連休中に一仕事2009年05月02日 21時05分38秒

本格的な連休に入りました。この間に、またもろもろ仕事(主にハーシェル協会関係)を片付けねばなりません。

しかし、最近はちょっとスランプというか、あまりテキパキと仕事ができなくて、そうするとついつい逃避的にネットオークションを見たりして、しかもじーっと見入ったりして、ますます仕事が遅れがちとなります。

我ながら時間の使い方が下手だなあと思うんですが、これは思うばかりで、どうにもしようがないですね。まあ、あと4日間、何とかがんばってみます。

皆さま、よい連休をお過ごしください。

物を買うということ2009年05月04日 15時50分33秒

今日も画像のないつぶやきです。

この「天文古玩」も、初期の頃はおおらかで牧歌的な趣がありました。その時々に手に入れた物をネタにゆるゆると記事を書き、まさに「折々の物欲記」のような、愚かしいなりに静かで落ち着いた日々があったのです。

しかし、いつの頃からでしょうか、徐々に物を買うスピードが記事を書くスピードを上回るようになり、読んでない本、開けてない箱、整理されてない資料が部屋に山積みとなるにつれて、この小さな世界で物と人との苛烈な争闘が展開するようになったのです。

その争いは、表面的には(これまでも何度か書いたように)<空間闘争>の様相を呈していました。しかし、その本質は、対象を咀嚼し、己に同化する営みが滞ることに伴う心身の軋みと痛みです。

大量の異物を取り入れ、しかも相手に乗っ取られることなく、常に自分がその主人たること。それは実は強靭な意志の力がいるのです。(あたかも不動明がデーモンに乗っ取られずにデビルマンとして転生したように。)

たかがブログとはいえ、やはり記事を書くには、テーマを咀嚼した上で「自分の世界の一部」として書くのでなければ、ブログ主が逆にブログのしもべとなってしまいますし、それはブログ主の精神にとって決定的な悪影響を及ぼすでしょう。

以前は「買う」ということが、文字通り「自分のものにする」ことだと思っていました。しかし、そうした素朴な観念はすでに完全に破綻したことを認め、私は改めて身ひとつで物たちと対峙しようと思うのです。

いや、これまで物たちの主人たることを目指し、彼らと覇を競ったから疲弊したのであって、むしろ(対峙するのではなく)素直に彼らに教えを乞い、知己となり、ともに旅を続けるような心構えが大切なのではないでしょうか(RPGみたいですね)。

なにがしかの金銭を払っただけで、物たちの魂まで自由になると思ったのが、大いなる間違いでした。

「物」は「我」と対立しながら、しかも一体であり、これを仏家の説に「物我一如、物我一体(もつがいちにょ、もつがいったい)」と説くそうです。

むだづかい2009年05月05日 14時28分25秒


さらに買い物ばなしのつづき。

さくらももこさんの名作『神の力』(2003、小学館)に、「おっとのむだづかいの巻」という話が収録されています(初出は1989年ですから、なんと20年も前の作品ですね)。

ここに出てくる夫は、ムダな物ばかりパーパー買って、妻を泣かせるような夫です。別に暴君というわけでもないのですが、とにかくおもしろい物を見ると、寸時のためらいもなく、ローンを組んでまで購入してしまいます。夫が買うのは、たとえば下のような品。

■へっぴり人形の家
 中折れ帽を脱ぐと、中からふんどし姿の人形が「ララ~ ララ~」
 と歌いながら飛び出してきて、おならをするオモチャ。10万円。
■スイム’89
 「きみを喜ばすためなら安いもんさ」と、妻への土産に買ったパリ
 製の水着。16万5千円。
■ハンドバーテンダー
 手に持つとビヨ~ンと伸びて、3メートル先からでもビールを注い
 でくれる便利な人形。16万円。
■陽気な和尚さん
 スイッチを入れると木魚を叩きながら「ナンマイダ~ナンマイダ~」
 と唱えつづける、お坊さん型の人形。値段不明。
■ハレハレ君
 夫が古道具屋に立ち寄ったときに、「なにかおもしろい物をくださ
 い。たとえば、首をグルグルまわしながら踊りまくり、明日の天気
 を教えてくれて、しかもそれがよく当たり、みんなからハレハレ君
 と呼ばれている人形などがほしいです。」とリクエストして手に入
 れた品。58万円を50万円に負けてもらった。

