山の星空 ― 2023年03月01日 19時03分36秒
いつのまにか3月。あれ?と思いますが、2月は寸が詰まっているので、するりと月が替わってしまう感じがいつもします。何だか手妻を見せられているようです。
今年の啓蟄は3月6日、今度の月曜日。いよいよ本格的な春の訪れです。
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「山の星空」と題された、こんな星座早見盤を見つけました。
(高さは15cmと小ぶり)
名前のとおり、登山の際の星見の友として作られたものです。
その大きな特徴は、普通の星座早見盤とは逆に、北を向いて使うようにデザインされていることで、山行では北極星を目当てにすることが多いので、むしろこの方が使いやすいという配慮だそうです。
私はへそ曲がりなので、電通系というところが気に入りませんが、この四方をぐるりと高山に囲まれた星空は、なかなかいいと思いました。
山並みのデザインばかりではなく、この凡例を見ると、小さな盤面に非常に多くの情報を盛り込んでいることがわかるし、
経度差の調整機能もしっかりしていて、単なる色物的な早見盤ではなさそうです。
電通に乗せられるのも癪ですが(しつこい)、これはデザイン勝ちでしょう。
なお、これは現行の製品なので、ネットで普通に購入できます(LINK)。
太歳太白、壁に合す(たいさいたいはくへきにがっす) ― 2023年03月04日 09時47分38秒
タイミングを逸して、いくぶん気の抜けた記事になりますが、今週末の木星と金星の接近。何と言っても全天で一二を争う明るい惑星が並ぶというのですから、これは大変な見もので、何だか只ならぬ気配すらありました。昔の人ならこれを「天変」と見て、陰陽寮に属する天文博士が、仰々しく帝に密奏したり、大騒ぎになっていたかもしれません。
(群書類従「諸道勘文」より)
今回の異常接近はうお座で生じましたが、二十八宿でいうと「壁宿(へきしゅく)」あたりで、今日のタイトルは、そこで太歳(木星)と太白(金星)が出会ったという意味です。壁宿は占星では「婚姻に吉」とされるそうなので、折も良し、両者の邂逅はまるで男雛女雛が並んでいるように見えました。
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西洋に目を向けると、ジュピターとヴィーナスはローマ神話由来の名前で、ギリシャ神話だと、それぞれ主神ゼウスと美神アプロディーテに当たるので、これまた好一対です。
(シガレットカード「星のささやき(What the Stars Say)」シリーズ(1934)から。イギリスの煙草ブランド‘De Reszke’(デ・レシュケ/デ・リスキー)のおまけカードです))
ただ、神話上、両者に婚姻関係はなく、ゼウスから見るとアプロディーテは娘(母はディオーネ)、あるいは息子(へパイトス)の嫁と伝承されています。そしてゼウスは周知のとおり多情な神様で、正妻ヘラ(星の世界では小惑星ジュノーに相当)以外に、あちこちに思い人がいたし、アプロディーテもアレス(同じく火星に相当)と情を通じたとか何とかで、なかなか天界の男女模様もにぎやかなのでした。
(ギリシャの学校掛図。惑星名はすべてギリシャ神話化されています。内側から、水・エルメス(へルメス)、金・アプロディーテ、地・ギー(ガイア)、火・アレス、木・ゼウス、土・クロノス、天・ウラノス、海・ポセイドーン、冥・プルトーン)
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話を東洋に戻すと、陰陽道では木星(太歳神)と土星(太陰神 たいおんじん)を夫婦とみなす考えがあるそうで、これは肉眼で見ても、惑星の実状に照らしても、何となく腑に落ちるものがあります。太っちょで赤ら顔の旦那さんと、派手なアクセサリーを身につけた奥さんといったところですね。
お知らせ ― 2023年03月07日 07時08分04秒
今度、「現代天文文化論」と銘打って、日頃ここで書いているような天文趣味史をめぐる話題について話をする機会が得られました。現在、その準備をしています。これまで自分が言ってきたことを反芻しつつ、考えをまとめるのに時間がかかっているので、ブログの方はしばらくお休みです。
三味線を弾く男 ― 2023年03月17日 17時13分48秒
今日は「現代天文文化論の試み」と題して、天文学史研究会でお話をさせていただきました。まあ、話した内容は、いつもこのブログに書いているようなことです。
