ある星座切手が秘めた主張 ― 2024年11月02日 08時49分36秒
10月は「他愛ないものを買う月間」でした。
お尻を叩く絵葉書もそうだし、下の切手シートもそうです。
値段は送料込みで数百円。そのわりにずいぶんきれいな切手です。
元絵は、ローマの北50kmに位置するカプラローラの町にあるファルネーゼ宮(パラッツォ・ファルネーゼ)に描かれた天井画です。絵の作者はジョヴァンニ・デ・ヴェッキ(Giovanni de' Vecchi、1536–1614)。
(五角形をしたファルネーゼ宮。撮影:Fábio Antoniazzi Arnoni)
「ファルネーゼ」と聞くと、現存する最古の天球儀をかついだアトラス神像、「ファルネーゼ・アトラス」【LINK】を思い出しますが、このファルネーゼ宮こそ、かつてアトラス像が置かれていた、アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿(Alessandro Farnese、1520-1589)の邸宅にほかなりません。
ファルネーゼ宮の中には、「世界地図の間(Sala del Mappamondo)」と呼ばれる部屋があって、四方の壁には世界地図が、そして天井にはこの星座絵が描かれているというわけです。
ファルネーゼ枢機卿が、星の世界にどこまで心を惹かれていたかは分かりませんが、彼は古代ローマ彫刻の大コレクターだったらしく、ギリシャ・ローマの異教的伝統に連なる、星座神話の世界に関心を示したとしても不思議ではありません。いずれにしても、ここが天文趣味と縁浅からぬ場所であることは確かでしょう。
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豪華絢爛な邸宅からチープな切手に話を戻します。
この切手は1986年のハレー彗星接近と、その国際観測協力を記念して発行されました。
4枚の切手の隅には、VEGA(ソ連)、PLANET-A(日本;日本での愛称は「すいせい」)、GIOTTO(欧州宇宙機関)の各探査機の姿が印刷されています。当時、ほかにも多くの探査機がハレー彗星に向かって打ち上げられ、「ハレー艦隊」と呼ばれました。
この切手は南太平洋の島国ニウエ(Niue)が発行したものです。
…と言いながら、私は恥ずかしながらニウエという国を知りませんでした。イギリス国王を元首とする立憲君主制の国だそうです。国連に正式加盟はしていませんが、日本は国家として承認している由。2022年現在の人口は1681人で、バチカン市国に次いで世界で2番目に人口の少ない国だ…とウィキペディアに書かれています。切手が外貨獲得の手段であるのは、小国にありがちなことで、この切手もそのためのものでしょう。
(絶海の孤島、ニウエ)
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私は最初、「たしかに美しい切手だけれど、このデザインはハレー彗星と関係ないし、他所から星にちなむ絵をパクってきただけじゃないの?」とも思いました。でも、それは私の浅慮で、ここにも切手デザイナーの深い配慮は働いていたのです。
(世界地図の間・天井画 https://www.wga.hu/html_m/v/vecchi/2mappa1.html)
そう、切手化するにあたり、元絵が鏡像反転されているのです。
ファルネーゼ宮の元絵は、天球儀の星座絵と同様、地上から見た星の配列とは反対向きに描かれているのですが、切手の方はそれを再度反転させて、地上から見たままの姿になっています。
これは切手の方に文句なしに理があると思います。
何せ天井画なのですから、実際に星空を見上げた時と同じ姿になっていないと変だし、天井に描いた意味がないと思います(実際、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂や、サンタ・クローチェ教会の天井に描かれた、15世紀の星座絵は地上から見た姿で描かれています)。
…というわけで、たしかにハレー彗星とはあんまり関係ないにしろ、一見安易なこの切手にも、ある種の「主張」があり、そこに小国の気概みたいなものを感じました。
