博物学の盛衰…紳士とジャムつぼ ― 2008年08月05日 20時23分04秒
↑「ジャムつぼ派」の聖典(?)、Furneaux 著、The Out-Door World (London, 1900)
さて、前回の続き。
著者アレンは「自然学習nature study」の授業に非常に厳しい評価を与えています。
アレンの主張を要約すれば、こういうことだと思います。
19世紀の末、ダーウィン主義の苛烈さに耐えられない人々がすがったのが「生気論」であり、そこに感傷主義、ふやけた理想主義、俗っぽい大衆教養主義、擬人主義がたっぷりと注ぎ込まれた末に、旧来の博物学とは似て非なるものが出現した。それが当時の教育改革運動にも影響し、その結果生まれた<鬼っ子>が「自然学習」なる教科だったと。
「自然の研究(そしてナチュラリスト)についてゆがめられた考えが世間に広まった〔…〕。それによって、自然の研究は、<授業> ― そして、さらに悪いことには、幼児のための授業〔…〕― との宿命的な結びつきを獲得した〔…〕。ごく普通の人にとって<ナチュラリスト>は、もはや真面目な顔をしてハンマーで岩をたたいたり、レンズを通して植物をのぞいている紳士の姿ではなく、ジャムつぼをもった汚いいたずらっ子を思い出させるものとなった。」(アレン、前掲書325~326頁)
「小学校を出たばかりの子供たちの、次々と波のように押し寄せる嗜好に、できるだけ誠実に応えようと競ったきわめて多岐にわたる新しい新聞や雑誌が、一斉に出現したことも、事態の助けにはならなかった。必然的に、自然学習はより大きな関心を集めるようになり、その過程で、その活力を教室のはるか外にまで拡張した。長い伝統をもつ博物学は、締め出され、その結果、大多数の人々に、博物学が時代遅れのやり方の代表だという印象を与えた。」(同327頁)
つまり、本来博物学はもっと深く大きなものであったのに、19世紀末から初等教育と結び付いたために、内容が矮小化され、真面目に取り組まれなくなった…ということです。かくして、
「第1次大戦後の10年間は〔…〕博物学の均衡をひどく失わせた。バードウォッチャーは引き続き多くいたが、他の分野の研究者たちは、後継者がいないまま急速に消えていきつつあった。昆虫のキャビネット、化石の引き出し、きちんとラベルが貼られた植物標本集、これらはもはや父から息子へと引き継がれなかった。〔…〕全体として、博物学のあまりにも多くの分野で、かつてあれほどいっぱいいた専門家たちが破滅的に消えていった。」(同393頁)
博物学の死!
しかし。博物学はそのまま死に絶えたわけではない…と、アレンは終章で書いています。博物学は、生態学という新しい学問を接木されたことで力強くよみがえり、今でも多数のナチュラリストが、全国的な組織を基盤に、旺盛な活動を続けているのは、そのおかげだと。
ヴィクトリア時代、あるいは続くエドワード時代の博物趣味を語るとき、(少なくとも私の場合)何となく1つのイメージで語ってしまうことが多いのですが、実際には、その内実と社会的意味合いは、きわめて大きな変化をこうむっていたのは確かなようです。
まあ、アレンの嘆きは別として、私自身は「高尚な紳士の趣味」である博物学にも、ジャムつぼを抱えて無心に昆虫を追う少年にも、それぞれ惹かれますし、強い郷愁を感じます。(アレンなら、博物学に郷愁を求めること自体間違いだ!と言うでしょうが。)
さて、前回の続き。
著者アレンは「自然学習nature study」の授業に非常に厳しい評価を与えています。
アレンの主張を要約すれば、こういうことだと思います。
19世紀の末、ダーウィン主義の苛烈さに耐えられない人々がすがったのが「生気論」であり、そこに感傷主義、ふやけた理想主義、俗っぽい大衆教養主義、擬人主義がたっぷりと注ぎ込まれた末に、旧来の博物学とは似て非なるものが出現した。それが当時の教育改革運動にも影響し、その結果生まれた<鬼っ子>が「自然学習」なる教科だったと。
「自然の研究(そしてナチュラリスト)についてゆがめられた考えが世間に広まった〔…〕。それによって、自然の研究は、<授業> ― そして、さらに悪いことには、幼児のための授業〔…〕― との宿命的な結びつきを獲得した〔…〕。ごく普通の人にとって<ナチュラリスト>は、もはや真面目な顔をしてハンマーで岩をたたいたり、レンズを通して植物をのぞいている紳士の姿ではなく、ジャムつぼをもった汚いいたずらっ子を思い出させるものとなった。」(アレン、前掲書325~326頁)