すなわち、日本で特異的に進化した「天文アンティーク」をめぐる最近の文化的ムーブメントについて、そしてそこに影を落としている、野尻抱影由来の天文ロマンチシズムとか、漫画文化の影響とかいったようなことです。
しかし、話しているうちに、だんだん自分がほら吹き男爵になったような、図々しさと後ろめたさがないまぜになったような気分になって、いささか背中に汗をかきました。でも、冷静に考えると、このブログは最初から「駄法螺ブログ」の色合いが濃いので、たまたま真っ当な議論の場で、真っ当な光を照射されたために、その事実が改めて露呈したに過ぎない…とも言えます。
さはさりながら、世間の潤滑油として、駄法螺には駄法螺なりの効用もあり、これからも懲りずに駄法螺の開陳を続けることにします。
怪しい笑みを浮かべつつ、マンドリンの弾き語りをする男。
日本語で「三味線を弾く」といえば、適当なことを言って調子を合わせたり誤魔化したりするという意味ですが、なんとなく今の気分はこんな感じですかね。
モノの方は、ドイツのポスタースタンプ、つまり切手の形を模した販促用のおまけシールです。多色石版刷りで、時代は20世紀初頭と思います。エッセンのクルップ鋳鋼社(Krupp Stahl)が販売していた、「コメット」ブランドのスチール弦の宣伝用シールのようです。
彗星はどこにでも ― 2023年03月18日 10時20分58秒
昨日の品は、他の2枚のポスタースタンプと一緒に、ドイツの古書店から買いました。
こちらは18世紀に遡るという老舗の食酢メーカー、キューネ(Kühne)社のコメット印のお酢の宣伝シールです。
こちらは「新たな彗星!(Der neue Komet !)」とビックリマークが付いていますが、ニョロっとした変な形の彗星だなあ…と思ってよく見ると、これは「フォアヴェルツ靴下(Vorwärts Strumpfwaren)」というメーカーの宣伝で、確かにこの彗星は靴下の形をしているのでした。
昨日のスチール弦は、音楽にちなむ分、いくぶん雅な要素がなくもありませんが、お酢とか靴下とか、ひどく散文的なところにも彗星が登場しているのが、むしろ興味深いです。
スチール弦も含め、いずれも彗星とは全然関係ない品々ですが、1910年にハレー彗星がやって来る前後、彗星は何となくカッコいい存在であり、カッコよさの記号として彗星が多用されたんだろうなあ…と想像します(たぶん、その感性は今も健在でしょう)。
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それにしても、これがまとめて売られていたということは、これをまとめて(古書店に)売った人がいるんじゃないでしょうか。「彗星をテーマにしたスタンプシール」という、ひどく細かい世界に執着した人が、私以前にもいたのかなあ…と想像すると、強い親近感を覚えます。
ハロー、CQ、CQ、こちらはバチカン天文台 ― 2023年03月19日 10時54分14秒
これも紙モノと言っていいのでしょうが、こんなものを見つけました。
「スペコラ・ヴァティカーナ」、すなわちバチカン天文台に設けられたアマチュア無線局「HV2VO」から送られたQSLカード(交信証明書)です。バチカンにハム(アマチュア無線)マニアがいたと知って、「へえ」と思いました。
珍しさついでに、細部に注目してみます。
右肩のスタンプは、カトリック・プロテスタント・正教会を包摂する「世界教会協議会」のロゴマークで、十字架のマストを立てて海に浮かぶ船は、キリスト教会のシンボルだそうです。
裏面を見ると、問題のバチカンのハムマニアは、エドムンド・J・ベネデッティという人です(最後の「S.J.」はイエズス会士を意味する、一種の称号)。
交信日は1985年2月16日、交信相手はW2NCG(ニューヨークに開設された無線局で、その主は戦中から無線趣味にはまっていた、Ralph Gozen(Golyzniak)というベテランの由)。使用周波数は7メガヘルツ帯で、交信はCW(電信)、すなわちトン・ツーのモールス信号で行われました。通信状況を示すRSTコードは最高度の「599」、すなわち「完全に了解可能で、電波も非常に強く、モールス信号の音調も問題なし」。QSLカードは、先にRalphさんの方から届いたので、「TNX(Thanks)」にチェックが入っており、末尾の「73」は、アマチュア無線家が交信を締めくくるときの符牒で「Best regards」の意味です。
