足穂が読んだ賢治2013年03月20日 16時39分11秒

2月24日の記事(http://mononoke.asablo.jp/blog/2013/02/24/6728939)で、足穂が戦後になって(たぶん昭和23年)、賢治作品を初めて読んだこと、そして「銀河鉄道の夜」に賛辞を惜しまなかったことを書きました。

そこで触れたように、足穂が賢治を読んだのは、雑誌編集者(当時)の草下英明氏の勧めによるもので、草下氏が自分の「十字屋版」宮沢賢治全集を足穂に貸し与えたのだと推測されます。

足穂が読んだ賢治作品はどんな姿かたちをしていたのか…という単純な好奇心から、昔の「十字屋版」全集を探してみました。もちろん全巻揃えればベストですが、お金も場所もないので、今回買ったのは第3巻(童話・寓話編)と別巻(雑編)だけです。

(↑「十字屋版全集」第3巻の外箱と中身。↓は箱裏のイラスト。)

厳密にいうと、草下氏が持っていたのは昭和21~23年に出た第2版で、上の写真は昭和28年に出た第3版なので、ちょっとブックデザインが異なる可能性もあります。でも、昭和19年に出た別巻(初版)もデザインは一緒なので、きっと第2版も同じでしょう。

(高村光太郎を筆頭にする編者の名前。)


そして、これぞ足穂が読んだ「銀河鉄道の夜」の冒頭第1ページです。彼はこういう文字面のものを、早大近くのアパートに籠居して読みふけったわけです。

   ★


上の写真は目次の一部。この巻には賢治の主要な童話作品が、ほぼ収められています。足穂は、この中で最もいいのが「銀河鉄道の夜」で、次点が「風の又三郎」だ…というようなことを後に書いています。

今これを書きながら思うのですが、足穂が「銀河鉄道の夜」に惚れこんだのは、その文学的価値以上に、それがすぐれて“足穂的”だったからではないでしょうか。

思うに、「銀河鉄道の夜」は賢治の代表作といわれながら、実は他の賢治作品とは少なからず趣を異にしています。
動物や植物が口をきいたり…という、おとぎ話的設定を一切排除していますし、二人の少年を共同主人公とするのも変わっています。そして、この星を愛する二人の間に流れるのは、あえて言えば同性愛的感情と嫉妬であり、彼らはそうした思いを抱えながら、ひたすら暗い闇の中を旅していきます。その途中で、ふと少女が現れて、少年たちの関係に波風を立てるというのも、あまり賢治らしからぬ趣向です。

そういうふうに、物語の要素や背景をばらして考えると、「銀河鉄道の夜」は、足穂が少年時代の思い出に取材して書いた、一連の「神戸もの」と呼ばれる作品群と重なる点が多い気がします。

「賢治さん、分かる、分かるで…」と、足穂はアパートで独りごちていたのかも。

  ★

以前も書いたように、十字屋版には現行版には出てこないブルカニロ博士が登場します。


ブルカニロ博士は、銀河鉄道全体を統御し、ジョバンニとカンパネルラの旅を陰から逐一観察していた謎の人物。その存在は、作品全体を捻じ曲げるだけのパワーを秘めているので、賢治もそこに危ういものを感じたのか、改稿の際に自らの手で抹殺しています。

しかし、依然として気になる人物であることは確かです。
時計屋の主人は博士が世を忍ぶ仮の姿である…とか、博士は時空を超えて現われた未来のジョバンニだった…とか、かつて自分なりにいろいろ空想したことがあります。

コメント

_ S.U ― 2013年03月21日 06時50分27秒

>「銀河鉄道の夜」、「風の又三郎」~”足穂的”
 少年たちが出てくるところに加えて、鉱物がちょろっと出てくるところも足穂的かもしれません。足穂は他人の作品に難しい注文をつけて批評するいっぽうで、細かい断片に単純に引き寄せられる人でした。

_ 玉青 ― 2013年03月22日 06時10分30秒

>細かい断片に単純に引き寄せられる

これは一貫して述べていることですが、「銀河鉄道の夜」がはたして文学作品として成功しているのかどうか、私はいまだに疑問を持っています。不遜な言い方かもしれませんが、でも結局は未完成な作品ですし、あれが賢治の最上の部分だとはどうしても思えません。したがって、その魅力は「結構」よりも「細部」でしかありえないんじゃないか…とも思います。裏返すと、あれを激賞した足穂が「細部に惹かれる人」であったのも、また確かなのではないでしょうか。

_ S.U ― 2013年03月22日 07時54分16秒

賢治の天体に関する断片について、ご指摘の方向で初めて考察してみましたが、「細部」がうまくいったのかどうか、これは難しい問題ですね。
 賢治は、「銀鉄」執筆開始時にすでに何らかの宇宙哲学を持っており、宇宙が地球や人間に及ぼす3時限的な「物理的影響」(超自然的な力も含めて)を感じていました。その一方で、童話的な天体の平面的断片を弄することもしていました。「銀鉄」にはこの両面が登場しているので、難しいことになっており、そこに何らかの不整合が感じられて、読者にもこのために「銀鉄」が賢治の会心作に見えないのかもしれません。

 これと「風の又三郎」と比べてみると、「又三郎」のほうも少年や自然の断片が継ぎ合わされていて全体のテーマとの関係が難しいことになっているようですが、私はこちらは何となく不可解ながらもかっちりとした完成度を作っているように思います。なぜそうなのかはまだわかりません。

 いっぽうの足穂のほうですが、これについては、新しいほうのスレッドに乗り換えまして書かせていただきます。

_ S.U ― 2013年03月22日 07時56分05秒

3時限的→三次元的 です。 すみません。

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