「小学校を出たばかりの子供たちの、次々と波のように押し寄せる嗜好に、できるだけ誠実に応えようと競ったきわめて多岐にわたる新しい新聞や雑誌が、一斉に出現したことも、事態の助けにはならなかった。必然的に、自然学習はより大きな関心を集めるようになり、その過程で、その活力を教室のはるか外にまで拡張した。長い伝統をもつ博物学は、締め出され、その結果、大多数の人々に、博物学が時代遅れのやり方の代表だという印象を与えた。」(同327頁)
つまり、本来博物学はもっと深く大きなものであったのに、19世紀末から初等教育と結び付いたために、内容が矮小化され、真面目に取り組まれなくなった…ということです。かくして、
「第1次大戦後の10年間は〔…〕博物学の均衡をひどく失わせた。バードウォッチャーは引き続き多くいたが、他の分野の研究者たちは、後継者がいないまま急速に消えていきつつあった。昆虫のキャビネット、化石の引き出し、きちんとラベルが貼られた植物標本集、これらはもはや父から息子へと引き継がれなかった。〔…〕全体として、博物学のあまりにも多くの分野で、かつてあれほどいっぱいいた専門家たちが破滅的に消えていった。」(同393頁)
博物学の死!
しかし。博物学はそのまま死に絶えたわけではない…と、アレンは終章で書いています。博物学は、生態学という新しい学問を接木されたことで力強くよみがえり、今でも多数のナチュラリストが、全国的な組織を基盤に、旺盛な活動を続けているのは、そのおかげだと。
ヴィクトリア時代、あるいは続くエドワード時代の博物趣味を語るとき、(少なくとも私の場合)何となく1つのイメージで語ってしまうことが多いのですが、実際には、その内実と社会的意味合いは、きわめて大きな変化をこうむっていたのは確かなようです。
まあ、アレンの嘆きは別として、私自身は「高尚な紳士の趣味」である博物学にも、ジャムつぼを抱えて無心に昆虫を追う少年にも、それぞれ惹かれますし、強い郷愁を感じます。(アレンなら、博物学に郷愁を求めること自体間違いだ!と言うでしょうが。)
コメント
_ S.U ― 2008年08月06日 22時49分53秒
_ 玉青 ― 2008年08月07日 09時16分02秒
おっしゃることはすべて至当です。アレンの文章を何となく読み流していましたが、確かに初等教育と結びついたから1つの学問が死滅したなどというのは変な話。
博物学が滅びた真の原因とは…
今、ちょっと奇をてらって書けば、学としての博物学は実はちっとも滅びなかったとも言えるんじゃないでしょうか。時代が19世紀から20世紀になっても、「動物学」や「植物学」や「地質学」はアカデミーの世界でますます発展を続けていったわけですから。
要するに滅びたのは、「動物学」や「植物学」や「地質学」と並立する意味での学問(何とかオロジー)ではなくて、natural history(自然を書き留める、記載する)という1つの方法論に過ぎなかったということです。
単なる方法論であれば、時代に合わなくなれば捨て去られるというのは、ちっとも不思議ではありません。膨大な標本コレクションを作り、新種を記載し、互いを比較観察し…最初のうちはそれで多くのことが見えてきましたが、だんだん一連の作業が機械的になってきて、やっている当人にも自分の行為の意味と成果が見えなくなってきたのかもしれません。ひょっとして、そこに1人のスーパーヒーローが登場し、画期的な新手法を打ち出していたら、博物学も力強く再生したのかもしれませんが、現実の歴史はそういう方向には進みませんでした。いや、あるいは定量把握の考えを持ち込んだ生態学がそれに当るのかもしれませんが、他にも「可能な未来」はいろいろありえたはずです。
ところで、個体発生は系統発生を繰り返すのかどうか、多くの「理科少年」個人も実は同じ葛藤を経験しているのかもしれません。例えば昆虫少年の多くは、“こんな風にひたすら標本を集めていったい何になるんだろう?”と思って、自然に昆虫少年を卒業していきます。己を見失わず、絶えず方法論を止揚しながら、職業サイエンティストになられたUさんのような方は実に幸いなるかな!と羨ましく思います。
博物学が滅びた真の原因とは…