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ハムには小学生の頃憧れたので、こういうのを見ると心にチカっと来るものがあります。それに何と言っても舞台がバチカン天文台ですから、二重三重に興味を惹かれます。
探してみるとこのバチカンのQSLカードはいろいろあって、もう1枚見つけたのがこれです。
ローマ教皇の離宮である、ローマ南郊のカステル・ガンドルフォ(ガンドルフォ城)と、そこに併設されたバチカン天文台の航空写真をデザインしたものですが、バチカン天文台は1980年代に入ってから、アメリカのアリゾナ州に観測拠点の移転を進めたので、これはバチカン天文台が、文字通りバチカンと結びついていた末期の姿ということになります。
こちらも裏面を見てみます。
こちらの交信日は1984年12月7日。交信相手はこれもアメリカにあったW2FP局です(主はニュージャージーのWalter Bernadynさんで、2015年に亡くなられた由)。このときも電信でのやり取りで、RSTは「599」でした。
このカードを見ると、バチカンのアマチュア無線局はHV2VOだけではなく、ベネデッティさんを含む5人が、それぞれ独自のコールサインを持って交信を行っていたことが分かります。こうなると、「よし、この5人のカードを全部集めるか!」と思ったりもしますが、そこまでいくと一寸やり過ぎなので、QSLカードはこれで打ち止めにします。
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バチカンのハムマニア、ベネデッティさんの事績は、『ヴァチカン天文台年報2016』【LINK】に、その訃報とともに載っていました(pp.51-2、以下改行と太字は引用者)。
「エドムンド・ベネデッティ・カリトウスキー神父(イエズス会士)が、〔2016年〕12月13日にバルセロナで死去した。
ベネデッティ神父は1920年にロンドンで生まれ、1935年にイタリアのトリノでイエズス会に入り、1950年にインドのダージリンで叙階され、80年間をイエズス会士として、また66年間を司祭として活躍した。彼は、その長く魅力的な人生の中で、南米でも幅広く活躍した。1950年代にロンドンでエンジニアとしての訓練を受け、1978年にバチカン天文台に入り、望遠鏡のエンジニアとして働き、趣味のアマチュア無線「ハム」に熱心なことでも有名だった。
観測陣がアリゾナに移転するのに伴い、1988年にはツーソンに着任し、1992年までVATT(Vatican Advanced Technology Telescope、バチカン新技術望遠鏡)の機器開発に参加した。彼の特筆すべき業績は、アリゾナとアルゼンチンの望遠鏡で広く使用された偏光計VATTPolの開発に携わったことである。
天文台での仕事を終えた後も、VATTの所在地からほど近いウィルコックスの教区司祭としてツーソンに留まり、天文台のコミュニティと関わりを持ち続けた。1998年には、テキサス州コーパスクリスティに移り、80代半ばまで教区の仕事を続けた。2004年、引退してスペインに移住(ブラジルへも何度か旅行した)。」
ベネデッティ神父は1920年にロンドンで生まれ、1935年にイタリアのトリノでイエズス会に入り、1950年にインドのダージリンで叙階され、80年間をイエズス会士として、また66年間を司祭として活躍した。彼は、その長く魅力的な人生の中で、南米でも幅広く活躍した。1950年代にロンドンでエンジニアとしての訓練を受け、1978年にバチカン天文台に入り、望遠鏡のエンジニアとして働き、趣味のアマチュア無線「ハム」に熱心なことでも有名だった。
観測陣がアリゾナに移転するのに伴い、1988年にはツーソンに着任し、1992年までVATT(Vatican Advanced Technology Telescope、バチカン新技術望遠鏡)の機器開発に参加した。彼の特筆すべき業績は、アリゾナとアルゼンチンの望遠鏡で広く使用された偏光計VATTPolの開発に携わったことである。
天文台での仕事を終えた後も、VATTの所在地からほど近いウィルコックスの教区司祭としてツーソンに留まり、天文台のコミュニティと関わりを持ち続けた。1998年には、テキサス州コーパスクリスティに移り、80代半ばまで教区の仕事を続けた。2004年、引退してスペインに移住(ブラジルへも何度か旅行した)。」
(Edmund Benedetti Kalitowski(1920-2016)。ほぼ御当人で間違いなかろうと思いますが、画像検索の結果からリンク先にうまく入れず、出典は不詳)
【参考記事】
■ヴァチカン天文台廃絶?
