機械仕掛けの星占い2017年09月10日 08時43分14秒

星にちなんだ品といえば、これも一寸得体が知れない品です。


黄道十二星座や惑星記号など、占星術にちなんだシンボルが、びっしり描きこまれた紙箱(9.5cm角)。そのサークル上を、黒い金属指針がくるくる回るようになっています。


「MADE IN GERMANY」と英語で書かれているので、ドイツ生まれの英米向け輸出品のようですが、四隅に目を凝らすと、英・米・仏・独でパテント取得済みであることを誇っています。時代的には、1900年前後のものでしょうか。

詮ずる所、座興として星占いをする遊具なのでしょうけれど、その遊び方が全く分からないし、何よりも得体が知れないのは…


裏面にゼンマイを巻くための穴と心棒が見えることです。


蓋を留める金具を外して、そっと箱を開けてみると、果たして中にはゼンマイ仕掛が仕込まれていました。


錆が浮き、埃にまみれた、この歯車がクルクル回る時、運命の指針も回転を始め、厳かに目の前の相手の将来を告げる…。

あまりにも素朴な「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)」ですが、これで十分に物理的なランダム生成装置たりえているならば、その託宣力は、熟達した術者にも、おさおさ劣りますまい(ゼンマイに頼らなくても、サイコロを投げても同じことです)。

完璧な偶然にこそ神意が示される…という観念は、時代と国を超えて強固なものがあるでしょうが、この紙箱もその延長線上にある品だと思います。

コメント

_ S.U ― 2017年09月10日 17時18分45秒

>完璧な偶然にこそ神意が示される

 下のようなストーリーを考えました。
 
 神が、機構(からくり)Aと機構Bを作ります。両機構は同種のものでも異種のものでもかまいません。機構Aと機構Bは人間に与えられ、人間がそれぞれを操作することにより、機構Aはいくつか(複数)の可能性からある状態を託宣として与えます(たとえば、大吉、吉、凶のなかからどれかが出る)。機構Bも同様です。ここで、人間は、機構A、機構Bのうちの少なくとも一方を操作し(両方でも良いが、その場合は2つを独立に操作する)、託宣を観察するものとします。

 そうしますと、人間は、多数回の経験によって、機構Aの託宣、機構Bの託宣は、それぞれの可能性の中からインチキ無しの偶然によって決まっていることを知ります。 しかし、同時に、機構Aと機構Bの結果には必ず、強い相関(例えば、Aの託宣が大吉ならBは目出度い出来事。Aが凶ならBは嬉しくない出来事。)があることも発見します。Aの結果を見ると、Bの結果が正確に推定できるほどです。しかし、A, Bはあらかじめ決まった託宣が(ある順番で)出るように仕込まれているわけではありません。インチキ無しで、操作した時に完璧に偶然に決まっているようにしか見えません。
 Aの結果から推定ができるとは言え、Bの結果はAの偶然の結果に従って決まっているので、Bの結果の操作のしようはなく、(A,B)全体として偶然に決まっているような事情は変わりません。

 まあ、ざっとこんな感覚なのでしょうか。

 なお、上のストーリーは、量子力学の観測問題で、「EPRパラドックス」あるいは「量子もつれ」と呼ばれているものと同型になるようになぞらえました。ただ違うのは、機構が機械(マキナ)の時は同じ機械で何度も託宣が聞けるのに対し、機構が量子(クォンタ)の時は1つについては一度っきりの使い捨てであることです。
 しかし、神は(あるいは実験装置)は、次から次へと同等の機構A,Bの対を生成・放出してくれるので、使い捨てでも問題ありません。なぜだかわかりませんが、極めて多数回の観察によると、量子系という機構は上の性質を持っているようです。人間の感覚が、量子力学の不思議な性質を見通しているとするなら驚きです。

_ 玉青 ― 2017年09月11日 06時36分34秒

S.Uさんのお話に乗っかって、私もこんなことを考えてみました。

   +

ある世界の住人にとって、機構Aと機構Bの背後にひそむカラクリは全く自明のことではなく、完全に偶然に支配されているはずのAとBの託宣が、なぜ相関を示すのか(Aが決まればBが決まり、逆もまた然り)は、深い謎に包まれていました。

