アワビとCD2013年01月31日 20時38分58秒

明日から2月。
まだまだ寒い日や、雪の日はあるでしょうが、日脚の伸びに一陽来復の気分がみなぎります。私の住む街では、明日の日の出は6時52分、日の入りは17時21分だそうです。朝日を浴びて出勤し、定時に出れば、まだ西の空が明るいうちに家路につくことができます。

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さて、先日の京都旅行は「和」の情緒を重んじたので、ポケットにしのばせたのは、柴田宵曲(しょうきょく;1897-1966)の『古句を観る』(岩波文庫)でした。実は今も読み続けているのですが、その中に「おや」と思う記述があったので、天文や理科との関係は薄いですが、メモしておきます。

宵曲は、陽炎や川の浅みの鮑(あわび)からという元禄の古句を、以下のように解説しています。

 「陽炎が立っている。さらさら流れる川の浅いところに鮑の殻が一つ沈んでいて、きらきら光っている。眩いような明るい趣である。
 われわれの子供の時分には、金魚池などに鮑の殻を鼬(いたち)よけに吊すということがあった。鮑の殻は裏がよく光るので、夜でも鼬が恐れて近寄らぬからだという。そういう貝だけに、川の浅みに沈んでいても、その光が目につくわけであろう。」

これを読んでただちに連想したのは、カラスや鳩を寄せ付けないために、CDをぶら下げるという話です。ネット情報によれば、さしたる効果はないそうですが、いまだにぶら下げ続けている人も多いようです。

宵曲の思い出話は、おそらく明治末年頃のものでしょう。ぶら下げるものこそ時代を反映して、アワビとCDと異なりますが、狙いはまったく一緒です。はたして、この2つの習俗の間には、何か直接的なつながりがあるのかどうか?それとも単なる偶然の一致なのか?


「そんなもの偶然の一致に決まっている。CDをぶら下げる人が、アワビの話を知っているはずがない。そもそも、キラキラ光る見慣れないものをぶら下げれば、動物が警戒して近づかないだろうなんてことは、誰でも思いつくことで、手近なところにアワビがあればアワビを、CDがあればCDを、めいめい勝手に工夫してぶらさげても、何の不思議もない。」 …というのが、常識的な答かもしれません。

しかし、この話題の眼目は、実効性が薄いのに、ついつい人はそういう行動をとってしまうところにあるのではないでしょうか。それが偶然だというなら、いっそう、その偶然に何か意味がないだろうか…と私は思うのです。

CDをぶら下げるという行為、あるいは猫よけに水の入ったペットボトルを立てるという行為もそうですが、ああいうのは実効性はもはや関係なくて、やっている人は、実はある種の呪術的感覚でそうしているのではないかという気がします。

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かつて勇者ペルセウスは、輝くアテーナーの盾で、妖女ゴルゴンの邪視をはねのけて、その首を刎ねました。
あるいは、4世紀の仙道家・葛洪(かつこう)が著した『抱朴子(ほうぼくし)』登渉篇に曰く、「古の入山の道士、皆な明鏡の径九寸已上なるを以て背後に懸くれば、則ち老魅も敢て人に近づかず」と。

鏡は古来「真実の姿を映し出すもの」であり、また輝く太陽の象徴でもあり、妖魅を打ち負かす破邪の具として、多くの文化で神聖視されてきました。もちろん神道の御神体となっている鏡も、そのバリエーションの1つでしょう。

そうした人間精神の古層に横たわる感覚が、時を隔てて、人をしてアワビやCDという卑近なものに向かわせるのではないか…と、まあ、そんな風に思えるのです。
もちろん、これは暇人の思いつきに過ぎないので、眉に唾をつけていただきたいですが、私たちの心の奥に、遠い祖先の心根が宿っているのは、どうも確からしく思えてなりません。

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(話をそっちに振っておいてなんですが)鏡はひとまずおいて、アワビとCDから虹の彩りを連想したので、近いうちに、虹にちなんだモノがたりをできればと考えています。

(分光学の祖、フラウンホーファー記念切手)