今、ちょっと奇をてらって書けば、学としての博物学は実はちっとも滅びなかったとも言えるんじゃないでしょうか。時代が19世紀から20世紀になっても、「動物学」や「植物学」や「地質学」はアカデミーの世界でますます発展を続けていったわけですから。
要するに滅びたのは、「動物学」や「植物学」や「地質学」と並立する意味での学問(何とかオロジー)ではなくて、natural history(自然を書き留める、記載する)という1つの方法論に過ぎなかったということです。
単なる方法論であれば、時代に合わなくなれば捨て去られるというのは、ちっとも不思議ではありません。膨大な標本コレクションを作り、新種を記載し、互いを比較観察し…最初のうちはそれで多くのことが見えてきましたが、だんだん一連の作業が機械的になってきて、やっている当人にも自分の行為の意味と成果が見えなくなってきたのかもしれません。ひょっとして、そこに1人のスーパーヒーローが登場し、画期的な新手法を打ち出していたら、博物学も力強く再生したのかもしれませんが、現実の歴史はそういう方向には進みませんでした。いや、あるいは定量把握の考えを持ち込んだ生態学がそれに当るのかもしれませんが、他にも「可能な未来」はいろいろありえたはずです。
ところで、個体発生は系統発生を繰り返すのかどうか、多くの「理科少年」個人も実は同じ葛藤を経験しているのかもしれません。例えば昆虫少年の多くは、“こんな風にひたすら標本を集めていったい何になるんだろう?”と思って、自然に昆虫少年を卒業していきます。己を見失わず、絶えず方法論を止揚しながら、職業サイエンティストになられたUさんのような方は実に幸いなるかな!と羨ましく思います。
_ S.U ― 2008年08月07日 19時29分26秒
目からウロコが落ちるようなご達見をいただきありがとうございます。
天文学や物質科学~原子核素粒子物理学の分野では、21世紀になっても「自然を
書き留める」という方法論が重要な位置を占めています。これは、言うまでもなく
これらの分野では実験・観測装置の進歩が世紀をまたいで驚異的な持続力を見せて
いるからですが、研究者が、そのことの意味への問いかけに常に自らを直面させられ、
見失う余裕すらない、というのが現代であるといえるでしょう。
少年が趣味や自分の「文化」の形成において「個体発生が系統発生を繰り返している」
ということは考えたことがありませんでした。趣味や学問分野によって、系統発生を
繰り返すものと繰り返さないものがあるはずで、これを分類・比較することは面白いの
ではないでしょうか。理科教育の観点からも助けになるのではないかと思います。
初等教育は学問分野の持続には直接関係ないとしても、有能な才能を拾い上げ、
また、その分野への社会的な支持を維持するためには非常に重要です。
天文学や物質科学~原子核素粒子物理学の分野では、21世紀になっても「自然を
書き留める」という方法論が重要な位置を占めています。これは、言うまでもなく
これらの分野では実験・観測装置の進歩が世紀をまたいで驚異的な持続力を見せて
いるからですが、研究者が、そのことの意味への問いかけに常に自らを直面させられ、
見失う余裕すらない、というのが現代であるといえるでしょう。
少年が趣味や自分の「文化」の形成において「個体発生が系統発生を繰り返している」
ということは考えたことがありませんでした。趣味や学問分野によって、系統発生を
繰り返すものと繰り返さないものがあるはずで、これを分類・比較することは面白いの
ではないでしょうか。理科教育の観点からも助けになるのではないかと思います。
初等教育は学問分野の持続には直接関係ないとしても、有能な才能を拾い上げ、
また、その分野への社会的な支持を維持するためには非常に重要です。
_ DryGinA ― 2008年08月08日 17時20分46秒
おじゃまします。
おふたりの議論を楽しく拝読させていただきました。
アレン氏の意見は玉青さんご紹介のこの地でしか存じませんが、私もまた「旧来の博物学とは似て非なるものが出現した」真因を探る者として大変興味を持ちました。これは二十一世紀初頭の今、顕著に繰り返されているように思います。工学関係者はもとより理系の多くの学生も研究者も、“部品を学び部品を創る”ことでほぼ満足し評価を得ているように思えるのです。何故か…?