しかし、その世界に千年に一人の天才が現れ、AとBは実は「サイコロ」と呼ばれる物体の一部であり、AとBはその物体の上(表)の目と、下(裏)の目に対応しているのだと喝破しました。

サイコロの存在を知らず、その構造をイメージすることすらできない、その世界の住人たちにとって、天才氏の言葉はおよそ理解を超えるものでしたが、徐々に「この世界はAとBの合計が必ず7になるようにできているのだ。そこに深い理由はなく、最初からそういうものなのだ」ということは、徐々に常識として広まっていきました。

   +

…というふうに考えてみると、何かが分かったことになるんでしょうか、ならないんでしょうか?

仮に一辺が1光年のサイコロを作って振ったとき、たまたま1の目が出たら、その反対側の目は直ちに(光速を超えて瞬時に)6だと決定する…というのと、量子テレポーテーションの話は、何が同じで、何が違うのか、その辺からしてちょっと分かってない自分がいます。こうなると、そろそろカソク長屋のご隠居の出番でしょうか。。。。

_ S.U ― 2017年09月11日 13時04分27秒

機構Aと機構Bの間に情報のやりとりがあるか、特に両機構が人知れず巨大な機械として結びついている可能性は重要ですね。上のストーリーはそこに触れてはいませんでした。

 でも、幸いにしてご期待通り、これらの点のうち、「情報伝達とは何か」、「相対性理論の光速の制限との関係は?」、「機械と量子との違い」の問題については、カソク長屋のご隠居のかなりつっこんだ議論が上のURLで行われておりますので、ご覧いただければ、半分くらいは納得いただけると思います。

 しかし、残りと半分として、機械(マキナ)と量子(クォンタ)の共通点、相違点に関して、その意味上「何がわかったことになるのか」となりますと、疑問が残りますので、以下で少し補足の検討をします。

 巨大なマキナのサイコロが宇宙にあるとして、それが無重力空間に浮いて自転している状態では出目が定まりませんので、サイコロを止めるために、数光年平方の双六盤なり麻雀卓なり盆茣蓙なりがあることになります。この場合は、サイコロの裏面の角か辺かが盤に触れてそこの摩擦と回転の応力兼ね合いで、角が滑ってサイコロが停止し、裏面が確定し、その裏面の情報が表面にメカニカルに伝達されるものと思います。サイコロが分子間力によって6面を強固に固定した機械である限り、分子間力によって「物理的」に情報が伝達される(よってサイコロはシワって変形し、光速より伝達は遅い)ことは間違いないものと思います。

 一方、クォンタのサイコロの構造は不明ですが、それがあるにしても、それの両面の間で情報伝達が行われていることは否定できないと思います。相関関係があって、イカサマの仕込みがないなら、「情報伝達がない」と言い切ることは証明困難でしょう。

 したがって、マキナのサイコロでもクォンタのサイコロでも、情報伝達があることは同じで、ただ、それが相対論(光速以下)の制限を受ける(マキナ)か受けない(クォンタ)の違いとあると思います。光速以下の場合は因果律があって、情報の伝達の向きA→BあるいはB→Aのうち、どちらか一方のみが確定します。光速を超える場合は、向きが確定しません。さらに、AでもBでもない場所にCがあって、C→A, C→Bというふうに指令が来ているのかもしれません。Cを異次元にある神の秘密基地とすると、結局は、クォンタの場合は、「深い理由はなく、最初からそういうものなのだ(~神様次第)」という諦観が復活することになりかねません。

 結局、「何がわかったことになるのか」が不明瞭なので、ここでものの本(*)にあたって見ました。と、そもそものEPRパラドックスで、アインシュタインらは、量子でも情報が光速を超えないことを前提に量子力学の矛盾を述べていたのですが、ここで我々は「光速を超えて何が悪い」と居直ることになります。また、人間が機構を操作する自由意志と、機構A、機構Bにおける局所性(A,Bの操作が独立であること)を前提にすると、量子力学の実験結果から託宣の仕込みは完全に排除されて、託宣は「非決定的」に出るという論理的結論になるそうです。これは、つまり、素粒子(あるいは神)のレベルに自由意志があることになります。従って、ここでも「神は、彼専用のサイコロを振るのだ」と居直ることになります。

