今年の抱負を振り返って…人体模型のこと2007年10月17日 21時47分55秒

(優しい表情の日本的人体模型)

今年の元旦に掲げた目標は以下の3点でした。

(1)人体模型について、まとまった記事を書く。
(2)「理科室風書斎」をキーワードに部屋を整理する。
(3)「銀河鉄道の夜」の作品世界の具象化。

まず最初に「人体模型総説」的な記事を書くぞ、と高らかに宣言しているあたりに、当時の自分の興味のありようが現れています。

資料も結構マメに探したりして、かなり気分が高揚しており、挙句の果てにカナダの人体模型研究者を見つけて、直接教えを乞うところまで行ったのですが、メールがうまく届かず、先方と接触できなかったあたりから、ちょっとペースダウンしたように思います。

私の腹積もりとしては、こんな計画だったのです。

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まず、前史として、フィレンツェのスペコラ博物館に代表される18世紀の蝋製解剖模型(ワックスモデル)から説き起こし、19世紀に入って、フランスのオゾーが紙粘土の一種(パピエ・マッシュ)で人体模型の量産を始めたあたりまでを足早に紹介します。

次いで、明治になってその技術が日本に移入され、島津製作所あたりで国産化に成功し、オゾー風のリアルな模型が徐々に日本化され、「日本的人体模型」が生み出されるに至った過程を追います。

さらに、20世紀初頭に日本で独自に生れた技法(紙縒りの技術を生かした血管系の再現など)や、日本風のやわらかい彩色や面貌が欧米で評価され、海外進出を果たした歴史に触れます。

また側面史として、島津の人体模型製作術が服飾用マネキンに応用され、マネキン産業がドル箱となったエピソードや、戦後、島津の標本部が独立して京都科学として分社化され、同時に紙塑製模型から樹脂製模型への転換が図られたことを述べて、通史を終えます。

ついで各論として、理科室と人体模型の結びつきを論じます。明治以降、理科の単元が整備されていく中で、人体模型がどのように学校現場に入り込んでいったか、理科教育史における人体模型の位置付け、人体模型がなぜ実際の授業で使われることがないのか、その謎解きをして、さらには人体模型VS骨格模型の徹底比較、人体模型の面相論といった、色物的な内容も綴っていきます。

最後は人体模型のフォークロアで、理科室の怪談と人体模型の結びつきを、時代をおって見ていくことで、理科室空間の盛衰をも間接的に叙述します。

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こうして書いていると、本当に面白そうですね。どなたか書いて下さる方があれば、ネタはすべて提供するのですが。。。まあ、たぶん誰も手がけないでしょうから、これは老いの楽しみにとっておきます。

さて、残る(2)と(3)の現状報告はまた明日。