「地球観測年に捧げる曲」が流れた時代 ― 2024年08月26日 19時35分09秒
前回書いたように、1964~65年の「太陽極小期国際観測年(IQSY)」は、「国際地球観測年(IGY)」の後継プロジェクトであり、IGYは前者の7年前、1957年7月1日から1958年12月31日を計画期間と定め、実施されました。
ついでといっては何ですが、そのIGY、国際地球観測年の記念切手も載せておきます。こちらも前回と同じハンガリーのものです。
切手では「1957年から59年まで」とあって、「あれ、1年長いぞ?」と思ったんですが、IGYは1958年でいったん終了したあと、おまけのプロジェクト、「国際地球観測協力年(International Geophysical Cooperation Year)」というのが1959年いっぱい続いたので、たぶんそれを勘定に入れているのでしょう。
IGYは東西のブロックを越えて、67の国が参加し、バンアレン帯の発見、プレートテクトニクス理論の確立につながる大西洋中央海嶺の全容解明、南極条約の締結など、多くの重要な成果をもたらしました。身近なところでは、日本の昭和基地が南極に設置(1957)されたのも、IGYの副産物です。
東西両陣営を仕切る「鉄のカーテン」を越えて、科学者がIGYに結集できたのは、スターリンが1953年に死亡し、融和ムードが生まれたことによるらしいのですが、しかしIGYによって新たな東西対決の火ぶたも切って落とされました。すなわち宇宙開発競争の始まりです。これこそ、ある意味でIGYの最大の「成果」でしょう。(それ以前から始まっていた「制宙権」争いを、IGYが強く後押しした…と言ったほうが、より正確かもしれませんが。)
上の横長の切手は、IGY記念切手とは別の宇宙切手シリーズに含まれるスプートニク1号(1957年10月打ち上げ)(※)で、その左下がスプートニク3号(同1958年5月)です。スプートニクに対抗して、アメリカが大急ぎで打ち上げたのが、エクスプローラー1号(同1958年2月)で、これがバンアレン帯の発見につながった…というのは、既に述べました。そしてNASAが設立されたのも、1958年7月のことです。
これら一連の出来事の背後にあったものこそIGYであり、その影響の大きさがうかがい知れます。
IGYについては、日本語版ウィキペディアにも当然項目がありますが、英語版Wikipediaを見たら、トリヴィアルなことも含めて、いっそう詳細な説明がありました。
中でも興味深いのは、IGYがポップカルチャーに及ぼした影響の項目です。
IGYはもちろん真面目なドキュメンタリー番組でも取り上げられましたが、それだけでなく、複数のマンガの題材にもなったし、「1957年の地球観測年に捧げる曲」というジャズナンバーが作られ、後の1982年には「IGY (What a Beautiful World) 」という曲がビルボードのヒットチャートで順位を伸ばし、グラミー賞の年間最優秀楽曲にノミネートされた…といったことが書かれていました。
IGYは科学の世界を越えて、物心両面で人々の生活に大きな影響を及ぼした、戦後の一大イベントだったと言えるんじゃないでしょうか。
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(※)【2024.8.28訂正】 上の切手の画題を「スプートニク1号」と書きましたが、これは「ルナ1号」(ソ連の月探査機、1959年1月2日打ち上げ)であろうと、S.Uさんからコメント欄を通じてご教示いただきました。ご指摘の通りですので訂正します。
ストックブックを開いて…再び太陽観測年の話 ― 2024年08月25日 15時43分52秒
ストックブックというのは、切手保存用のポケットがついた冊子体の郵趣グッズで、それ自体は特にどうということのない、いわば無味無臭の存在ですが、半世紀余り前の切手ブームを知っている者には、独特の懐かしさを感じさせるアイテムです。
その後、子ども時代の切手収集とは別に、天文古玩の一分野として、宇宙ものの切手をせっせと買っていた時期があるので、ストックブックは今も身近な存在です。
