表明 ― 2017年06月13日 22時22分09秒
この時期にカエルの腑分けの話ばかりしていると、腑抜けと思われるかもしれないので、あえて表明します。私の考えは、これまで折に触れて書いてきたので、今さら感もありますが、今日は「閑語」ではなく、「天文古玩」として正式に述べます。
「天文古玩」の管理人として、共謀罪にはきっぱりと反対です。
それは「天文古玩」の基本精神である、<呑気、自由、大らかさ>にそむくものです。
それは「天文古玩」の基本精神である、<呑気、自由、大らかさ>にそむくものです。
民主主義のうねり高し ― 2017年06月15日 07時00分41秒
国民の代表たる首相の下、自由と民主をうたう大政党が、民主主義を謳歌しながら、のびのびと議会運営をするのを目の当たりにして、大いに瞠目しています。
いろいろ話題の北朝鮮が「民主主義人民共和国」を名乗り、最高指導者が最高人民会議という名の議会を統べて、万事処している様子に、報道で日々接しているので、「北朝鮮に負けるな、北朝鮮以上の民主主義国家を目指せ」という勇ましい気概が、永田町に満ち満ちても、ことさら異とするには足りません。
とはいえ、私には北朝鮮が手放しでお手本とすべき国家とは思えないので、最近の永田町を覆う空気には首をかしげざるを得ません。
永田町の諸氏は気づいてないかもしれませんが、日本には日本の良さがありますから、そんなにやみくもに隣国の真似をしなくても良いのにと思います。
★
「耳掃除は必ず右の耳から始めること」
…という法律が出来ても、あまり痛痒は感じないでしょうし、別に恐るるに足りません。
でも、そんな阿呆な法律が通る世の中、通す政治家は、まことに恐るべきものです。
共謀罪もそれと似ています。
もちろん共謀罪は耳掃除よりも深刻で、今後、恣意的な捜査・逮捕がまかり通ることで、多くの非行・蛮行が行われることは確実です(というか、それこそが法の目指す所でしょう)。それには、はっきりと反対し続けねばなりません。
しかし、そんな悪法が堂々と通る世の中、易々と通す政治家こそ、共謀罪以上に恐るべきものという気がします。こちらについて、一体どのように対処すればよいのか?
今後も、<呑気・自由・大らかさ>の旗を降ろす気はないので、「天文古玩」自体はまったく変わらぬ姿勢で続けるにしても、一人の国民として、「こんな世の中」をどのような顔で生き、「こんな政治家」に向って何を語ればいいのか?
途方に暮れて空を見上げても、星は涼しい顔です。
いっそ憎らしいぐらいですが、たぶんその答を星に問うべきではなく、今は私自身が星に問いかけられている場面なのでしょう。
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それにしても、無理が通れば道理が引っ込むとは、よく言ったものです。
しばし頭を垂れ、そして歩み出す ― 2017年06月16日 21時34分57秒
「冬の時代」にも夏はやってきます。
夏至を前にして、なかなか暑いですね。
でも、暑さを顧みず、昨日は黒ネクタイを締めて出勤しました。国会の――「民主主義の」とは、敢えて言いますまい――死に対して、ささやかな弔意を表したいと思ったからです。まあ、単なる自己満足に過ぎないんですが、自己満足でも何でも、そうしなければならない気分の時があるものです。
さあ、国会の墓碑に一輪の白い花を手向けたあとは、再び「天文古玩」のルーチンワークに戻ることにしましょう。
蛙も首を長くして待っています。
本邦解剖授業史(5) ― 2017年06月17日 11時56分44秒
さて、余儀なく授業が中断していましたが、この辺で再開します。
いよいよカエルの身体にメスが入ります。
でも、いきなりお腹にブスリ…ということはしません。
内臓を観察するだけなら、それでも良いのですが、カエルの身体構造をつぶさに観察するには、まず後肢から手術を始めます。
後肢では、主に筋肉と骨格、それに神経を観察します。
あまり文字に書き起こすのもどうか…と思いますが、その描写がかなり具体的なので、記してみます。
「蛙を蛙板に腹位に固定し、薬品にて麻酔せしめたる後、次の手術をする左手にピンセット、右に鋏を持ち、蛙の右後肢の大腿の中央部の皮膚をピンセットで撮〔つま〕み上げ、右の鋏でパチンと縦に切る。切れ目に鋏をいれて腿から足の尖端へ向って縦に長く皮膚を切る。膝関節のところでは皮膚が下の組織とくっついてゐるから少し注意して鋏で切るがよい。」(p.55)
