天文趣味を作った人、山本一清(3)2009年07月18日 18時05分35秒

(↑山本一清、『星座の親しみ』序)

連休初日、またぞろ部屋の整理に追われ、大いに疲労しました。モノが届くたびにこんなありさまで……と愚痴りながらも、今回は心が軽いです。なぜか。ついに地球の裏側から本が届いたんですよ。いや、今回は長かった。ひょっとしたら、ラクダの隊商が中央アジア経由で運んできたのかもしれません。値段にすればそう高価なものではないにせよ、半分あきらめていただけに、とても嬉しいです。あとは○○と××が届けば…。

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さて、記事の続き。
前の記事のコメントにも書きましたが、実は私は山本一清という人のことをあまり知りません。知らずに書く、というのは無茶な話ですが、こうして積極的に話題にすることで、いろいろとご教示をいただければと考えています。

山本一清に関するまとまった伝記は管見の範囲ではなさそうです。
たぶん彼が創刊した雑誌「天界」のバックナンバーを見れば、その人物や感懐を直接示す文章が多々あるのでしょうが、残念ながら手元にないので、それは今後の課題です。
今、手元の資料から彼の天文趣味について想像してみます。

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山本一清は、1889年、つまり明治22年の生まれ。滋賀県田上(たなかみ)村の産で、生家は代々医家・儒者の家系でしたから、幼時から知的刺激には事欠かなかったでしょう。

彼がいつから星に興味を持つようになったのかは詳らかではありません。
彼は自著『星座の親しみ』(1921)の序で、

「…自分は若い頃、夏の天を仰いで蛇座と蛇遣ひ座の形を初めて知ったとき、一寸眼には何ものもないやうな無秩序の中に、実は一定の秩序が整って、天上無比の巨漢が、蜿々と横たはる大蛇を操る壮観を面と向って見た時は、思はず快哉を叫んだのを今でも覚えてゐる」

と書いています。30歳になるやならずの人間―この本の初稿は大正8年に完成しています―が言う「若い頃」ですから、これはおそらく10代のエピソードでしょう。

彼は同書の冒頭で、「こは自分の『天文詩集』第一巻である」と自己規定しています。
彼が10代の頃は「明星」が、そして20代の頃は「スバル」が一世を風靡した、浪漫主義・新浪漫主義の全盛期に当たります。この文芸2誌が、いずれも星にちなむ名前を持つのは実に象徴的。『星座の親しみ』を読むと、その余りにも甘やかな情調に驚くのですが、その星界への憧れは、基本的に青年期に接したロマン主義思潮と切り離すことはできないと思います。

彼は京大では電気工学科に入りましたから、最初は天文学者として身を立てようという気はなかったのでしょう。しかし、旧制三高時代にはすでにだいぶ進んだ天文趣味を持っていたようです。

例のハレー彗星騒動があったのは、彼が旧制高校の3年生だった、1910年(明治43)のことですが、このとき山本は、理科主任の森総之助教授から口径7.5センチの屈折望遠鏡を借りて、毎日観測に励みました。彼はいわば本格的なアマチュア天文家の<はしり>です。

ちなみに、後に「西の山本、東の神田」と呼ばれ、同じくアマチュア天文学の代表的指導者となった、東京天文台の神田茂(1894-1974)も、このとき若干16歳にして、専門家顔負けの詳細な観測記録をつけています。両人がハレー彗星から受けた刺激を思えば、この世紀の天文ショーが、日本のアマチュア天文学のその後の発展に及ぼした影響、実に大なるものがあったと言えましょう。(←古本を読んでいると、何となく言葉つきが古風になりますね)

(この項つづく)


【参考文献】
・日本アマチュア天文史編纂会(編)、『改訂版 日本アマチュア天文史』、恒星社厚生閣、1995
・石田五郎(著)、『野尻抱影』、リブロポート、1989
・山本一清(著)、『星座の親しみ』、警世社、大正11(第13版)