最近は切手に意識が向いていないので、ストックブックを開く機会も少ないですが、開けば開いただけのことはあって、「おお、こんな切手もあったか!」と、感興を新たにするのが常です。そこに並ぶ古い切手はもちろん、ストックブックという存在も懐かしいし、さらには自分の趣味の変遷史をそこに重ねて、もろもろノスタルジアの源泉ではあります。
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昨日、「太陽極小期国際観測年(IQSY)」の記念切手を登場させましたが、ストックブックを見ていたら、同じIQSYの記念切手のセットがもう一つありました。
同じく東欧の、こちらはハンガリーの切手です。
この切手も、そのデザインの妙にしばし見入ってしまいます。
時代はスペースエイジの只中ですから、ロケットや人工衛星も駆使して、地上から、成層圏から、宇宙空間から、太陽本体の活動に加え、地磁気、電離層、オーロラと大気光、宇宙線など、様々な対象に狙いを定めた集中的な観測が全地球的に行われたと聞きます。
IQSYは、太陽黒点の極大期である1957年~1958年に設定された「国際地球観測年(International Geophysical Year;IGY)」と対になるもので(※)、さらに極地を対象とする観測プロジェクト、「国際極年(International Polar Year;IPY)」がその前身だそうで、その流れを汲むIQSYも、いきおい極地観測に力が入るし、そもそも太陽が地球に及ぼす影響を考える上で、磁力線の“出入口”である南北の磁極付近は最重要スポットなので、この切手でも極地の描写が目立ちます。
下の左端の切手は、バンアレン帯の概念図。
宇宙から飛来した電子・陽子が地球磁場に捕捉されて出来たバンアレン帯は、1958年の国際地球観測年のおりに、アメリカの人工衛星エクスプローラー1号の観測成果をもとに発見されたものです。
東西冷戦下でも、こうした国際協力があったことは一種の「美談」といってよいですが、それでも研究者以外の外野を含め、美談の陰には何とやら、なかなか一筋縄ではいかない現実もあったでしょう。
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(※)【2024.8.25訂正】
上記の記述には事実誤認があるので、以下の通り訂正します。
(誤) 「IQSYは、太陽黒点の極大期である1957年~58年に設定された「国際地球観測年(International Geophysical Year;IGY)」と対になるもので」
(正) 「IQSYは、太陽黒点が極大期を迎える1968~70年の「太陽活動期国際観測年(International Active Sun Years;IASY)と対になって、1957~ 58年に設定された「国際地球観測年(International Geophysical Year;IGY)」を引き継ぐもので」
空色の宇宙、金のロケット ― 2024年07月13日 08時03分09秒
雨が上がり、セミが盛んに鳴いています。
昨日は気分がふさぐ記事を書いたので、何かすっきりするものを探しているうちに、こんな品が目に留まりました。
(全長47mm)
空色の宇宙を背景に、金の星と金のロケットが美しいエナメルのピンバッジ。
チェコの人から入手したもので、「Astronomický kroužek」というチェコ語は、英語にすると「Astronomical circle」、要するに天文クラブ、天文同好会のことです。
1960年代頃の品と思いますが、当時はまだ「チェコスロバキア」だった同国の某天文クラブの会員章。当時の星好きの少年少女たちの胸元を飾ったのでしょう。
天文クラブの会員章にロケットが登場する、要するに星好きは同時にロケット好きでもある…と無条件に思われていたところが、時代を感じさせます。
世はスペースエイジ、陣営の東西を問わず、ロケットのフォルムと宇宙イメージは分かちがたく結びつき、子どもたちの憧れを誘ったのです。
夫は太陽を射落とし、妻は月へと逃げる ― 2023年10月01日 08時03分55秒