どうでしょうか。
笑えない話だな、と思います。いや、笑いながらも、顔が引きつるというか、そもそも笑う資格がないというか。

昨日は、「物」と「人」との関係を云々しましたが、実は両者の間には、もう1人「お金」というキャラクターが介在しているわけで、そのことも考えに入れないと、話としては片手落ちです。物との軋轢以前に、まず周囲と軋轢が生じるのも、主にこの点ですね。

作中の妻は、夫の買物癖に悩みながらも、徐々に感化されて、「こうして見ると“陽気な和尚さん”もわりといいものね」「おまえも、やっと物のおもむきがわかってきたようだね」…と、それなりに仲睦まじく暮らしています。

ああ、羨ましい…。
と、こんなマンガ(失礼)を羨ましがっているようでは、いよいよ病相は末期的かも。

星夜の望遠鏡2009年05月08日 21時20分04秒


少し前に「連休中はハーシェル協会の仕事」云々ということを書きましたが、本気で取り掛かったのは5月6日、つまり連休の最終日でした。まあ、毎度のことなので、覚悟はしていました。

で、今日はその一部を先行公開。
協会の出版物よりも先に、自ブログに掲載するのは、ちょっと問題ありですが、サンプルページというか、これによって協会に関心をもたれる方が少しでも増えれば、大いに意味はあるわけで…。

    ☆   ★

1837年にボストンで出版された、Duncan Bradford著 The Wonders of the Heavensの口絵(刷面サイズ22×15.5cm)。

ハーシェルの40フィート望遠鏡は、その建造以来、今に至るまで無数に描かれ、多くの本を飾ってきましたが、これは非常に珍しい星空を背景として描かれた姿。夜の冷気と静けさが画面に漂っています。

よく見ると、望遠鏡の真上に描かれているのはBig Dipper(北斗七星)。でも何か変だな…と思ってよくよく考えたら、こんな風に「水をこぼさないよう水平に置かれた柄杓」は日本では拝めませんね(地平線の下にもぐってしまう!)。これは北緯50度以上のイギリスならではの光景でしょう。

実際にハーシェルもこんな星空を仰ぎながら観測に励んでいたのか…と思える絵です。

それはいつも突然に2009年05月11日 22時58分58秒


何だかずいぶんご無沙汰したような気がします。
コメントをたくさん頂戴しありがとうございます。お返事は心を落ち着けて、改めてすることにいたします。

   ★ 

それはいつも突然にやってきます。
いつもと変わらぬ日常、永遠に続くかと思われた日常に生じた、鮮やかな切断。

その日も何の疑問もなく、いつものごとく画面に向かっていました。
そのとき突然「カッチ、カッチ」と時計の秒針のような音が聞こえてきたかと思うと、それですべてが終わりました。驚くほどあっけない幕切れ。

長い間、我が忠実な友であったHDは、昨5月10日午前、すべてのデータとともに永遠の眠りにつきました。合掌。これまでどうもありがとう。

思い返せば、あのアドレス帳、あのメール、あの住所録、あの文書、あの書式、あの写真。みな眼前にありありと浮かびます。世間には異世界に消えたデータを独自の技で呼び出す、「データいたこ」を業とする人もいると聞きますが、まあすべては夢幻のごときもの、と達観するのが正しい振る舞いのような気がします。

  ★

ある人が「聖人の道」を問われて曰く、「良いことをして、悪いことをしないことだ」。「なんだ、そんなことは3歳の子供で知っている。」「そう、3歳の子供でも知っているが、80歳の老人でも実行することは難しい」。

「こまめにバックアップを取る」というのも、それに類することですね。そう、分かってはいるのです、分かっては。しかし…

嗚呼、往事茫々、回顧長春。(意味不明)

裳裾をひるがえす天文学者2009年05月13日 22時47分03秒


画像は1937年発行のシガレットカードです。
タイトルは「Astronomy」。

イギリスのチャーチマンという銘柄に入っていたもので、Howlers(ああ勘違い)という40枚セットの1枚。シリーズ名の通り、カードの裏には滑稽な文章が書かれています。

