賢治の星座早見(2) ― 2007年08月29日 22時39分12秒
〔…〕そのまん中に円い黒い星座早見が青いアスパラガスの葉で飾ってありました。
ジョバンニはわれを忘れて、その星座の図に見入りました。
それはひる学校で見たあの図よりはずうっと小さかったのですが、その日と時間に合せて盤をまわすと、そのとき出ているそらがそのまま楕円形のなかにめぐってあらわれるようになって居り、やはりそのまん中には上から下へかけて銀河がぼうとけむったような帯になってその下の方ではかすかに爆発して湯気でもあげているように見えるのでした。
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『銀河鉄道の夜』から「ケンタウル祭の夜」の一節。星祭りの宵、時計屋のショーウィンドウに飾られた星座早見盤の描写です。
上の写真は、例の早見盤の中央を拡大したところで、こうした図像を念頭において、賢治は上の文章を書いたのでしょう。黒々とした空。白くけぶる銀河。1羽の白鳥がその星の大河を越えていきます。
さて、説明が前後しますが、藤井旭氏の『賢治の見た星空』(http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/11/30/977064)を読むと、賢治とこの早見盤の関係が、以下のように書かれています(153ページ)。
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星座早見については、弟の宮沢清六さんが『虫と星と』で語られた賢治の思い出話もある。
「丸いボール紙で作られた星座図を兄はこの頃見ていたものですが、それはまっ黒い天空にいっぱいの白い星座が印刷されていて、ぐるぐる廻せばその晩の位置がわかるようになっているものでした」
「印刷されていた」とあるから、賢治が自作したものではなく市販の星座早見だとわかる。それなら話は簡単だ。当時、市販されていた星座早見は三省堂のものが唯一のものだったからである。これは東京天文台内天文学会編になるもので、1907年(明治40年)9月に発売されたものだった。
東京から遠く離れた岩手県に住む当時の中学生が、わずか二年後に手に入れて使っていたとは驚きだが、黒い地に白ぬきのこの星座早見はデザインもよくしっかりしたつくりだったので、賢治が手に入れた1910年ごろには修正第7版が刊行されるほどの人気ぶりだったという。
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昨日も書いたように、私の手元にあるのは昭和20年10月に出た第77版です。明治、大正、昭和と版を重ねた、大変なロングセラーです。それにしても、食べ物にも事欠くような時代でも(あるいは、だったからこそ?)、星の世界にあこがれる人々がいたというのは、何とも嬉しくかつ頼もしい話!
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