(昨日のつづき)
羿(げい)はたしかに英雄ですが、女人に対しては至らぬところがあったらしく、妻に逃げられています。
羿は、西王母から不老不死の仙薬を譲り受け、秘蔵していたのですが、ある日、妻である嫦娥(じょうが)がそれを盗み出して、月まで逃げて行った…というのが、「嫦娥奔月(じょうがほんげつ/じょうがつきにはしる)」の伝説で、まあ夫婦仲がしっくりいってなかったから、そんなことにもなったのでしょう。
ただ、このエピソードは単なる夫婦の諍いなどではなくて、その背後には無文字時代から続く長大な伝統があるらしく、その意味合いはなかなか複雑です。いずれにしても、満ちては欠け、欠けては満ちる月は、古来死と復活のシンボルであり、不老不死と結びつけて考えられた…という汎世界的な観念が、その中核にあることは間違いありません。
嫦娥はその咎(とが)により、ヒキガエルに姿を変えられたとも言いますが、やっぱり臈たけた月の女神としてイメージされることも多いし、嫦娥自身は仙薬の作り方を知らなかったのに(だから盗んだ)、月の兎は嫦娥の命を受けて、せっせと杵で仙薬を搗いてこしらえているとも言われます。
この辺は、月面にあって無限に再生する巨大な桂の樹のエピソード等も含め、月の不死性に関わる(おそらくオリジンを異にするであろう)伝承群が、長年月のうちに入り混じってしまったのでしょう。そんなわけで、物語としては何となくまとまりを欠く面もありますが、中国では月の女神といえば即ち嫦娥であり、中国の月探査機が「嫦娥1~5号」と命名されたのは、記憶に新しいところです。
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嫦娥にちなんで、こんな品を見つけました。
この古めかしい箱の中身は、大型の墨です。
側面にある「大清光緒年製」という言葉を信じれば、これは清朝の末期(1875~1908)、日本でいうと明治時代に作られた品です(「信じれば」としたのは、墨というのは墨型さえあれば、後から同じものが作れるからです。)
裳裾をひるがえし、月へと急ぐ嫦娥。
提灯をかざして、気づかわしそうに後方を振り返っているのは、追手を心配しているのでしょうか。
その胸には1羽の兎がしっかりと抱かれています。
月の兎は嫦娥とともに地上から移り住んだことに、ここではなっているみたいですね。
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夫は太陽を射落とし、妻は月へと逃げていく―。
夫婦別れしたとはいえ、宇宙を舞台に、なかなかスケールの大きい夫婦です。「嫦娥X号」の向こうを張って、将来、中国が太陽探査機を打ち上げたら、きっと「羿X号」とネーミングされることでしょう(※)。
なお、この品は「和」骨董ではありませんが、他に適当なカテゴリーもないので、和骨董に含めておきます。
(※)これまた中国神話に由来する「夸父(こほ)X号」が、すでに運用を開始しており(現在は1号機)、報道等でこれを「太陽探査機」と呼ぶことがありますが、正確には地球近傍で活動する「太陽観測衛星」であり、夸父自ら太陽まで飛んでいくわけではありません。
スプートニクは時を超えて ― 2022年08月29日 06時01分24秒
(昨日のつづき)
昨日のマッチ箱ホルダーには、実は「兄弟」がいます。
写真の右に写っているのがそれで、表面のデザインはまったく同じ。ただ、サイズは二回りほど大きく、約10×7.5cmあります。材質はやっぱりアルミで、そこにメッキをしているのですが、金色が昨日の品よりも派手で、金きらした感じです。
この2つは、別の機会に、別の人から購入しました。
中央の黒いポッチを押すと…
こんなふうに、パカッと二つに開きます。
こちらはマッチではなく「タバコの友」。すなわち、紙巻きたばこを入れておくための「シガレット・ケース」です。マッチと煙草の関係を考えれば、両者はまさに兄弟分。
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…と、ここまではうるわしい兄弟愛の物語で、めでたしめでたしなのですが、私が気になったのは、このシガレットケースがひどく新しく見えたことです。