 ある意味、「『納得がいかない』ということ自体が(積極的に)わかった」と言えるかもしれません。

(*)筒井泉『量子力学の反常識と素粒子の自由意志』(岩波科学ライブラリー)(2011)

_ S.U ― 2017年09月11日 13時07分03秒

すみません。上のコメントで、「上のURL」(カソク長屋のURL)が正しく入っていませんでした。こちらに訂正します。

_ 玉青 ― 2017年09月12日 07時07分32秒

ありがとうございます。
ご隠居とS.Uさんのおかげで、マキナのサイコロとクォンタのサイコロの関係が分かって、頭の中の霧が晴れたようです。

巨大なのマキナのサイコロを振って、裏目の6を見た人は、表目が確定する前に、それが1であることを自信を持って予言できますが、それを表目側の人に伝える手段は、光速を超えることがないので、結局、瞬時に情報が伝わっているわけでも何でもないですよね。

クォンタのサイコロを使えば、「表目が確定する」までの時間は大幅に短縮(=時間差ゼロ)しますが、ただ裏目側の人と表目側の人のやりとりに関しては、マキナのサイコロと状況はまったく同じで、ただし、「対向面に出る目の予言」が、「裏目←→表目」の双方向で可能になるところが、マキナのサイコロと違う…という風に理解しました。

それと、クォンタのサイコロについては、その構造・からくり一切不明だとS.Uさんからお墨付きを得たので、それについては、これ以上思い悩む必要がないことも分かりました。そもそも、からくりの有無もはっきりしないので、「最初からそういうもの」で片付けてもいいぐらいですが、それだと一寸癪なので、“人間には見えないけれども、「からくり」はきっとあるんだ、おそらく別の次元を通して情報がやり取りされているんだ”とか何とか考えた方が、精神衛生には良い…という現状でしょうか。

でも、あえて告白すれば、私は八つぁんの「状袋」の理屈にすっかり感服してしまい、ご隠居の方が何か間違っているような気さえするので、やっぱり何も分かっていないのでしょう。

ここで、もういっぺん自分の頭の中を覗いてみると、いちばん負荷がかかっているのは、「情報とは何か」という部分で、そこがさっぱり分かっていないので、考えがそこから先に進めないようです。で、例によってウィキペディアの「情報」を見に行くわけですが、ここから話はさらに混沌として、いったん晴れた霧が再度流れてくるような感じです。。。

_ S.U ― 2017年09月12日 17時38分09秒

長屋談義をお読み下さり、また、コメントをいただき、ありがとうございます。

 玉青さんのご理解と私のそれに大差ないと思いますので、ここでは、ご指摘の主要点に私の多少の説明と感想をつけて、良しということにさせていただきたいと存じます。

>クォンタのサイコロについては、その構造・からくり一切不明
 私の言う「不明」には二義性がありますので補足をします。1)クォンタのサイコロの基本的な動作構造は既知で、それは「量子もつれ」や「量子テレポーテーション」の数式で表されるようなものであるが、将来「情報伝達機械」として実用化された場合にどういう用途や機構を持つ物になるかは不明。2)量子力学による光速を超えた情報伝達がどのような仕組みで起こるのかは不明。ここで、1)と2)の「不明」は独立であるように思います。私は、1)量子情報をそのまま通信する用途は限定的、2)たぶん「別の次元を通して情報をやり取り」が気楽(玉青さんと同じ) のような気がします。「別の次元を通して」は、将来実験できるかもしれません。

>「状袋」~ご隠居の方が何か間違っているような
 おそらくご隠居が自明に正しいのは、状袋をちゃぶ台の上に置く行動、それを発見する行動がともにマクロな物質で機械的に行われる場合に限られるでしょう。より一般的に、物理的事象の影響が波動で広がっていくように考えると自明でなくなるかもしれません。それはちょうど、いびつな形の古池に石を投げ込んで、その石の潜入位置をそこから広がっていく波面を古池の周囲で捕らえて推定するようなイメージです。ここで乱流のような非線形やカオスが起こると一筋縄ではいきません。また、「式辞」が紙ではなく量子的な記録で月まで伝送されることになっていた場合は、実際に八つぁんの家から月着陸船まで一体モノの量子系になり得ますので、ちゃぶ台での観測をもって初めて月に届かないことが確定することもあります。

