和本の世界、過ぎゆく世界2017年10月05日 21時42分51秒

昨日、一通の封書が届きました。
F書房…と、イニシャルでお呼びする必要は、もはやないでしょう。その筋では有名な「ふくべ書房」さんが、このたび営業を終えられたというご案内でした。


ふくべ書房さんは、理系・博物系古書の専門店として、長く神保町に門戸を張り、その恐るべき質と量の在庫によって、マニアを眩惑し続けたお店です。

昨年、在庫整理のバーゲンセールがあり、さらに神保町から埼玉に移転されると伺ったときも、よもや完全に営業を終えられるとは思っていなかったので、この通知には少なからず衝撃を受けました。


定期刊行のカタログには、毎号「江戸の自然あります」の文字が―。

一口に「古書」と言っても、その範囲は広いですが、ふくべ書房さんは、江戸~明治の和綴じ本が主力商品で、和本というのは、現代日本人にとっては非常に遠い――ある意味、洋古書よりも遠い――存在ですから、その品揃えを眺めるだけで、一種エキゾチックなムードを感じたのでした。


ふくべ書房さんで注文した本が届いたとき、そこには常に喜びと驚きがありました。
本の中身は言うまでもありません。さらに、その外見がまた驚きを誘うものでした。
…といって、それらの本が、格別特異な風采だったわけではありません。和本には往々にして付き物の、古風な帙にくるまれていただけのことです。

でも、ある時、その帙が元からのものではなく、ふくべ書房さんが一つひとつに誂えたものと知って、店主の奥村氏がどれほど古書を大事にされているか、その古書に寄せる思いの深さを知って、驚いたわけです。

(明治版の 岩崎潅園著 『本草図譜(山草・芳草部)』。わりと廉価な本ですが、こうして帙にくるめば保存に便利だし、古書としての表情も華やぎます。)

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何だか、いかにも上得意のような顔をして書いていますね。
でも、あけすけに言えば、私は上客でも何でもなくて、同店の商品ラインナップからすると、最も安価な部類の品を、時々思い出したように買わせていただいただけです。
しかし、そんな零細な客に対しても、自筆のお礼状を一通一通出されているところに、店主の御人柄がしのばれ、心に温かいものが通います。

閉店を惜しむ気持ちはもちろんあります。でも、それは言っても詮無いことでしょう。
今はその思いをこうして語ることで、滋味豊かな古書の世界が、これからも永く続くことを祈るばかりです。

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書きながら、以前台湾で営業されていた胡蝶書房さんのことを、「ある書肆との惜別」と題して書き記したことを思い出しました。

たしかに美しい世界も無限には続きません。でも、陳腐な言い方になりますけれど、その美しい世界は記憶の中にこうして生き続けており、のみならず、そこでいっそう美しく輝くものです。