そして、胴体に収まった内臓諸器官の観察。
これもまた描写がなかなか細かいです。
「蛙を今度は仰臥位(背位)に固定する。
胸を指で撫ると胸骨にふれる。骨に沿ふて下ると、その終り剣状突起に触れる。〔…〕で、これより少し下と思ふ所の皮膚をピンセットで摘みあげて、鋏でその下の筋肉も諸共に切断して、腹壁に小さい穴を開ける。茲〔ここ〕に鋏をいれて、腹壁を左と右の両側に切り開き、両側に達したら側腹を真直ぐ下方へ切り進んで、股まで行って止める。」(p.101)
胸を指で撫ると胸骨にふれる。骨に沿ふて下ると、その終り剣状突起に触れる。〔…〕で、これより少し下と思ふ所の皮膚をピンセットで摘みあげて、鋏でその下の筋肉も諸共に切断して、腹壁に小さい穴を開ける。茲〔ここ〕に鋏をいれて、腹壁を左と右の両側に切り開き、両側に達したら側腹を真直ぐ下方へ切り進んで、股まで行って止める。」(p.101)
もちろん解剖の実技はこれにとどまるものではなく、他のページには、いっそう刺激的な記述が並んでいますが、それらは割愛します。
そもそも解剖はひとつの手段であって、その先にある目的は、生体構造を観察し、その働きを実験的に確かめることです。当然、この本でもその部分に多くのページを割いて、筋肉の疲労実験、神経の電気刺激実験、心拍動の実験、消化実験…等を紹介しています。
(本書口絵。「蛙心臓迷走神経並に後肢諸筋」。右側に見えるのは、先端にプラスマイナスの電極を仕込んだ「白金電導子」)
いずれにしても、先に紹介した小野田伊久馬(著)『小学校六箇年 理科教材解説』(明治40年=1907)の解説にあった、「蛙を解剖せんには〔…〕腹部の中央より、縦に切開すべし。」というような、単純素朴なものではないことは確かで、解剖実習をしっかり行うことは、相当の知識と経験を要することですから、そうしたものを小学校の先生が身に着けるようになった――少なくとも身に着けられる環境が整った――のは、やはり大正時代以降なのだと思います。
(そして時代は戦後へ。この項さらにつづく)
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▼閑語(ブログ内ブログ)
昨日の記事は、いささか感傷的に過ぎたようです。
国会が死んだままで良いはずはないので、おーいおーい!と声を限りに魂呼ばいし、それでも蘇生が叶わなければ、反魂の術を用いてでも…。
でも、原子の炎で焼かれた広島や長崎に緑が甦り、人々の暮らしが甦ったように、そこにまともな人がいて、まともな声を挙げ続ける限り、特に暗黒の秘術に頼らなくても、国会は自ずと甦るのではないかという気もします。
まずはまともな声を絶やさぬこと、それが大切だと思います。
本邦解剖授業史(6) ― 2017年06月18日 09時11分50秒
こうして、大正の後半ぐらいから、戦争をはさんで昭和の後半にいたるまで、日本中の学校で解剖の授業が行われたように想像します。ただし、その実態が何となくボンヤリしています。
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生のデータを求めて、この連載の最初に返って、串間努氏の『まぼろし小学校』(小学館)に採録された、解剖体験記を引用させていただきます。カッコ内は、アンケート回答者の生年と学校時代の居住地です。
●ミミズ、フナ、カエル、メダカ。カエルは解剖後、アルコールランプで調理し、いただきました。美味しかった。 (昭和35年生 東京都文京区)
●カエル、コイ(コイは後で煮て食べました。その匂いが廊下まで漂ってきて、いい匂いだったこと!) (昭和38年生 長野県飯田市)
●「解剖は可哀想」ということで、やらなかった。 (昭和37年生 石川県羽咋郡)
●たぶん、イワシ。 (昭和41年生 熊本市)
●カエル、フナ、メダカ。 (昭和45年生 岐阜県各務原市)
●金魚(250円の出目金)。 (昭和46年生 東京都足立区)
●解剖は残酷だと新聞で話題になり始めた頃なので、したことがありません。 (昭和46年生 奈良市)
●解剖は、教師がやって生徒は見てるだけでした。 (昭和47年生 岐阜県関市)
●何も殺しませんでした。一寸損したな、と思ってます。 (昭和48年生 群馬県勢多郡)
