識も古風なんだ…と考えれば一応話の辻褄は合いますが、はたして賢治がそこまで考えていたかどうか。賢治の単純な勘違いかもしれませんし、何かさらに深い意味があるのかもしれませんが、今のところ不明というほかありません。


(※)ハーシェルは彼の論文「ジョージの星〔天王星〕の4個の新たな衛星の発見について」(On the Discovery of four additional Satellites of the Georgium Sidus, Philosophical Transaction, 1798, pp.47-79.)の中で、以下の図7、8のようなスケッチとともに、1787年3月に天王星の環を見たという観測記録を提示しています。



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【閑語】

岸田さんという人は、もともとハト派で、どちらかというと「沈香も焚かず屁もひらず」的な人だと思っていました。でも、途中からどんどん印象が悪くなって、尾籠な言い方で恐縮ですが、どうも屁ばかりひっているし、最近は動物園のゴリラのように、それ以上のものを国民に投げつけてくるので、本当に辟易しています。

まあ岸田さんの影にはもっとよこしまな人が大勢いて、岸田さんを盛んに揺さぶっているのでしょうが、でも宰相たるもの、そんな簡単に揺すられ放題ではどうしようもありません。

それにしても、今回の国民的増税の話を聞くと、ここ数年、政府がマイナンバーカードの普及に血道を上げていた理由もよく分かるし、大盤振る舞いをもくろんでいる防衛費が、めぐりめぐって誰の懐に入るのか、雑巾や油粕のように搾り取られる側としては、大層気になります。

ゼロの方程式2022年11月29日 20時07分11秒

今日、天文学史のメーリングリストに変わった投稿がありました。

現在、中国各地で習政権による「ゼロ・コロナ政策」への激しい抗議活動が起きていますが、デモの参加者は、何かメッセージを掲げても、報道の際は検閲で削除されてしまうので、最初から白紙を掲げてプロテストしている…と報じられています。しかし、中にはやっぱりメッセージを掲げる学生がいるらしく、件の投稿は、そのメッセージに反応したメンバーからのものでした。

そのメッセージがこちらです。


これは「フリードマン方程式」と呼ばれるもので、一般相対性理論によって導かれる宇宙膨張を表す方程式…だそうですが、その含意が分かりますか? 学生たちには、「どうだ、これが分かるか?」と、政権の無能ぶりを揶揄する気持ちもあるのかもしれませんが、政権の要人と同様、私にもさっぱりです。

リストメンバーの意見に耳を傾けると、眼前の膨張宇宙を認める限り、アインシュタインが忌み嫌った「宇宙項」は必ず存在し、その係数である「宇宙定数」もゼロにはできない。同様に、新型コロナをいくら忌み嫌っても、それをゼロにはできない…という主張がこめられているのでは?というのが一説。もうひとつは、単に Friedmann の名前をFreed man(解き放たれた人間)」に掛けているのだという説。

いずれももっともらしいし、まあ両方の意味がこもっているのかもしれません。
分かりにくいといえば、いかにも分かりにくいですが、落語の「考えオチ」みたいなもので、分かりにくいからこそ面白いともいえます。(さらにリンク先の記事では、「フリードマン方程式は「開かれた」(膨張する) 宇宙を表しているので、“自由で「開かれた」中国”を象徴しているのでは?」という別の意見も紹介しています。)

こういうのは一種のネットミームとして、思わず人に言いたくなりますけれど、理解できないまま触れ回るのも馬鹿っぽいので、フリードマン通の方に、より詳しい解説をお願いできればありがたいです。