神戸の夢(2)2017年03月04日 14時20分13秒

(昨日のつづき)

西 秋生(本名・妹尾俊之、1956-2015)著、ハイカラ神戸幻視行―紀行篇 夢の名残』(2016)は、大正~昭和戦前に、まばゆい光を放った神戸ハイカラモダニズムを、現在の神戸に重ねて幻視する内容の本です。元となったのは、2009~10年に神戸新聞紙上に連載されたコラム、「ハイカラ神戸幻視行―紀行篇」。

当時の神戸は、他の時代や、他の土地では決して見られない、文字通りユニークな文化的オーラをまとった街だった…というのが、西氏の言わんとするところだと思います。そして、それは土地っ子の身びいきではなく――もちろん身びいきの要素もあるでしょうが、それを差し引いてもなお――真実その通りであると、この本を読むと頷かれます。

多くの異人さんが住み、舶来品が毎日荷揚げされた町は、旧来の日本人にとって、まさに異国の町。他方、船に乗ってやって来た当の異人さんにしても、神戸はもちろん異国の町です。神戸は誰にとっても異邦であり、誰もがエトランジェであり、だからこそ自由であり、夢があったのでしょう。そういう無国籍な街は、往々「魔都」になりがちですが、神戸の場合、その明るい風光のゆえか、始終伸びやかな空気が支配的だったのは、まことに幸いでした。

   ★

明治の香りが匂い立つ旧居留地、北野町の異人館、トアロードの賑わい、緑したたる六甲、阪神間のそこここに展開したお屋敷町、往来する市民を明るく照らした元町通りの鈴蘭灯…。

西氏の文章は、どちらかといえば抑制の利いた、客観描写を主とするものですが、その筆致は、かつてそこにあった建物、かつてそこを行き来した人々を活写して、読者を昔の神戸へと誘いこみます。そして西氏自身、ときに「向うの世界」へと迷い込みそうになる自分を抑えかねる風情が見られます。

たとえば、神戸の中でもとりわけ古い地区――かつて福原の都が置かれ、濃い緑の中に寺社が点在し、幕末に勝海舟が寓居した奥平野地区を歩きながら、氏はつぶやきます。

 「私の幻視行は2010年の今日を出発点として、約八十年前、神戸に無類のハイカラ文化が開花した時代を訪ねるものであるが、奥平野を歩いていると、自分がまさに大正半ばから昭和初期のその頃にいて、そこから明治や幕末の昔を偲んでいる、そんな錯覚に見舞われることがある。

だから、あるいは深夜、漆黒の闇が街をすっかり塗り潰してしまうまで当地に留まっていて、それから暗闇伝いに山麓線をたどって行くと、赤いおとぎ話のような錐塔に彩られたトアホテルに行き着くことができるかも知れない。」  (上掲書 p.237)
〔※改行は引用者。引用に際し、年代の漢数字をアラビア数字に変換。以下同じ〕

こうした<跳躍の予感>こそ、西氏が持つ幻視者としての資質を示すものでしょう。

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さらに、本書の中にちょっと妙な記述が出てきます。
それは、明治の末に、西本願寺門主の大谷光瑞が、西洋趣味とオリエント趣味を混ぜ込んで建てた、奇怪な建築「二楽荘」について触れた箇所です。

(二楽荘本館。ウィキペディアより)

 「私は子どものころ、それと知らずに二楽荘を訪れたことがある。記憶にはこの異形の建造物に向き合った鮮烈な時間のみが刻み込まれていて、前後はまったく定かでない。

 真夏であった。いまから振り返ると天王山の急勾配を登り詰めた果てのことだったのだろう、唐突に広がった視界の真ん中に、思いがけず二階建てのがっしりした洋館が聳え立っていて、私は息を飲んだ。異様な外観であった。濃くくすんだ灰色の壁には細長い窓があり、部屋や庇が複雑な形に張り出している。屋根は赤い。右端はドームになっており、尖塔は玉ねぎを半分に切った形に見える。その先には何もなく、ずっと遠くに見える市街と大阪湾のほうからしきりと風が吹き寄せてくる。それで初めて、全身汗みずくになっていたことに気づいた。昼下がり、蝉の声も途切れて、静寂の中に叢のざわめく音が僅かに漂ってくる。…

 時に甦ってくるたび、何か不思議なおもいに包まれる記憶であった。小学校の低学年か、もっと前かも知れない。二楽荘は阪急岡本の北、山の中腹にあり、そこは幼時の私の生活圏のぎりぎり外縁に当たる。夏休みのささやかな冒険だったのだろう〔…〕」
 (同 p.179-80)