「ハレー彗星は100年に1回やってくる。うちの学校の女の先生はそれを2回見た。月に人間が住めないことは誰でも知っている。なぜなら月は少しずつ小さくなっていて、いずれ消えてなくなってしまうからだ」…云々。

ところで、この望遠鏡もスゴイですが、こういうコミカルな場面に天文学者が出てくると、何故か異様に古風な服装になるというのが、以前から気になっています。↓も類例。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/11/18/959548

19世紀はもちろん、18世紀の人もこんな「ナリ」の人を生で見たことはないはずですが、こういうステロタイプなイメージというのは、いったん固定化してしまうと、非常に強固ですね。

こうしたコスチュームは、天文学が占星術や、さらには錬金術や魔術と未分離だったころの名残なんでしょうが、ルネサンス以前に遡る(と思われる)こうした絵姿が、現代まで延々と生き延びているというのが、まずもって驚きです。(それとも、日本のニンジャのように、「一見古いけれども意外に新しい」イメージなんでしょうか。)

とんがり帽子とマント2009年05月15日 22時05分08秒

(A Trip to the Moon の冒頭、大勢の天文学者たちが集う場面)

SBODさんにコメントをいただいて思い出したのですが、George Méliès(1861-1938)のフィルム作品で、前に「The Eclipse」(1907)というのを取り上げたことがあります(http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/08/18/488268)。どうも3年前も同じようなことを書いていて、我ながら進歩がないんですが、まあ「多年にわたり問題意識を温め続けている」ことにしておきましょう。

ところで、以前の記事で引用した動画は、もうリンクが切れているので、改めてYouTubeでメリエスを検索すると、ああ、いっぱい出てきますね。「The Eclipse」も「A Trip to the Moon」(1902)もみんなアップされてます。
http://www.youtube.com/results?search_type=&search_query=Georges+Melies+&aq=f

メリエスの主要作品は、ほぼ100年前、20世紀の初頭に作られていますが、彼はどこからあの「変な天文学者」のイメージを持ってきたんでしょうか。メリエスはもともとステージ・マジシャンであり、また劇場経営者でもあったそうなので、舞台で演じられたコメディの影響なども相当あるのでは…と想像します。その実際を知らないので、完全に想像ですが。

で、想像のついでに言うと、特定の職業のカリカチュアライズには、演劇という要素が最も大きな影響を及ぼしたのではないか?と、今書きながら思いつきました。舞台化されると、遠目にも人物の属性が分かるように、その種の記号化・様式化が一気に進むのは、能や京劇、イタリアのコメディア・デラルテなんかを見てもそうですね。

『天文学者の社会史』 とか 『総説/美術・文学・演劇に見る天文学者像の変遷史』 というのは、たぶん民明書房(!)ぐらいしか手掛けてないと思いますが、もしあったら是非読んでみたいです。
(ここで「天文学」ではなしに、あえて「天文学者」というところがミソ。)

さらにマントととんがり帽子2009年05月18日 07時50分21秒


1900年前後に出たフランス製絵葉書(7枚セットのうちの1枚)。
時代的にはメリエスの映画と同じ頃で、こういうイメージが当時一定の広がりを持っていたことの例になるでしょう。

それにしてもこの天文学者は、ヒドイ描かれ方ですね。
天文学者には「超俗」のイメージが―あくまでもイメージですが―あると思いますが、この表情と手つきは…。「描かれた天文学者」としては、最低の部類かもしれません。

写真はスタジオでの撮影ですが、書き割りの端っこが切れてたり、「望遠鏡」もぜんぜん望遠鏡ではなくて、ただの紙の筒だったりで、至極チープな作り。

まあ、この絵葉書は一種のエロティック・ポストカードなので、小道具がどうとかは、あまり関係がなかったのでしょうけれど。

(この項つづく)

マントととんがり帽子…モヘヘ2009年05月20日 06時57分57秒


「デヘヘ。」
あー、ダメですね。
最低ですね。

この絵葉書は7枚セットで、何かストーリーのようなものが展開しているらしく見えます。順番はたぶん前回のが最初で、その後、上のような情けないシーンがあったり、天文学者が「おお、よしよし」と女性を膝に乗せたり、女性が胸もあらわなポーズをとったりするシーンが続きます。