●解剖は、カエルを殺すならネコを殺すも同じだとされ、禁止されていました。 (昭和51年生 千葉県松戸市)
●カエル、コイ(コイは後で煮て食べました。その匂いが廊下まで漂ってきて、いい匂いだったこと!) (昭和38年生 長野県飯田市)
●「解剖は可哀想」ということで、やらなかった。 (昭和37年生 石川県羽咋郡)
●たぶん、イワシ。 (昭和41年生 熊本市)
●カエル、フナ、メダカ。 (昭和45年生 岐阜県各務原市)
●金魚(250円の出目金)。 (昭和46年生 東京都足立区)
●解剖は残酷だと新聞で話題になり始めた頃なので、したことがありません。 (昭和46年生 奈良市)
●解剖は、教師がやって生徒は見てるだけでした。 (昭和47年生 岐阜県関市)
●何も殺しませんでした。一寸損したな、と思ってます。 (昭和48年生 群馬県勢多郡)
●解剖は、カエルを殺すならネコを殺すも同じだとされ、禁止されていました。 (昭和51年生 千葉県松戸市)
ごく少数の例ですが、どうやら昭和45年生まれの人が、小学校高学年から中学1~2年生を過ごしたあたり、すなわり昭和50年代後半に、解剖授業の有無の境目があるらしい…ということを、この連載の1回目で述べました。
ここでもうちょっと底堅い事実を求めて、過去の新聞記事に当ったら、いくつか興味深い記事を見出したので、該当記事を引用してみます。(以下、青字は引用者による強調)
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まず、今から四半世紀前、平成5年(1993)の記事です。
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読売新聞(1993.11.13 大阪版朝刊)
カエルの解剖 残酷さなく感動も 生命の尊さ学ぼう 大教大付属平野中が公開
カエルの解剖 残酷さなく感動も 生命の尊さ学ぼう 大教大付属平野中が公開
珍しくなったカエルの解剖が十二日、大阪教育大付属平野中学校(大阪市平野区)で開かれた教育研究発表会で、関西の公立中学教諭ら約五十人に初めて公開された。かつては、どこでも見られた授業風景だが、野生ガエルの激減による入手難に加え、残酷との声が出て多くの教室から姿を消している。
中二理科の授業で、田中啓夫教諭(45)が「生き物に触れて、直接、体の仕組みを学ぶだけでなく、生命の神秘や思いやりを知ってほしい」と十五年前から取り入れている。この日は、四十一人の生徒が、十一班に分かれ、業者から購入した体長約二十センチのウシガエルを各班一匹ずつ、解剖用のハサミとピンセットを使って真剣なまなざしで挑戦。「せき髄と脳」「消化器官のつくり」などテーマは生徒が決めた。
麻酔はかけたものの、血が出て、時々動くカエルにたじろぐ女子生徒もいて、最初は気味悪がっていた様子だったが、「最後まで心臓が動いていた。生命力の強さに感動した」「かわいそうだったけど、命の大切さがよくわかった」など感想を話していた。
カエルなどの解剖は、中学校理科の教師向け指導書の中にあるが、扱っていない教科書が多い。授業では話だけで終わり、取り入れている学校でも、実験用の十センチほどのアフリカツメガエルを教師だけが解剖したり、死んだ魚やビデオで代用したりしている。
見学した公立中の教諭は「十年以上前からやっていませんが、素晴らしい取り組みだと思う」などと評価。京都府大宮町立大宮中の古橋克彦教諭(39)は「女子生徒が嫌がらず、目を輝かせていたのが印象に残った。興味本位ではなく、解剖を通して何を学ぶかの意識付けが大切。そうでないと、残酷な実験に終わるだけ。授業で実施したいと思います」と話していた。
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当時、すでに解剖授業が珍しい存在だったことがよく分かります。
また、その要因として、「野生ガエルの激減による入手難」、「残酷との声」、そして「該当記述の教科書からの消退」が挙げられています。見学した先生の「10年以上前からやっていませんが…」という声から察するに、1980年代の初め、すなわち昭和50年代後半に解剖授業が行われなくなったとおぼしく、これは上の推測とよく符合します。
(引用が長文に及ぶので、ここで記事を割ります)