おふたりの議論を楽しく拝読させていただきました。
アレン氏の意見は玉青さんご紹介のこの地でしか存じませんが、私もまた「旧来の博物学とは似て非なるものが出現した」真因を探る者として大変興味を持ちました。これは二十一世紀初頭の今、顕著に繰り返されているように思います。工学関係者はもとより理系の多くの学生も研究者も、“部品を学び部品を創る”ことでほぼ満足し評価を得ているように思えるのです。何故か…?
_ 玉青 ― 2008年08月08日 20時22分01秒
>DryGinAさま
いらっしゃいませ!またまた硬派(?)のサイエンティストの登場ですね。
話の向きがこうなってくると、私がコメントする余地は少ないんですが、2008年現在、現状に閉塞感を覚えている分野ないし人々も少なくないということのようですね。
まあ、ブレイクスルーな研究を目指すならば、常に閉塞感を感じるぐらいでないと見込みはないわけで、それはある意味、健全でチャレンジングな姿なのかもしれません。閉塞‘感’すら覚えない人ばかりでは、それこそ完全な閉塞状況になってしまいますから。
>S.Uさま
素粒子物理学の周辺では、まだ自然史のワクワク感が満ちているというのは、何ともウレシイ話ですね。なるほど!と思いました。
しかし、理科少年の参加する余地はいかにも少ないですねえ。まあ、19世紀でも、ビーグル号の航海と、科学好きの少年との距離は非常に大きかったと思いますが、それとは肌合いの違う距離感を感じます。
ただ、素粒子というのはどこにでもありますから(!)、想像力次第では身近なものと感じられなくもなく、その辺で理科教育の工夫のしがいもありそうです。
いらっしゃいませ!またまた硬派(?)のサイエンティストの登場ですね。
話の向きがこうなってくると、私がコメントする余地は少ないんですが、2008年現在、現状に閉塞感を覚えている分野ないし人々も少なくないということのようですね。
まあ、ブレイクスルーな研究を目指すならば、常に閉塞感を感じるぐらいでないと見込みはないわけで、それはある意味、健全でチャレンジングな姿なのかもしれません。閉塞‘感’すら覚えない人ばかりでは、それこそ完全な閉塞状況になってしまいますから。
>S.Uさま
素粒子物理学の周辺では、まだ自然史のワクワク感が満ちているというのは、何ともウレシイ話ですね。なるほど!と思いました。
しかし、理科少年の参加する余地はいかにも少ないですねえ。まあ、19世紀でも、ビーグル号の航海と、科学好きの少年との距離は非常に大きかったと思いますが、それとは肌合いの違う距離感を感じます。
ただ、素粒子というのはどこにでもありますから(!)、想像力次第では身近なものと感じられなくもなく、その辺で理科教育の工夫のしがいもありそうです。
_ S.U ― 2008年08月08日 22時00分08秒
素粒子物理に高い評価をいただきありがとうございます。
素粒子物理学は少数の法則ですべての物質現象を説明することを究極の目標として
いますので、自然史的位相と根源的な法則の追求とが常に葛藤しています。法則の
追求を忘れることはありませんし、またそれを打ち砕くにはただ一つの反例を博物学的に
指摘するだけで十分です。この辺の魅力は理科好きの少年たちに理解してもらえる
のではないかと思います。
表記のようなウェブページをつくっています。「事典」で自然史的位相の葛藤を象徴
させたいと思って始めました。「ポケモン事典」に似ていると言ってくれた人がいます。
我田引水的に本題をはずれてしまいました。ご容赦下さい。
今夜はオリンピック開会式を見ながら中国自然哲学に思いをはせることにします。
素粒子物理学は少数の法則ですべての物質現象を説明することを究極の目標として
いますので、自然史的位相と根源的な法則の追求とが常に葛藤しています。法則の
追求を忘れることはありませんし、またそれを打ち砕くにはただ一つの反例を博物学的に
指摘するだけで十分です。この辺の魅力は理科好きの少年たちに理解してもらえる
のではないかと思います。
表記のようなウェブページをつくっています。「事典」で自然史的位相の葛藤を象徴
させたいと思って始めました。「ポケモン事典」に似ていると言ってくれた人がいます。
我田引水的に本題をはずれてしまいました。ご容赦下さい。
今夜はオリンピック開会式を見ながら中国自然哲学に思いをはせることにします。
_ 玉青 ― 2008年08月09日 10時58分31秒
ポケモン事典!!!!!!