囚われのガリレオに会いに行く ― 2023年03月21日 05時57分37秒
バチカンといえば、一つずっと気になっていたことがあります。
それは10年前の以下の記事を書いた時から引きずっているものです。
■Don’t be curious.
この10年前の記事は、カトリックの『禁書目録』を取り上げたものですが、そこで私が果たせなかったのは、ガリレオの名前がそこに載っているのを見ることでした。
『禁書目録』には大量の人名・書名が収録されていますが、その一部が以下のページにデータとして載っています。それによると、ガリレオの名前が『禁書目録』に載っていたのは1835年までで、私が以前手にしたのは1905年版ですから、当然その名前はありませんでした。
「それを見てどうするんだ?」というのは真っ当な考えで、確かにそれを見たからといって、社会の動静にも、私の人生にも、いささかの影響もありません。でも、それを言ったら、エッフェル塔を見るのだって、ナイアガラの滝を見るのだって、同じことでしょう。この自分の目でそれを見たい――たったそれだけの理由で、人は月や火星にだって出かけていくものです。
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そんなモチベーションに突き動かされて、私は新たにもう1冊の『禁書目録』を入手しました。今度のものは、前回よりもさらに200年古い1705年に発行されたものです。
時代も古いし、ごく粗末な紙装丁なので、崩壊を防ぐために新たに保護用の帙をあつらえたほどです。
扉にその名が見える時の教皇は、クレメンス11世(1649-1721/在位1700-1721)。
さて、ここにガリレオはいるのか、いないのか?
ページをめくっていくと、「G」の項目にぴたりと目が留まります。
いた! 紛れもなく「Galileo Galilei」。
そこには「Dialogo di Galileo を見よ」と註があるので、さらにそちらも見に行きます。
(一番上の行)
なるほど、ありました。1632年に出た彼の代表作『天文対話』です。(長々と訳せば、『ガリレオ・ガリレイの天文対話 ― プトレマイオスとコペルニクスの二大世界体系について4日間にわたる会合にて論ず(Dialogo di Galileo Galilei: Dove ne i congressi di quattro giornate si discorre sopra i due massimi sistemi del mondo Tolemaico, e Copernicano)』)
ガリレオはバチカンにとって忌むべき存在であり、その著書は禁書だったのだ…ということを、こうして私は自分の目で確認したのです。もちろん、それは誰でも知っている事実でしょうが、それを自分の目で見た人は少ないはずです。そのことに満足を覚えつつ、私のささやかな「旅」は終わりました。
★
でも、せっかくですから、ついでに他の「見所」にも足を伸ばしてみます。
そこには、ケプラー(ioannis Keppleri)がいました。
そして、もちろんコペルニクス(nicolaus Copernicus)もいます。
「ああ、やっぱり!」と、心の中で叫んでいる自分がいます。
天文学や歴史の本で知ったことを、私は自分の手の中で、今、まぎれもない事実として眺めたのです。もっと言えば、このくすんだページと活字こそが、天文学の歴史そのものであり、私はその歴史を自ら体験したのだ!…とさえ言えるかもしれません。
(これが今回作ってもらった帙。下は開いたところ)
ガリレオ問題(The Galileo Affair) ― 2023年03月24日 18時04分56秒
バチカン天文台が盛んに「ハロー、CQ、CQ」とやっていた頃、ポーランドのクラクフで4日間に及ぶ学術集会が開かれました。1984年5月24日から27日まで行われた「クラクフ会議」です。
会議後にまとめられた論文集が、この『ガリレオ問題―信仰と科学の出会い』と題された冊子です。