本邦解剖授業史(7) ― 2017年06月18日 09時18分04秒
(今日は長文2連投です)
上の読売の記事から更に10年余りが経過した、平成16年(2004)の状況を伝えるのが、以下の記事。
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朝日新聞(2004年10月3日 東京版朝刊)
減り続ける解剖実験 「毎年実施」6% 小学校、子どもの抵抗強く
減り続ける解剖実験 「毎年実施」6% 小学校、子どもの抵抗強く
魚やカエルの解剖実験をする学校が減っている。小学校での実施率は約2割という調査結果が今年8月の日本理科教育学会で報告された。今の小中学生の親たちが学んだころに比べ、生命尊重の考えが広がり、教科書の扱いも小さい。流れは変わらない様子だが、本物の命にふれる絶好の機会になる、と新しい視点で解剖授業に取り組む教師もいる。(高橋庄太郎)
小学生は6年の理科で、人や他の動物の体について学ぶ。解剖実験はその一環で、主に魚の内臓を見て、体のつくり、働きを確かめる。
昨年末、鳩貝太郎・国立教育政策研究所総括研究官らのグループが全国の実態を調査し、理科教育学会で発表した。
計575校の理科主任の回答によれば、過去3年間に「毎年解剖実験をした」学校は6%で、「したりしなかったり」と合わせても22%だった。解剖実験をしなかった理由で一番多いのは「教科書で扱っていないから」。「視聴覚教材で代替できる」「生命尊重の教育に反する」が続く。
魚の解剖は、1958年、学習指導要領の「指導書」に盛り込まれたのをきっかけに、教科書が詳しく記し、学校でも取り組み始めた。解剖の仕方を教師に伝える講習会が盛んに開かれた。
その後、指導要領の改訂が重なる中で、解剖の位置づけは低くなり、現行要領の「解説」(以前の指導書に相当)は「(体内観察には)魚の解剖や標本などの活用が考えられる」という表現になっている。
理科教科書は6社から出ているが、3社はフナなどの解剖を取り上げ、ハサミの使い方、解剖した状態の写真、図を載せている。しかし、他の3社は魚の消化管を図解しているものの、解剖にはふれていない。
解剖実験は学習内容として最もインパクトが強いといわれるが、準備、後始末に手間がかかるなど教師の負担が大きい。「生きた魚を殺すのはかわいそう」「気持ち悪い」「こわい」など、子どもの抵抗感が強い。
○「命の授業」で取り組み
最近は命の大切さを教えることが学校の重要課題になっている。現行の指導要領の「解説」でも、動物などの体の学習のねらいとして、「生命を尊重する態度を育てる」とうたっている。
教科書会社の理科担当者は「教科書に解剖の仕方を載せても、やる必要はないと判断する学校が多いと思う。生きたフナ、コイを入手することも難しくなった」と話す。
全国調査をした鳩貝・総括研究官は(1)60年代から70年代をピークに解剖実験は減り続けてきた(2)新採用教員の多くは自ら経験していないのでさらに減ると予測し、次のように言う。
「動物の生命を実感し、その大切さを知る解剖実験は、生物愛護、生命尊重の態度を育てる理科の目標にかなう。ただし、解剖理由を十分説明するなど入念な準備や謙虚な姿勢が欠かせない」
学校の中にも解剖実験の役割を評価する声はある。岐阜県飛騨市立古川西小の重山源隆先生は前任校で生きたコイを解剖させた際、子どもの気持ちを調べた。
事前アンケートでは不快、恐怖、同情からの抵抗感が強かったが、終わった後、道徳の時間に話し合わせたら「命を奪うのは残酷だが、命の大切さがわかるような気がする」などの意見が目立つようになった。
「生き物の死を真剣に受け止め、理性で考えるようになった。動物は死んでも生き返る、と信じる子がいる時代に、やりっ放しにしないなど教師側がしっかり取り組めば、解剖実験で得られるものは大きい」と重山先生は指摘する。
○中学校でも傾向は同じ
中学校では60年代、人の体のつくりに近いカエルの解剖が理科に組み込まれた。学習指導要領で明記したのがきっかけだ。しかし、小学校の魚と同様、指導要領の扱いが小さくなった。
5種類ある現行の教科書を見ると、カエルはその呼吸法を見るなど観察の対象とされている。カエルにふれていない教科書もある。各教科書が解剖写真を載せていたのとは様変わりだ。
◆小学校での魚の解剖実験は必要?
