植物のかたち…ブロスフェルト『芸術の原型』について2019年04月09日 21時02分47秒

(昨日のつづき)

ブロスフェルトの『芸術の原型』は、新古いろんな版で出ていて、いったい何を買えばいいのか迷います。著作権の切れた現在、リプリント版もいろいろですが、古書に限っても、そのバリエーションはなかなか多彩です。

まず、『芸術の原型』のオリジナルは、120枚の図版を収録しています。
この点は、1928年にベルリンで出た正真正銘のオリジナル初版も、翌年、英・米・仏・スウェーデンで出た各国語版も同様です。

その後、1935年に<普及版>として、図版を96枚に減らした版が出ました。
これも長く版を重ねて、ずいぶん売れたので、古書市場にはたくさん出回っています。別に普及版が悪いというのではありませんが、オリジナルの姿を求めるならば、ここは要注意です(なお、後のリプリント版にも、120枚と96枚のバージョンが混在しています)。

さらにややこしいのは、1928年の初版には2つの形態が存在することです。
1つは通常の本の形をしたものです。
そして、もう1つは額装して楽しめるよう、あえて製本せず、1枚1枚の図版がバラバラの状態でポートフォリオ(秩)にくるまれたものです。これはごく少部数が作られただけらしく、今では稀本として、古書市場では非常な高値で取引されています。

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私の場合、後版でもいいので、作者と同時代に出たオリジナルを求めたいところですが、今回はちょっと違って、「ポートフォリオ版の現代におけるリプリント」という、折衷案を選択しました。その時の気分として、額に入れて眺めたいという思いが勝ったからです。でも、これまでそうやって眺めたことは一度もないので、ちょっと無駄な力み方だったかも。


Karl Blossfeldt(著)、Ann & Jürgen Wilde(編)
 ART FORMS IN NARURE:New Edition as Portfolio
  Stiftung Fotografie und Kunstwissenschaft (Köln), 2003

それでもこの選択は、やっぱり正解です。
こういうものは、いろいろ並べ替えて、あれこれ比較するところに、一層の面白さがあると思うからです。


それにしても―。
そもそも植物はなぜ美しく感じられるのか?


まず、そこに命が通っているという事実が、人の心に強く訴えかけます。
まあ、命が通っているからといって、それを美しく感じることの説明にはなりませんが、命ある存在として、命ある他者に感応する心の動きが、人間には本来備わっているんだ…と言われれば、確かにそんな気がします。日光を浴びて次々に開く若芽、ぐんぐん伸びる枝の勢い、軽やかに揺れる下草、どっしり聳える大樹…、そんなものを見ると、人は理屈抜きに「あはれ」と呟きたくなるものです。


また、もう一つの要因として、その形が完全に機能的だということがあります。
進化のドラマの中で、より機能的な形態が生き延びるということを、何億世代も繰り返せば、勢い植物が機能美に富むのも当然です。そして機能的なものは、多くの場合、その線や面をシンプルな関数で表現できるとか、何かしら理知的な感興を伴うものです。いわば「をかし」の美。


要は「命の通った機能美」―それこそが植物の美の本質でしょう。
ブロスフェルトの作品が我々の心を打つのも、植物の細部にまで―むしろ細部にこそ―「命の通った機能美」があふれていることを、明快に表現しているからだと思います。