傷もないし、メッキも剥げてないし、全体にピカピカしています。
「うーん、これは当時のデッドストック品なのかなあ…」とも思いましたが、ふと気づいたのはゴム紐です。一般にゴム製品は劣化が激しいので、ミッドセンチュリーのゴム紐がそのまま残っているはずはありません。それなのにこのゴム紐は、いまだ十分な弾力を保っているのです。
結局、これは「ご当時もの」ではなくて、その後の復刻品なのでしょう。
中国だと、毛沢東グッズをはじめとする「プロパガンダ・アート」が、今でも土産物として製造・販売されていますが、たぶんロシアも事情は同じで、共産主義時代を懐古するレトロな商品として、あるいは物好きな外国人向けに、こういう品が今も流通しているのだと思います。
まあ、デザインさえ良ければ復刻品でも構わないよという人もいるでしょうが、オリジナルの「ご当時もの」を探すならば、その辺をちょっと注意したほうがいいと、老婆心ながら申し上げます。
【付記】
昨日、今日と続けざまに登場した謎のロケット。
実際に打ち上げに使ったロケットと全然形が違うじゃないか…と不審に思いましたが、S.Uさんから頂戴したコメントによって、疑問が氷解しました。
謎を解くかぎは、ソ連製ロケットの姿は、高度な機密に属したという事実です。
人工衛星の姿はメディアで喧伝しても、ロケットの方は軍事技術と一体でしたし、アメリカとはげしい宇宙開発競争を繰り広げていた手前、ソ連としては「手の内は決して見せないぞ」という姿勢で臨んでいたのです。結局、一般の国民にとっても、それは厚いベールの向こうの存在で、絵を描こうにも想像で描くしかなかった…というのが真相でしょう。
その意味でも、昨日のマッチ箱ホルダーは、当時の世相を映す鏡となっています。
(今や北朝鮮でも、ミサイル発射場面をことさら放映して、それがメディア戦略にもなっていることを思うと、隔世の感があります。まあ、今でも最先端の軍事研究となれば、どこの国でも秘密裡にやっているはずなので、そこは相変わらずです。)
マッチ箱の友(後編) ― 2022年08月28日 07時26分20秒
さて、マッチ箱の話のつづき。でも、今回とり上げるのは、マッチ箱そのものではなくて、あくまでも「マッチ箱の友」です。
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先日言及した家庭用の「並型マッチ」は、今でも地味に売られていると思いますが、あれをそのままポケットに入れると、つぶれてクチャクチャになりやすので、それを避けるために「マッチボックス・ホルダー」というものが使われました。
(大きさは52×38mm)
その実例がこれです。
金属の側(がわ)でマッチ箱を保護して、つぶれないようにしようというわけです。
マッチ箱を入れるときは、この穴のあいた面に、焦げ茶色の擦り紙(側薬)が来るようにして、ここでマッチをシュッと擦ります。
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改めて表面を見ると、細かい擦り傷がいっぱいあって、いかにも時代を感じます。素材はアルミ、そこに金色のメッキをほどこしたもののようです。
右下のロシア語をGoogleにラテン文字化してもらうと、「Sovetskiye sputniki zemli」となり、意味は「ソビエト地球衛星」だそうです。
宇宙開発競争を背景とした「旧ソ連モノ」の1つで、ロケットの脇を飛ぶ、まん丸の人工衛星はスプートニク1号、その先を行くだるま型のは、おそらくスプートニク2号。いずれも1957年の打ち上げなので、このホルダーもその頃のものかな…と思います。
ただ、中央でいちばん目立っているロケットは正体不明。
スプートニク1号も2号も、打ち上げには8K71PSというのを使ったそうで、ここに描かれたロケットとはずいぶん形が違います。
そもそも、こういう大きな固定翼を持った宇宙ロケットって、昔の漫画や映画にはよく登場しましたが、実際に存在したことってあるんでしょうか?大気圏内を飛ぶミサイルならまだしも、真空を飛ぶ宇宙ロケットが翼を持つ意味とは?