これ以上適切なたとえはないでしょう(笑)。本当にそっくりです。
ここにバトル要素を加えて、電脳世界に棲む「バーチャル素粒子」をゲームに組んだら、子どもたちの間で大ブレークする可能性もありますね。
しかも、この「ポケモン」たちは現実世界にも存在して―いやそれどころか、まさに世界の根幹を形作る存在であり、Uさんのような「リアル・ポケモンマスター」が「ニュートラリーノ、Getだぜ!」とか日々(?)凱歌をあげているのですから、理科少年に限らず、子どもたちが夢中になってもちっとも不思議ではありません。
それにしても、この事典を眺めていると不思議な気分になります。素粒子が電荷・質量・スピン・パリティ・寿命の5つの属性ですべて記述できる(と見なしてよいでしょうか)というのも、考えてみると不思議ですし、「不明」「?」の部分が依然多いのも謎めいた感じです。分類で「異国風…」とあるのがとても素敵ですね!
これ以上適切なたとえはないでしょう(笑)。本当にそっくりです。
ここにバトル要素を加えて、電脳世界に棲む「バーチャル素粒子」をゲームに組んだら、子どもたちの間で大ブレークする可能性もありますね。
しかも、この「ポケモン」たちは現実世界にも存在して―いやそれどころか、まさに世界の根幹を形作る存在であり、Uさんのような「リアル・ポケモンマスター」が「ニュートラリーノ、Getだぜ!」とか日々(?)凱歌をあげているのですから、理科少年に限らず、子どもたちが夢中になってもちっとも不思議ではありません。
それにしても、この事典を眺めていると不思議な気分になります。素粒子が電荷・質量・スピン・パリティ・寿命の5つの属性ですべて記述できる(と見なしてよいでしょうか)というのも、考えてみると不思議ですし、「不明」「?」の部分が依然多いのも謎めいた感じです。分類で「異国風…」とあるのがとても素敵ですね!
_ DryGinA ― 2008年08月09日 12時17分31秒
玉青さん、『ニュートラリーノ、Getだぜ!』は云えてますね!!
S.U.さん、60年代後半にWWWがあってこんな(Uさんの)サイトが見られたら、僕も迷わず核研を目指したかもしれません。当時は宇宙ニュートリノとか重力波とかモノポールとかの実測検証を、かろうじて夢見るだけでした。
S.U.さん、60年代後半にWWWがあってこんな(Uさんの)サイトが見られたら、僕も迷わず核研を目指したかもしれません。当時は宇宙ニュートリノとか重力波とかモノポールとかの実測検証を、かろうじて夢見るだけでした。
_ S.U ― 2008年08月09日 17時42分38秒
玉青様、
おお、素粒子ゲーム! 昔、「素粒子マージャン」というのを考えたことがありますが、
「バトル」は考えたことがありませんでした。「バトル」は動的要素も含んでいるので
素粒子によりふさわしいです。ルールを考案して売り出して一儲けしていただければ、
と存じます。(売れるかどうかは私には何とも言えませんが)
DryGinA様、
60年代は素粒子の対象や理論が多様化し始めていた時代ですので、当時に見た目が
まとまった説明を組み立てるのは困難だったかも知れません。私はもう少し後の時代
ですが、単純に「陽電子」が存在することを知ったり、理科年表の素粒子の表を見たり
してこの分野に惹かれました。さらにやや後では、(私も見ましたが)テレビで放映
されたN・コールダーの「宇宙を解く鍵」(BBC制作)に感銘を受けた人が多いようです。
おお、素粒子ゲーム! 昔、「素粒子マージャン」というのを考えたことがありますが、
「バトル」は考えたことがありませんでした。「バトル」は動的要素も含んでいるので
素粒子によりふさわしいです。ルールを考案して売り出して一儲けしていただければ、
と存じます。(売れるかどうかは私には何とも言えませんが)
DryGinA様、
60年代は素粒子の対象や理論が多様化し始めていた時代ですので、当時に見た目が
まとまった説明を組み立てるのは困難だったかも知れません。私はもう少し後の時代
ですが、単純に「陽電子」が存在することを知ったり、理科年表の素粒子の表を見たり