必要性は感じない 64.0%
必要 28.3
してはならない 1.6
わからない 6.1
(理科主任約570人の回答)
【写真〔省略〕説明】
東京都杉並区では、多くの区立小学校が設備のそろった区立科学館でコイの解剖をしている=杉並区立若杉小提供
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ここには興味深いデータがいろいろ紹介されています。
まず、わりと最近でも(といっても10年前ですが)、6%の小学校が、毎年解剖の授業を行っており、「したりしなかったり」という学校を含めると、2割強の学校で解剖が行われていたという事実―。これは結構多いような気もしますが、でも、これは家庭科で魚の下ろし方を習うのと兼用…という学校も含んでの数字でしょうから、やっぱり少ないは少ないです。
そして、この記事で知った重要な新事実。
それは、魚の解剖が普及したきっかけは、1958年(昭和33)の小学校の『学習指導要領』に付属する「指導書」に、該当事項が盛り込まれたことであり、同じくカエルの方も、同時期の(記事は正確な年代を挙げていませんが1960年代)中学校の『学習指導要領』に明記されたことが普及の原因となった…ということです。
したがって、この連載の第1回で、「これまで文科省が公式に「解剖をしろ」とも「するな」とも通達した形跡はなく、ある年を境として、全国一斉にパッと切り替わったわけではありません。」と書いたのは不正確で、廃止の方はともかく、その普及については、制度的な裏付けがあったことになります。(当時、先生を対象にした解剖講習会が盛んに開かれたというのも、興味深いです。)
こうして、国立教育政策研究所(当時)の鳩貝氏が総括したように、戦後の解剖授業のピークは1960年代~70年代(昭和35年~55年)であり、その後は減少傾向に歯止めがかからずに推移…という概況をたどったわけです。
★
ところで、上で引用した2つの記事の中間、平成10年(1998)には、以下のような珍妙な「事件」も報じられています。
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毎日新聞(1998年12月17日 大阪版夕刊)
東大阪市の男性教諭、児童の目の前でネコの死体解剖
東大阪市の男性教諭、児童の目の前でネコの死体解剖
東大阪市立小学校3年担任の男性教諭(47)が理科の授業で、ネコの死体を解剖して見せ、児童が泣き出したり、気分が悪くなるなどのショックを受けていたことが17日、分かった。同校は「あってはならないこと」として教諭に注意。教諭も「軽率だった」と反省しているという。
同校や市教委によると、11月12日、学校近くの通学路で車にひかれたとみられるネコの死体が見つかり、市の環境事業所が引き取りに来るまで、この教諭が保管することになった。
教諭は翌日午前、動物の体のしくみを教える授業の一環として、理科室でカッターナイフでネコを解剖し、内臓を取り出して児童に見せたという。保護者の抗議で学校側が知った。
教諭は生物を得意としており、「授業に役立てようと考えた」と話しているという。校長は「子供たちは残酷に感じたと思う。教諭を厳しく指導した」と言い、市教委指導室は「同様のことがないよう研修などで徹底したい」としている。
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この教諭は、別に猟奇な先生ではなく、むしろ地元の教育研究発表会なんかには率先して参加するタイプの先生だったんじゃないでしょうか。そして、1998年という年を考えると、当時好評を博していた、「ゲッチョ先生」こと盛口満氏の一連の著作に触発されて、「子どもたちに生物のリアルな姿を伝えたい」と考え、こういう挙に出た可能性もあります。
私は何となく憎めないものを感じますが、さすがに小学3年生の児童を相手に、ネコの解剖は、無理がありました。まあ、事の是非はさておき、解剖授業衰退期に起きた奇妙なエピソードとして、ここに紹介しておきます。
(次回、この話題をめぐる落穂拾いをして、この項完結予定)
本邦解剖授業史(補遺) ― 2017年06月19日 21時50分56秒
解剖授業の盛衰について、その輪郭を絶対年代に位置づけることができたので、今回はとりあえず良しとし、新事実が分かればまた付け加えることにします。
★
ところで、日本では上のような次第として、海外ではどうなんでしょう?
