タルホ・テレスコープ(3)2010年03月28日 19時59分51秒

(今日も字ばっかりです。)

足穂が覗いていたと思われる望遠鏡の同型機はこちら↓
http://yumarin7.sakura.ne.jp/telbbsp/img/2733_1.jpg
(3月26日の記事に対するガラクマさんのコメント参照)

彼が望遠鏡を入手したのは、30代半ばに差しかかり、かつてのモダン・ボーイからすっかり落魄の身となった頃。足穂はこの後、明石を引き払って上京し、そこでまた屈折の多い時を過ごしますが、彼はこの望遠鏡をいったい何時まで持ち歩いていたのでしょうか?

作品を丁寧に読んでいけば、分かるのかもしれませんが、ここでは一足飛びに戦後に飛びます。
前回も引用した草下英明氏の『星の文学・美術』には、草下氏が初めて足穂の下宿を訪ねた場面が記されています。

時は昭和23年(1948)11月23日。所は東京戸塚のさるアパート。
当時『子供の科学』の編集部にいた草下氏は、「星に関係ある人」ということで足穂に会いに行き、その場面を以下のように日記に記しました(カッコ内は草下氏による補注)。

 ■  □  ■

現われたのは、ずんぐり頭の薄い五十がらみのオヤジ、赤いギョロ目、鬼がわらのような顔、よれよれの兵隊服、昼間から酔っているらしく聞きしに勝る怪物。本当にこの人がイナガキタルホなのか?部屋には、聖書とロザリオ、二、三の雑誌。三インチ(八センチ)の反射望遠鏡(借りものだという)と、少しの原稿用紙、机以外は何にもなし。(一カ月後には、原稿用紙と『白昼見』のゲラ刷りだけになって、机も望遠鏡も消えていた)

 ■  □  ■

ここにも3インチの反射望遠鏡が出てきます。
「借り物」とありますが、いったい誰が貸してくれたんでしょうか?
ひょっとしたら、やっぱりこれは自分の物で、一種の「照れ」からこう説明したんでしょうか?もしそうならば、ほとんど無一物で転々としていた中で、彼は望遠鏡をものすごく大切にしていたことになりますね。でも、だとすると、ひと月後に望遠鏡はどこに消えたのか…?

望遠鏡の正体はともかく、この時期も彼は望遠鏡を手元に置いて、おそらくは実観測もしていたことが伺えます。

  ★

足穂論的には、こうした考証に続けて、彼の望遠鏡体験が、その作品にどのような影響を及ぼしたかを考える必要がありますが、もちろんこのブログでそんな大層なことを論じることはできません。

ただ、1点だけ気付いたことがあります。
今日、足穂を読んでいて、望遠鏡体験の前後で、同一作品でも土星の描写が少し変わっていることに気付きました。それをメモしておきます。

周知のように、足穂は自作に何度も手を入れ、同一作品に数多くのヴァリアントがあることで有名です。中には題名まで変わってしまったものもありますが、以下に掲げるのも、そんな「異名同作品」。

(A)「廿世紀須弥山」(『天体嗜好症』、春陽堂、1928所収)
(B)「螺旋境にて」(河出文庫『宇宙論入門』1986所収;文庫化にあたって底本としたのは、『稲垣足穂大全Ⅰ』、現代思潮社、1969)

 ■  □  ■

(A)<1928年バージョン>
「夜の煙突から出たもえがら〔4字傍点〕のやうな色をしたものがボーと現われてゐるぢゃないか。しかもそれをめぐって円いななめになった環まで認められる。」
「そして、おしまひに目の前にやって来た土星はと云ふと、写真では子供の時からお馴染のものゝ実物は実にへんてこな感銘をあたへる、今も云ったスイッチをひねって消した瞬間の電球みたいな色をして、それがブーンブーンと独楽のやうにまはってゐるのだが、名物の環だけはぢいいっと安定を保つやうに静止してゐる。」