してこの分野に惹かれました。さらにやや後では、(私も見ましたが)テレビで放映
されたN・コールダーの「宇宙を解く鍵」(BBC制作)に感銘を受けた人が多いようです。
_ S.U ― 2008年08月09日 18時19分56秒
>素粒子が電荷・質量・スピン・パリティ・寿命の5つの属性ですべて記述できる(と見なして
>よいでしょうか)
質量やパリティのような「外から見える」属性の種類はもっと多いですが、それらを決定するもとに
なっている素粒子内部の変数(遺伝子のような)の数は数個を大きくは超えないだろうと思います。
だから「5つ程度の属性ですべて記述できる」というのはおおむね正しいだろうと思います。
>よいでしょうか)
質量やパリティのような「外から見える」属性の種類はもっと多いですが、それらを決定するもとに
なっている素粒子内部の変数(遺伝子のような)の数は数個を大きくは超えないだろうと思います。
だから「5つ程度の属性ですべて記述できる」というのはおおむね正しいだろうと思います。
_ 玉青 ― 2008年08月10日 15時37分53秒
S.Uさま、ありがとうございます。見事、啓発されました。(自分が高校生でないのが残念です。。。)この夏は、まずブライアン・グリーンの『エレガントな宇宙』から手にとってみようと思います。
ところで、ポピュラーサイエンスの書棚を見ると、今は「チョーヒモリロン」というコトバが、かつての「ソータイセーリロン」のような呪力を発揮しているようですね。こういうブームは、第一線の研究とはあまり関係ないんでしょうが―予算取りには関係するかもしれませんが(笑)―、何か時代の気分を映す鏡ではあるのでしょう。いったいどんな気分か?というのは、上の本を読みながらゆっくり考えてみます。
ところで、ポピュラーサイエンスの書棚を見ると、今は「チョーヒモリロン」というコトバが、かつての「ソータイセーリロン」のような呪力を発揮しているようですね。こういうブームは、第一線の研究とはあまり関係ないんでしょうが―予算取りには関係するかもしれませんが(笑)―、何か時代の気分を映す鏡ではあるのでしょう。いったいどんな気分か?というのは、上の本を読みながらゆっくり考えてみます。
_ S.U ― 2008年08月10日 20時21分10秒
おお、それはそれは。私も初心に帰って見つめ直すことを心がけます。
「チョーヒモリロン」はスケールが「小さすぎて」(素粒子論は豪快な理論ほどスケールが小さい)
あまりに自然史的位相との接点が乏しいと感じられましたら、「チョータイショーセーリロン」か
「ヨジョージゲン」あたりから脱線して実験・観測のほうにも注目いただければと思います。
「チョーヒモリロン」はスケールが「小さすぎて」(素粒子論は豪快な理論ほどスケールが小さい)
あまりに自然史的位相との接点が乏しいと感じられましたら、「チョータイショーセーリロン」か
「ヨジョージゲン」あたりから脱線して実験・観測のほうにも注目いただければと思います。
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のではないかというのが私の意見です。
天文が子どもたちの間で流行したからといって、プロのやる天文学が廃れるという
ことは考えにくいですし、草野球が流行るとプロ野球が廃れるということも聞きません。
博物学にだけ特殊な事情があるのでしょうか...
実は、私にはこのアレンさんの言っている気持ちはとてもよくわかるのですが、敢えて
厳しい論評を加えさせていただきますと、このような博物学の伝統的手法を絶対視しそれに
固執するような考え方こそが博物学を衰退させたのではないかと思います。そもそも学問の
一分野の全体が時代背景や大衆の流行に流されることなど考えられません。しかし、分野の
進展状況に応じて自らの研究スタイルを変化させる必要があります。そういう意味で、生態学
に移行したのは、学問分野の生存のための必然であったと思います。
玉青様の要約のおかげで、この本を1行も読まずして、ここまで偉そうなことを書かせて
いただきました。アレンさん、ごめんなさい。