海外と言っても広いですが、たとえばアメリカ。
アメリカでは日本以上に動物愛護の声が強いのかな…と思ったら、どうもアメリカの人の慈悲も、カエルにまでは届かないのか、今でもカエルの解剖は、全米の中学校でバンバン行われていることを、下の記事で知りました。
■Dissecting A Frog: A Middle School Rite Of Passage
(カエルの解剖―中学校における通過儀礼)
(カエルの解剖―中学校における通過儀礼)
そう長い記事でもないので、全文を訳出してみます(意味が通らないところがあるので、例によって適当訳です)。
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「カエルの解剖―中学校における通過儀礼」
<前書: このシリーズでは、私たちが小・中学校時代に―たとえごく短期間にせよ―慣れ親しんだ象徴的なツール、例えば計算尺と分度器とか、全国体力テストとか、積み木等について、集中的に取り上げる。>
<以下、本文>
ロブ・グロットフェルティの生物実験室には、ブンゼンバーナーやシャーレと並んで、奇妙なパッケージが積まれている。中身は死んだカエルだ。真空包装され、5個積みになっている。
袋を破ると、ヒョウガエル〔=トノサマガエルの近縁種〕からは、すぐに刺激的な臭いが漂いだし、もう死んでいるはずなのに、やけにヌルヌルしている。
ボルチモアにある、パターソン・パーク・パブリック・チャーター・スクールの7年生〔=中学1年生〕の中に、ゲンナリしている生徒がいる理由はそれだ。
「死んでる動物のお腹を切り割くなんて!」と、テイラー・スミス。彼女は黒いスモックにすっぽり身を包み、プラスチック製のゴーグルとゴム手袋を装着している。「こんなもの放り出したいわ」。
多くのクラスメートと同様、テイラーも、このホルマリン漬けのカエルに触るのは嫌だし、ましてやそれを解剖して、黒っぽいねばねばした内臓を取り出すなんて、真っ平ごめんだと思っている。
グロットフェルティ先生の目的は、生徒たちに嫌悪感を乗りこえさせることだ。
「でも、僕たちが真に関心を持っているのは、カエルの身体の仕組みなのかな?」と、先生はクラスのみんなに問いかける。「僕たちはカエルについて学んできたのだろうか?いや、違うよね。じゃあ、僕たちは何を学んできたんだろう?」
答は「人間について」だ。
カエルはそのためのステップに過ぎない。最初、クラスの生徒たちは、ミミズを解剖した。次はニワトリの羽だ。ハイスクールになれば、扱う動物はもっと大きくなる。ネズミ、ネコ、ブタの胎児。いずれも我々自身の身体の仕組みについて教えてくれる。
「リアルな対象には、腹にずしんと来るような、大切な何かがありますよ。」と、全米理科教師連盟の常任理事、デイビッド・エヴァンスは語る。「この特定の器官の手触りは?どれぐらい硬いのかな?押せばへこむかな?とか。」
好むと好まざるとにかかわらず、こうした仕組みを学ぶには、以前は死んだ動物を使うことが、生徒たちにとって唯一の選択肢だった。しかし、1987年に状況が変わった。この年、カリフォルニアのビクターヴィルに住む15歳のジェニファー・グレアムが、生物の授業でカエルの解剖をすることを、断固拒否したのだ。
グレアムの話題は、当時大きなニュースになった。彼女はそれを法廷に訴え、最終的に「生徒には生身の生物以外の選択肢も与えるべし」という州法が成立した。現在までに、少なくとも他に9つの州で、同様の州法が制定されている。
それ以来、コンピュータによるモデルが教室に進出を続けている。全米理科教師連盟は、教育手段としての解剖の重要性を依然として主張しているものの、現在では教員に対して、生徒に選択の機会を与えることを求めている。
グロットフェルティは、両方を併用している。彼によれば、コンピュータ・モデルは、生徒が解剖学の理論を理解するのに役立ついっぽう、実際の解剖は、めったにないやり方で生徒を引き付ける。
「生徒たちは解剖の授業をずっと楽しみにしてきたんですよ。これこそ生徒たちがやってみたいことなんです。」とグロットフェルティは言う。
たしかに、気の弱い生徒ですら、今や解剖トレイの周りでそわそわしながら、事が始まるのを待ち望んでいるようだ。
理科は好きじゃないと言っていたテイラーはどうだろう。彼女は今まさに小さなはさみを使って、カエルの鎖骨を切断しようとしている。
「もうちょっと力を入れて」とグロットフェルティが声をかける。「何かはじける音や割れる音が聞こえないかい。」
テイラーと彼女の班は、一つずつ、内臓をラミネートされた紙の上に並べていく。
「私はもう弱虫なんかじゃないわ」と、テイラーは言う。「解剖って面白い。」
解剖は、一部の人にとっては依然として議論のある実習だが、グロットフェルティ曰く、テイラーの豹変こそ、解剖が持つ力の例証なのだ。すなわち、いつもなら理科嫌いの生徒ですら、カエルの消化管には、大いに夢中になれるのだ。