発行元はバチカン天文台で、時の教皇はヨハネ・パウロ2世(1920-2005/在位1978-2005)。この教皇は、この会議後の1992年に、ガリレオ裁判が誤りであったことを正式に認め、ガリレオに謝罪した人です。そして、クラクフは教皇の出身地でもありました。そういう意味で、これは非常に象徴的な1冊と感じられます。
冒頭の献辞にはこうあります。
「今から50年前の1935年9月29日、教皇ピウス11世聖下は、カステル・ガンドルフォに、J. ステイン神父を長とする新バチカン天文台と、A. ガッテラー神父を長とする新天体物理学研究所を開設された。宗教的信仰と科学的研究は両立することを、目に見える形で世界に示そうという教会の継続的努力を力強く先導されたお二人と、彼らに協力された方々に本冊子を捧げる。 編者一同」
会議に顔を揃えた15人のうち、5人が「Rev.(~師)」の肩書を持つ聖職者で、残り10人が俗人の研究者です(本書の編者であるG.V. Coyne、M. Heller、J. Źycińskiの3人はいずれも聖職者)。所属機関の国別だと、バチカン2人、アメリカ4人、デンマーク1人、ポーランド8人という配分になります。
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この論文集を勇んで読もうと思ったのですが、私の英語力の限界もあるし、そもそも寝転がってサラサラ読める類の本ではないので、ここでは後の参考として、目次だけ訳しておくにとどめます。
■第1部 ガリレオ問題の歴史
W.A. Wallace 「ガリレオの科学概念」
J. Dietz Moss 「ガリレオがコペルニクス体系について記述する際の証明レトリック」
J. Casanovas 「ガリレオ当時の年周視差問題」
O. Pedersen 「ガリレオの宗教」
G.V. Coyne & U. Valdini 「青年期のベラルミーノの世界体系に関する思想」
■第2部 ガリレオと科学の進歩
M. Heller 「ガリレオにとっての相対性」
M. Lubański 「ガリレオの無限に関する見解」
J.M. Źyciński 「ガリレオの研究プログラムは、なぜ競合する他のプログラムに取って代わったのか」
K. Rudnicki 「ガリレオの方法論を適用する上での限界」
■第3部 ガリレオ問題の文化的反響
P. Feyerbend 「ガリレオと真理の専制」
F.M. Metzler 「ガリレオの発見における神話と想像力」
W.A. Wallace 「ガリレオの科学概念」
J. Dietz Moss 「ガリレオがコペルニクス体系について記述する際の証明レトリック」
J. Casanovas 「ガリレオ当時の年周視差問題」
O. Pedersen 「ガリレオの宗教」
G.V. Coyne & U. Valdini 「青年期のベラルミーノの世界体系に関する思想」
■第2部 ガリレオと科学の進歩
M. Heller 「ガリレオにとっての相対性」
M. Lubański 「ガリレオの無限に関する見解」
J.M. Źyciński 「ガリレオの研究プログラムは、なぜ競合する他のプログラムに取って代わったのか」
K. Rudnicki 「ガリレオの方法論を適用する上での限界」
■第3部 ガリレオ問題の文化的反響
P. Feyerbend 「ガリレオと真理の専制」
F.M. Metzler 「ガリレオの発見における神話と想像力」
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冊子を斜め読みしての感想ですが、ここに何か“抹香臭さ”のようなものがあるわけではありません。いずれもごく普通の論文です。もし、そこに「バチカンらしさ」があるとすれば、それは「信仰と科学の出会い」という表題そのものと、口絵に収められた、1枚のステンドグラスの写真でしょう。
そのキャプションにはこうあります(適当訳)。
「本書の口絵として、スタニスワフ・ヴィスピャンスキが制作したステンドグラス、『創造者たる神(God, the Creator)』の複製を選んだことには、2つの理由がある。
