気象観測(2) ― 2006年04月14日 06時19分21秒
(前日の続き)
天文趣味には、星座神話にしろ、壮大な時空のスケールにしろ、月や土星をはじめとする役者たちにしろ、「あからさまなロマン」が豊富にありますが、気象学のロマンはそれよりもずっと控えめで、奥ゆかしいように感じられます。
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校庭の隅に凛と白く立つ百葉箱の風情。
カラカラ回る風力計の音。
雨気を含んだ、湿った空気の匂い。
ラヂオから流れる眠たげな気象通報 「南大東島では西南西の風、風力3…」。
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そこには確かに豊かな詩情があります。
しかしその詩情は俳味に近いというか、抽象度の高い知的な要素が多分にあるような気がして、自ずと遠慮の気持ちが働くわけです。
「趣が深いのは天文台より、断然測候所だね」と、事も無げに言える段階まで行ったら凄いな…と思います。(何だか訳がわかりませんが)
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ところで、今では全く忘却の淵に沈んでいますが、かつて気象観測が誇らしげな科学趣味として営まれた時期があります。
例えば19世紀の英国では、多くの地方ジェントルマンや聖職者たちが、計器示度を丹念に記録し、データをグリニッジに報告することに、知的な喜びと誇りを感じていました。
“自分は気象学の進歩に貢献しているのだ”という実感が、その活動を動機付けていたわけですが、天文の分野ならば、さしずめ変光星や黒点観測のようなフィールドと対になるものだと思います。
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