<前書: このシリーズでは、私たちが小・中学校時代に―たとえごく短期間にせよ―慣れ親しんだ象徴的なツール、例えば計算尺と分度器とか、全国体力テストとか、積み木等について、集中的に取り上げる。>
<以下、本文>
ロブ・グロットフェルティの生物実験室には、ブンゼンバーナーやシャーレと並んで、奇妙なパッケージが積まれている。中身は死んだカエルだ。真空包装され、5個積みになっている。
袋を破ると、ヒョウガエル〔=トノサマガエルの近縁種〕からは、すぐに刺激的な臭いが漂いだし、もう死んでいるはずなのに、やけにヌルヌルしている。
ボルチモアにある、パターソン・パーク・パブリック・チャーター・スクールの7年生〔=中学1年生〕の中に、ゲンナリしている生徒がいる理由はそれだ。
「死んでる動物のお腹を切り割くなんて!」と、テイラー・スミス。彼女は黒いスモックにすっぽり身を包み、プラスチック製のゴーグルとゴム手袋を装着している。「こんなもの放り出したいわ」。
多くのクラスメートと同様、テイラーも、このホルマリン漬けのカエルに触るのは嫌だし、ましてやそれを解剖して、黒っぽいねばねばした内臓を取り出すなんて、真っ平ごめんだと思っている。
グロットフェルティ先生の目的は、生徒たちに嫌悪感を乗りこえさせることだ。
「でも、僕たちが真に関心を持っているのは、カエルの身体の仕組みなのかな?」と、先生はクラスのみんなに問いかける。「僕たちはカエルについて学んできたのだろうか?いや、違うよね。じゃあ、僕たちは何を学んできたんだろう?」
答は「人間について」だ。
カエルはそのためのステップに過ぎない。最初、クラスの生徒たちは、ミミズを解剖した。次はニワトリの羽だ。ハイスクールになれば、扱う動物はもっと大きくなる。ネズミ、ネコ、ブタの胎児。いずれも我々自身の身体の仕組みについて教えてくれる。
「リアルな対象には、腹にずしんと来るような、大切な何かがありますよ。」と、全米理科教師連盟の常任理事、デイビッド・エヴァンスは語る。「この特定の器官の手触りは?どれぐらい硬いのかな?押せばへこむかな?とか。」
好むと好まざるとにかかわらず、こうした仕組みを学ぶには、以前は死んだ動物を使うことが、生徒たちにとって唯一の選択肢だった。しかし、1987年に状況が変わった。この年、カリフォルニアのビクターヴィルに住む15歳のジェニファー・グレアムが、生物の授業でカエルの解剖をすることを、断固拒否したのだ。
グレアムの話題は、当時大きなニュースになった。彼女はそれを法廷に訴え、最終的に「生徒には生身の生物以外の選択肢も与えるべし」という州法が成立した。現在までに、少なくとも他に9つの州で、同様の州法が制定されている。
それ以来、コンピュータによるモデルが教室に進出を続けている。全米理科教師連盟は、教育手段としての解剖の重要性を依然として主張しているものの、現在では教員に対して、生徒に選択の機会を与えることを求めている。
グロットフェルティは、両方を併用している。彼によれば、コンピュータ・モデルは、生徒が解剖学の理論を理解するのに役立ついっぽう、実際の解剖は、めったにないやり方で生徒を引き付ける。
「生徒たちは解剖の授業をずっと楽しみにしてきたんですよ。これこそ生徒たちがやってみたいことなんです。」とグロットフェルティは言う。
たしかに、気の弱い生徒ですら、今や解剖トレイの周りでそわそわしながら、事が始まるのを待ち望んでいるようだ。
理科は好きじゃないと言っていたテイラーはどうだろう。彼女は今まさに小さなはさみを使って、カエルの鎖骨を切断しようとしている。
「もうちょっと力を入れて」とグロットフェルティが声をかける。「何かはじける音や割れる音が聞こえないかい。」
テイラーと彼女の班は、一つずつ、内臓をラミネートされた紙の上に並べていく。
「私はもう弱虫なんかじゃないわ」と、テイラーは言う。「解剖って面白い。」
解剖は、一部の人にとっては依然として議論のある実習だが、グロットフェルティ曰く、テイラーの豹変こそ、解剖が持つ力の例証なのだ。すなわち、いつもなら理科嫌いの生徒ですら、カエルの消化管には、大いに夢中になれるのだ。
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アメリカの解剖授業は、基本的に生体ではなく、死体の解剖のようです。
作業手順は似ていても、結局のところ死体は「もの」に過ぎませんから、その抵抗感において両者には大きな違いがあります。
そして、科学の名において生物を殺すことの倫理的問題(あるいは、素朴に命に手をかけることの怖さ)も、後者は生じにくいでしょう。
また、少なくとも一部の州で、リアルとバーチャルの2種類の解剖授業を選べるのは、なかなか良い工夫だと思います。でも、その主眼は、生命倫理の問題よりも、授業方法をめぐる生徒の自己決定権をどう保障するか…という点にあるようです。
本当に理想的な授業はどうあるべきなのか?