1つは、この作品が我々の集会が開かれた美しい歴史都市、より正確に言えばクラクフのフランシスコ教会に存在し、同市の市民たちがヴィスピャンスキの芸術を誇りに思っているからだ。
そして2つ目の理由は、この芸術作品において、見る者は神がそこに存在することを確信しているにもかかわらず、その姿を見つけることが難しいからだ。これぞまさにガリレオが経験したことであり、我々の多くが現に経験していることでもあろう。我々は、神がその作り給うた世界のうちに、そして神の教会のうちに存在することを確信しているが、彼を見出すには努力が必要なのだ!」
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ガリレオが精力的に著述に励んだ時代から400年。ガリレオ問題を振り返ったクラクフ会議から数えても、すでに約40年の歳月が流れました。
もはや「世界の中心は地球か?太陽か?」というような問いは意味を失い、我々は信仰と科学の関係を新たな光のもとで考えるべき時代を生きています。それは当然、「神」あるいは「超越者」をめぐる新たな省察を伴うものです。
たぶん現時点での最大公約数的理解は、超越者が物理的に存在するかどうかよりも、超越者という観念を我々が有していることこそが重要なのだ…というものでしょう。
その観念のルーツ(のひとつ)は、言うまでもなく星空を見上げる経験です。
ここで再び400年前に立ち返り、満天の星空を見上げたガリレオの心のうちに去来した、言葉にならぬ思いを想像したりします。
絵葉書探偵 ― 2023年03月25日 11時41分37秒
天文台の絵葉書を整理していて、以下の1枚が目に留まりました。
これはいったいどこの天文台か?
表にも裏にも、何のキャプションもないので、こういうのが一番難しいのですが、じっと見ているうちに、この「S. Fayet」という差出人の名前に、何となく見覚えがある気がしました。
検索すると、果たしてその名はすぐに見つかりました【LINK】。
すなわち、ガストン・ファイエ(Gaston Fayet 、1874-1967)。1917年から62年まで、フランスのニース天文台長を長く務めた人です。(ファーストネームのイニシャルが「S」に見えましたが、これはフランス語の筆記体で「G」ですね。)
ならば当然、被写体はニース天文台のはず。
調べてみると、確かにこれは1883年から運用を開始した同天文台の「小赤道儀棟(Petit Équatorial)」の写真です【LINK】。
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では…と、宛先にも目を凝らすと、そこにも「observatoire」の文字が見えます。
なるほど、よく見るとこの葉書は「ブザンソン天文台 ルブフ台長御夫妻」宛てなのでした。
■Observatoire de Besançon
(ブザンソン天文台。上記ページより)
■Auguste Victor Lebeuf(1859-1929)
結局、これはある天文台長が別の天文台長に送った挨拶状という、なかなか天文趣味に富んだ1枚で、買ったときはそうした事情を一切知らずにいましたから、これはちょっと得をした気分。
(消印は1914年3月1日(1月3日?)付け)
まあ後知恵で考えると、切手の消印がニースですから、それに気づけばすぐニース天文台にたどり着けたはずですが、そうするとたぶん差出人と受取人の探索はせずに終わったでしょうから、これは回り道をして正解です。
なお、写真に写っている人物がファイエだと一層興味深いのですが、この写真だけでは何とも言い難いです。ちなみにファイエは下のような面差しの人だそうです。
(前列左がファイエ。1932年の国際天文連合総会にて。© IAU/Observatoire de Paris。出典:https://www.iau.org/public/images/detail/iauga1932-ship/)
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