汗をかきかき丘を登り、古いお屋敷の中へ…。
いかにも昭和の少年らしい冒険譚です。しかし、問題はこの次です。

 「〔…〕と納得していたが、長じて二楽荘の詳細を知った私は愕然とした。建物の写真は記憶そのままで懐かしかったけれども、しかし、それは昭和7年(1932)、放火と疑われもした不審火によって全焼してしまっていたのである。〔…〕建築家の伊東忠太が≪本邦無二の珍建築≫と評したこの内部へ、たとえ幻であったにしろ、あの時どうして踏み入れなかったのか、悔やまれてならない。」 (同 p.180)

この前後に、納得のいく説明は一切ありません。ただ、幼時の思い出として、こういうことがあった…と述べられているだけです。

一読ヒヤッとする話ですが、西氏亡き今、真相はすべて闇の中ですし、西氏ご自身にしたところで、真相不明であることは読者と同じでしょう。これを記憶の錯誤や、記憶の再構成で説明するのは簡単ですが、こういうことは軽々に分かった気にならず、心の中でしばし味わうことが大切だと思います。

   ★

私が西氏の文章に強く共感するのは、次のような文章を目にしたことも一因です。
足穂の「星を売る店」の舞台となった、中山手通付近の景観を叙す中で、氏はこう述べています。

 「中山手通の南、市電が走っていたこの箇所は、兵庫県公館として活用されている元の兵庫県庁舎と神戸栄光教会のあるあたりである。往時はこれらの北側、いま「県民オアシス」という公園になっている地に、ドームを乗せた石造りの「兵庫県会議事堂」と煉瓦造りの「兵庫県試験場」が隣り合って建っていた(ともに昭和46年解体)。
 
 その竣工年を調べて、面白いことを発見した。
 兵庫県庁舎は明治35年(1902)で古いが、栄光教会、兵庫県会議事堂、兵庫県試験場はいずれも同年で、大正11年(1922)なのである。そして、「星を売る店」 の発表は、翌大正12年ではないか。
 
 すなわち、この作品の≪ちよっと口では云はれないファンタジー≫、≪ちよっと表現派の舞台を歩いてゐるやうな感じ≫は、実に出現したばかりの最先端の都市景観が醸し出すものであったのだ。まことに、ウルトラモダニスト・タルホの面目躍如と言わねばならない。」
 (同 p.158)

この文章を読んで、私はかつて自分が書いた記事を思い出しました。
何となれば、私もこれらの建物の建築年代と、それが「星を売る店」の成立に及ぼした影響に思いをはせていたからです。

(画像再掲。元記事は以下)

■「星を売る店」の神戸(10)…星店へのナビゲーション(後編の下)

西氏の文章は、拙文より数年前に発表されたものです。
私はそれを全く知らずにいましたが、同じ景観を前に、類似した結論に至ったという、その思路の共通性に、今回一方的に近しいものを感じて、大いに嬉しく思いました。

上の記事を書いた時は、西氏とお目にかかる機会も、かすかに残されていました。
その糸も断たれた今、私自身、夢の名残を反芻するばかりですが、しかし、そのこと自体が西氏の追体験でもある…と思えば、単に寂しいばかりではありません。

(この項つづく)

コメント

_ S.U ― 2017年03月05日 07時50分58秒

 この二楽荘の記憶はどうも要領を得ませんね・・・ 当時(きっと昭和30年代ですね)の二楽荘趾はどんな感じだったのでしょうか。当時の航空写真の鮮明なのがあればわかると思うのですが、現在の感じからして、ほとんどサラ地のようだったのでしょう。

 子供に共通の心理かどうかは知りませんが、私も小学校低学年の時に、ごく近くの地方都市の郊外で魅力的な唐草模様の鉄柵と瀟洒な庭のある西洋屋敷を見かけた記憶があります。記憶はその見たと思われる直後から今までずっと継続的に残っています。小学生の時は今一度訪れてゆっくり見てみたいと思っていました。でもその後、その場所は見つからないばかりか、私の近くの地方都市にはそんな雰囲気の場所すらないことを知りました。私の場合は、具体的な場所や道筋はまったく記憶になく、よって完全な虚構(幻視)である可能性がより高いです。(それを言うなら西氏の二楽荘は100%幻視というほかありませんが)

 私の場合はさておいて、道筋まで鮮明な西氏の場合は、足穂が好きだった「花月」の少年のように天狗に誘われたというのがよい説明のように思います。

_ 玉青 ― 2017年03月05日 15時05分56秒

え、S.Uさんもですか。
これは考えさせられますね。
こういうのは、説明は簡単でも、検証はできないですよね。
やはり天狗の仕業とするのが、いちばんスマートかもしれません。
(西氏の文章を最初に読んだとき、「千と千尋の神隠し」を連想しました。)

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