まあ、旧ソ連の同志たちは、その辺はあまりこだわらず、この勇壮な姿こそ祖国の栄光を称えるのにふさわしい…と思ったのかもしれません。
(この品から発展して、ちょっと気になることがあるので、次回はそのことを書きます)
火星探検双六(5) ― 2021年02月25日 08時50分04秒
(昨日のつづき)
(「10 見張」)
(「11 火星軍総動員」「12 物すごい海中城」)
火星の恐るべき科学力は、ロボット兵士を作り出すに至っています。そのロボット部隊に動員が下り、海中にそびえる軍事要塞から次々に飛来。
「13 海蛇艇の包囲」
さらに人型ロボットは、巨大な龍型ロボットを操作して、鼻息荒く主人公に襲い掛かってきます。メガホンで投降を呼びかける人型ロボットに対し、ハッチから日の丸を振って、攻撃の意思がないことを示す少年たち。
「14 なかなほり」「15 火星国の大歓迎」
至誠天に通ず。少年たちの純な心が相手を動かし、一転して和解です。
あとはひたすら歓迎の嵐。
(「16 王様に謁見」)
これが以前言及した場面です。ふたりは豪華な馬車で王宮に向かい、王様に拝謁し、うやうやしく黄金造りの太刀を献上します。(火星人はタコ型ではなく、完全に人の姿です。)
(「17 火星の市街」)
空中回廊で結ばれた超高層ビル群。この辺は地球の未来都市のイメージと同じです。
(「18 魚のお舟」)
(「19 人造音楽師」)
(「20 お別れの大宴会」)
火星の娯楽、珍味佳肴を堪能して、二人はいよいよ地球に帰還します。
(「21 上り 日本へ!日本へ!」)
嗚呼、威風堂々たる我らが日本男児。
何となく鬼が島から意気揚々と引き上げる桃太郎的なものを感じます。
それにしてもこの麒麟型の乗り物は何なんですかね?日少号は?
日少号は置き土産として、代わりに火星人に麒麟号をもらったということでしょうか。
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今からちょうど90年前に出た1枚の双六。
ここでパーサビアランスのことを考えると、90年という時の重みに、頭が一瞬くらっとします。1世紀も経たないうちに、世の中はこうも変わるのですね。
しかも、一層驚くべきことは、この双六が出た30年後には、アメリカがアポロ計画をスタートさせ、それから10年もしないうちに、人間が月まで行ってしまったことです。
アポロの頃、この双六で遊んだ子供たちは、まだ40代、50代で社会の現役でした。当時のお父さんたちは、いったいどんな思いでアポロを見上げ、また自分の子供時代を振り返ったのでしょう?…まあ、実際は双六どころの話ではなく、その後の硝煙と機械油と空腹の記憶で、子供時代の思い出などかき消されてしまったかもですが、戦後の宇宙開発ブームを、当時の大人たちもこぞって歓呼したのは、おそらくこういう双六(に象徴される経験)の下地があったからでしょう。
(この項おわり)
こちらウラヌス ― 2020年09月22日 06時37分50秒
4連休なので、部屋の掃除をしていました。
いつもの雑然とした光景。
あまりにも見慣れ過ぎて、最近は機械的にホコリを払うだけの日が続いていました。
しかし何せ4連休ですから、いつもよりのんびりホコリを払っていて、気が付いたのです。
あ、光っている!