教育学畑の人や、現場の先生なら、ここで理科授業論を活発に展開できるでしょうし、そうでない人も、解剖授業を素材にした日米比較文化論には興味を持たれるかもしれません。
私自身、特に結論を持ち合わせているわけではありませんが、でも、素朴な感想として、アメリカのやり方は巧妙であり、対する日本は直にしてナイーブな感じがします。(もちろん直でナイーブだからダメと言うことはできません。)
本邦解剖授業史(補遺2) ― 2017年06月21日 07時13分08秒
今年は空梅雨の気配がありましたが、今朝は窓を叩く雨の音に起こされました。
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しつこいようですが、最後にもう1回だけカエルのことを書きます。
この連載の第2回で、「理科教育関係者は、ぜひカエル供養やフナ供養をせねばならんところです」…と書きました。
ところが、その後、荒俣宏さんの『世界大博物図鑑3(両生・爬虫類)』(平凡社、1990)を見たら、ちゃんと「蛙の供養塚」というものがあることを知りました。
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「蛙の供養塚」
カエルは生物学、とくに発生、生理、遺伝の分野には欠かすことのできない教材や実験動物となっている。日本でも明治以降の近代科学の発達にともなって、多くのカエルが犠牲になった。そこで各地の大学や研究所で、供養のための慰霊祭が行なわれた。
鹿児島に残る蟇塚(がまづか)は、旧制第七高等学校の池田作太郎が創建した供養塔である。ヒキガエルだけを特別に祀り、犠牲1000匹ごとに供養が行なわれた。1910年(明治43)の第7回目の供養以来、3~4年に1度は供養されたことが記録に残る。なお、この供養塔は戦時中の空襲のために上半分が欠けている。
また慶応大学の生理学教室では、神経生理学の研究にガマを使用したので、1937年(昭和12)新宿塩町禅宗笹寺に蟇塚を建立した。
また東邦大学にも戦前は正門脇に高さ40cmほどの小さな蛙塚があったが、戦後の混乱で所在が行方不明になってしまったという。 (上掲書p.58、改行は引用者)
カエルは生物学、とくに発生、生理、遺伝の分野には欠かすことのできない教材や実験動物となっている。日本でも明治以降の近代科学の発達にともなって、多くのカエルが犠牲になった。そこで各地の大学や研究所で、供養のための慰霊祭が行なわれた。
鹿児島に残る蟇塚(がまづか)は、旧制第七高等学校の池田作太郎が創建した供養塔である。ヒキガエルだけを特別に祀り、犠牲1000匹ごとに供養が行なわれた。1910年(明治43)の第7回目の供養以来、3~4年に1度は供養されたことが記録に残る。なお、この供養塔は戦時中の空襲のために上半分が欠けている。
また慶応大学の生理学教室では、神経生理学の研究にガマを使用したので、1937年(昭和12)新宿塩町禅宗笹寺に蟇塚を建立した。
また東邦大学にも戦前は正門脇に高さ40cmほどの小さな蛙塚があったが、戦後の混乱で所在が行方不明になってしまったという。 (上掲書p.58、改行は引用者)
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さすがに、小中学校でそういう例はないのかもしれませんが、やっぱり気持ちの上では手を合わせてほしいです。
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なお荒俣氏といえば、以前、氏がカエルの解剖について、下のような発言をされたのが気になっています。
■ほぼ日刊イトイ新聞 - 目眩く愛書家の世界
「荒俣 このカエルの解剖図も、ものすごい。なにしろ「ピン」まで描かれている。ここまでのものは、なかなか出ない。〔…〕しかも、この「カエルの解剖図」はキリストの磔を寓意してもいるんです。「科学の犠牲となった聖なるカエル様」、そのような意味が含まれている。」
上の発言は、ドイツのレーゼル・フォン・ローゼンホフという人が書いた、『Historia Natvralis Ranarvm Nostrativm(カエルの自然誌)』という、18世紀半ばの博物学書について触れたものです。(リンク先には、問題の図も掲載されています。)
カエルが大の字になってる解剖図が、キリスト磔刑図の寓意になっている…というのですが、これは何か典拠(ウラ)のあることなのかどうか?あるいはカイヨワあたりの引用なのか、それとも荒俣氏の創見なのか?いずれにしても、一匹のカエルといえど、こうなると、なかなか大したことになってきます。
その辺に含みを持たせつつ、そろそろ話題が解剖授業から遠くなってきたので、宴たけなわではありますが、この辺でいったんお開きにしましょう。
(この項終わり)
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