>「情報とは何か」という部分で、そこがさっぱり
 これについては、量子力学と相対論がその本質を押さえているように見えて、それでも完全とは思えないという問題があるのではないでしょうか。量子力学と相対論では、「情報」とは「因果を保って異なる時空点に伝播されるもの」という定義にほぼ尽きるように思います。しかし、「因果を含められた」伝播のイメージは、半古典的な「古くさい物理」の道具立てに頼るしかないようです。(これは素粒子レベルがほぼ時間反転対称なので、因果の向きの非対称は、エントロピーとか波束の収縮とか球面進行波とかにかかって来がちだからです)。とかく先端的イメージに欠けます。結果的に、情報とは「エネルギーの時空間分布の偏りの維持」程度のことになり、原因と結果の諸般の事情について捨象されているように感じます。それで本当によいのか、それとも他の何か別の学問(文学とか)を援用すべきなのでしょうか。物理学は文学の介入を許すのでしょうか。

_ 玉青 ― 2017年09月13日 23時59分56秒

重ねて解説をいただき、どうもありがとうございます。

1番目と2番目の論点については、ご説明を読み、理解が大いに進んだような気がします(あくまでも気がするだけですが)。特に2番目のご指摘は、ちょうどもやもやしていた点なので、すっきりしました。

ただ3番目の「情報」については依然手ごわいです。
再度ご説明を味読すると共に、自助の取り組みとして、昔買った情報理論についての本を本棚の奥から探してみます。

_ S.U ― 2017年09月14日 06時55分56秒

>情報理論についての本
 よろしくお願いします。単純に予想すると、情報科学者は「情報とはデジタル化できるもののことである」、文学者は「情報とは言語化(あるいは記号化)できるもののことである」と定義するかもしれません。物理学とは何か本質的に違うように感じます。

 と、ここで以下のようなことを思いつきました。
 物理学でも、数値や記号化された「物理の情報」があります。例えば、電子1個の質量値とか真空中の素粒子場の相互作用を示すラグランジアンとかです。でも、こういうのは究極的には「宇宙の真理」の一端であり、それは宇宙(神)にとっては「開闢以来、自明のもの」であって、情報と呼ぶべきものではないような気がします。
 これは算数でもよくて、たとえば「1+1=2」というのは小学1年生にとっては有用な情報ですが、小学校も高学年になって自然数の加法体系全体を前提にしてしまえば、整数+整数が定まった整数になること、1+1を2と呼ぶことは、公理の一端であって新たな情報でもありません。

 えらいことを思いついたと思いましたが、結局、よくわからなくなってきました。また、とにかく、よろしくお願いします。

_ 玉青 ― 2017年09月15日 23時44分21秒

>えらいことを思いついた

S.Uさんならではのアッハ体験ですね。
例の本(本棚にあったのは、情報理論の古典、ピアースの『記号・シグナル・ノイズ』でした)は、まだ全体の10分の1ぐらいしか読んでいませんが、私も大いにアッハしました。

情報理論は通信理論を母として生まれ、母たる通信理論は、昔の有線電信のような素朴なテクノロジーを背景に発展したものだ…というのが、今回の第一の気付きです。通信理論は、長い電線を介して信号を送る際、必然的に生じる減衰やノイズの問題を克服し、最も多くの情報を、短時間で確実に送信する方法は何か?…という、わりと単純な問いに答えるために発展した学問らしく、そう聞いてみれば、いろいろ得心することが多いです。

通信という文脈で考えると、情報にしろ、informationにしろ、それは「報ずること」であり、「informすること」ですから、そこには<送り手>がいて、<受け手>がいて、その間で何かがやりとりされる、そのやりとりされるものが<情報>なんだ…というイメージですよね。要するに情報とはデータそのものです。