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この小さな科学衛星「ウラヌス」が我が家に到達したのは、10年前のことです。
■翔べ!ウラヌス
彼はそれから休むことなくミッション――緑色光によるメッセージの送信――をこなし、それは今も続いていたのです。
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同じ年に打ち上げられた人工天体の仲間に、「あかつき」があります。
彼は2010年5月に種子島を飛び立ち、金星に向かいましたが、途中でメインエンジンの故障という決定的なトラブルに見舞われました。しかし、先輩「はやぶさ」のように、人々の智慧と才覚によって、みごと金星周回軌道に乗り、観測ミッションを成功させ、そして今もデータの収集を続けています。実に鮮やかです。
徐々に酸化被膜で覆われつつある、我らが「ウラヌス」の奮闘も、「あかつき」に決して劣るものではありません。にもかかわらず、そのことを忘れ、貴重な信号を受信し損ねていた私の責任は重大です。遅ればせながら、これからは緑色光のチェックを怠らないので、「ウラヌス」よ、どうか最後の日まで共にあらんことを。
これもアポロ、あれもアポロ ― 2019年04月07日 09時19分26秒
アポロといえば月着陸ですが、正確を期せば、アポロは1号(1966)から17号(1972)まであって、さらに1961年に始まる準備段階も全部ひっくるめて「アポロ計画」と称するんだそうです。もちろん、月に降り立ったのは、そのうちの一部にすぎません。
最初の月着陸を成し遂げたのはアポロ11号で、1969年のことです。
でも、年表を見ると、この年に限っても、地球を周回した9号(3月3日打ち上げ)、月を周回した10号(5月18日)、そして月に着陸した11号(7月16日)と12号(11月14日)…と、計4回も打ち上げが行われています(使用したのはすべてサターンⅤ型ロケット)。
子供だったので仕方ありませんが、そんなことも私の記憶からは飛んでいて、アポロといえば11号の印象だけが鮮明に残っています(その後、繰り返しテレビで映像を見せられたのも大きいでしょう)。
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11号の露払いを務めた9号の雄姿。
AP社が配信した、当時の報道用電送写真です。
(拡大すると、電送写真特有の細かい横縞が見えます)
幾筋ものサーチライトに照らされた夜の発射台に、強い緊張感がみなぎって感じられます。国産のH-ⅡAロケットもずいぶん大きいですが(53m)、サターンV型はさらにその倍以上の高さがあったので(110m)、間近で見たらものすごい迫力だったでしょうね。
裏面の「FEB 30」(2月30日)の文字が一寸解せないですが、まあ普通に3月2日の意味なのでしょう。すなわち打ち上げ前夜の光景です。
スタンプの印字や、貼付された紙面の向こうに堆積した50年の歳月。
思えば、「天文古玩」がスタートした13年前には、まだ40周年も迎えていなかったので、この写真もそれほど懐古モードでは見ていませんでしたが、さすがに50年ともなると、立派に古玩の仲間入りですね。今や平成も懐古の対象だし、ノスタルジーは埃のように日々降り積もるもの哉。
ときに、上で「露払い」と書きました。
確かに11号の陰に隠れて目立ちませんが、3人のクルーにとっては、文字通り命がけの大冒険ですし、アポロ計画全体の欠かせないピースという意味では、11号が横綱なら、9号だって横綱なんだと思います。
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…と書いたそばから何ですが、もう一人の大横綱たる11号も載せておかなければなりません。こちらはUPIの配信です。
打ち上げ当日の1969年7月16日の撮影です。
これもなんだか夜景のように見えますが、打ち上げは現地時間の午前9時32分、右上に輝くのは朝の太陽です。右側の説明文を読むと、特殊フィルター越しに赤外線フィルムを使って撮影したもので、ロケットの噴射する熱線が、きれいな軌跡として記録されています。ちょっと珍しい写真ですね。
裏面を見ると、発射直後ではなく、帰還後の8月13日に配信されたもののようです。
この日、3人のクルーは、ニューヨークとシカゴで盛大な祝賀パレードに臨み、さらにロスアンゼルスへと移動して(慌ただしいですね)、公式晩餐会に出席した…と、ウィキペディアは述べているので、たぶんそれに合わせて配信したのでしょう。
【メモ】
この2枚の写真、大手新聞社のトリビューンが、経営不振の時期に、自社保管の品をチマチマ小売りしたものですが、どうも利益が薄かったのか、今はやめてしまったようです。(でも、似たような商売をしている業者は、他にもあります。)
【4月9日付記】
冒頭に記したアポロの号数について、S.Uさんからコメントをいただきました。重要な点ですので、公開コメントとします。ご参照ください。
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