私はこれまで少しく混乱していたのですが、情報に<意味>が伴う必要はなく、無意味な記号列でも全然構わなくて、ただ送り手の手元にあるそれが、どうやったら受け手に正確に伝わるか、すなわち通信の信頼性をどう確保するかに、情報理論は注目しているようです。

たぶん<意味>とは、受け手の側で情報を<解釈>する際に附与される、情報それ自体とは別の何かなのでしょう。ですから情報が正確に伝わっても、送り手にとっての意味と、受け手にとっての意味がずれる可能性は常にあります(例えば、送り手は「麦の蒔き時だ」という意味で、『獅子が東に昇った』と送信したのに、受け手の方はそれを「革命の時は来たれり」と解釈する…など)。

余談ですが、ここで私が大いにアッハしたことがあります。
若年のころ、私は唯我論にどっぷりはまっていたんですが、唯我論のどこが不健全だったか、今回改めて分かった気がします。おそらく唯我論というのは、情報を解釈して意味を紡ぐ役目が、もっぱら受け手に任されているため、「偽りの万能感」が受け手に生じた結果なのでしょう。本人はいい気になって、「この世界は全部自分が作り出したのだ」と威張っていますが、大元の情報そのものは「送り手」の存在なくしてはあり得ないもので、威張っているわりに、情報そのものを本人が改変できないことが、その何よりの証拠です。端的に言って、唯我論者は謙虚さに欠けます。

何だか当たり前のことを、さも仔細らしく書いていますが、でも情報と意味を分離できただけでも、私にとっては立派な収穫です。

   +

ところで、話をちょっと前に戻すと、情報が光速を超えてやりとりされること自体にアプリオリな制限はなく、光速を超えても全然構わないのですが、ただ現実の宇宙では、やりとりする<手段>の方が、光速を超えることはないと決まっている(らしい)ので、結果的に、情報も光速を超えて伝わることは(めったに)ない…という整理で良かったですよね?

_ S.U ― 2017年09月16日 06時55分37秒

>アッハ体験
 こういうのをアッハ体験というのですね。知りませんでした。アッハッハ体験とか、なんちゃって体験でなくてよかったです。

>情報理論
 ご教示ありがとうございます。実用的な通信をベースに考え、意味はあとから付加するわけですね。これは、案外、素粒子の場の理論の考え方に近いように思いました。そこでは、プロパゲーターというのが飛んでそれを別の粒子がキャッチして後者を観測します。意味がわかるのは、後者の波が観測行為で収束してからの話になります。「情報とは」については、「素粒子物理万能主義」の適用が案外しぶといような気がしてきました。
 「唯我論」すら、送り手と受け手を対称化し、「情報」の意味の有無、観測者の客観・主観を何らかの数式上の形式で区別できれば、最終的には、素粒子場の論に健全に取り込めるかもしれません(←うち続くアッハ体験)。

>話をちょっと前に戻す
 おっしゃるようなご理解で良いと思います。おそらくは、ご隠居がぼそぼそ言っていることは暫定的には正しいと思います。超光速の「情報伝達」は一体物のクォンタ機構間に限られていて、かつ、その場合、情報が因果の向きを伴っていないので(意味を含んだ)「真の情報」とは言えない、というのはもっともらしいのではないでしょうか。

_ 玉青 ― 2017年09月16日 11時34分54秒

ゼンマイ仕掛のおもちゃから始まって、神のゼンマイ仕掛まで話が深まり、今回も大いに収穫がありました。どうもありがとうございました。今後もアッハッハと呵々大笑しつつ、お付き合いの程願います。それと、長屋の皆さんにも、ぜひよろしくお伝えください。(花見の頃には、ひとつ角樽でもお届けすることにしましょう。)

_ S.U ― 2017年09月16日 13時06分30秒

こちらこそ、ありがとうございます。

>花見の頃には、ひとつ角樽
これはとても喜ばれると思います。
 今年の長屋の花見では、湯呑みをのぞくと「酒柱」が立っていました。

_ 玉青 ― 2017年09月17日 07時57分50秒

あはは。

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