(B)<1969年バージョン>
「田舎の煙突から夜間に飛び出したもえがらのようなものが、それを取巻く環状のものと共に浮んでいた。〔…〕土星は何も初めて眼にするわけでない。遠くの傘付電球のような印象を与えて、遥かな沖合を通って行くのは僕も数回眼にしたことがある」
「この先生は遠眼鏡で覗いても吹き出したくなるほど可笑しな代物だが、肉眼で接すると一段とへんてこな感銘を与える。消え入りたげな黄橙色の光を放って、中心軸の周りを独楽のように旋転しているが、名物の環だけはじっと静止している。」

 ■  □  ■

前回の記事で書いたように、足穂は土星を初めて見た印象を、昭和15年(1940)頃に「遠い電灯の傘みたいな土星」と記していますが、それが(B)にそっくり生かされています。また、(A)では「写真では子供の時からお馴染」とあるのが、(B)では「遠眼鏡で覗いても吹き出したくなるほど可笑しな代物だが」と変わっていますし、「初めて眼にするわけでない…僕も数回眼にしたことがある」というのも、実体験に裏打ちされた言葉でしょう。その色彩描写にも、具体性が増しているようです。

まあ、これはごく些細な一例ですが、丁寧に見ていけば、もっと類例はあることでしょう。少なくとも、「望遠鏡体験がその作品に影響したか?」という問いには、はっきりYESと答えられそうです。

コメント

_ S.U ― 2010年03月29日 07時53分58秒

足穂は私生活での発見を大事にする人なので当然なのかもしれませんが、土星の観察を「私小説」ではなく「空想小説」に生かしていたというのは、ちょっと新鮮に感じました。
 
 ところで、彼の天体観察についてですが、昭和18(1943)年8月~10月の記述と考えられる「横寺日記」という作品は、まさに天体観察日記になっています。これを見ると彼は星座の勉強の再開をしたことになっています。目を通したところ望遠鏡の記述はありません。惑星の識別を試みていますが、肉眼で推定しているだけです。彼は気になることにはものぐさな人ではないと思うので、この時には望遠鏡を持ち出せる状態になかったものと見えます。

 またあとで調べて、何かわかればご報告いたします。

_ S.U ― 2010年03月29日 19時16分13秒

足穂の望遠鏡のその後についての追加の議論です。長くなって恐縮です。

 「横寺日記」には、足穂が愛用の鼻眼鏡を「七ツ屋」に出し入れを繰り返していたことが書かれています。彼は、酒浸りの生活のために質屋通いをしていましたが、東京にいる時は、苦しくとも比較的コンスタントに出版社や一定の支援者との関係を確保していたので、時々はまとまった金を手にすることは出来、質流れにしてしまうことはなかったのでしょう。彼は引っ越しを繰り返しているので、そのたびに多少の工面はあったものと思います。

 してみると、例の望遠鏡もおおむね質屋に預けられており、引っ越しや金の工面ができた時に、取り戻していたのではないでしょうか。草下氏の記述の「借り物」というのは、足穂自身の望遠鏡を一時的に質屋から取り戻していた状態を指すのかもしれません。おそらく質屋への返済も他からの借金によるものだったので、謙遜して「借り物」といったのでしょう。 一ヶ月後には消えていたことも説明できます。当時、二十代で科学教育に燃えていた草下英明が、足穂の生活を観察しようとした慧眼は本当にたいしたものです。

_ 玉青 ― 2010年03月29日 20時33分04秒

質草!!
なるほど、それですべて符合しますね。
名推理に思わず唸りました。

当然のごとく私は「横寺日記」も読んでいないので、先ほどさっそく収録の文庫本を手配したところです。(それにしても、あまりにも足穂について無知なのに、散々記事を書き散らし、妄りがましい説を立て、いたずらに世に害悪を流しているような気がしたので、しばらくは足穂ネタを封印しようかとも思いましたが、まあ世の大勢には影響がないので、ここは厚顔無恥を決め込もうと思います。)

_ S.U ― 2010年03月30日 07時09分24秒

>足穂ネタ...まあ世の大勢には影響がない
この間、玉青さんのおっしゃった通り、足穂の世界は豊かな裾野を広げているので、少々のことでは大丈夫ですね。悪く見てせいぜい「害益相半ば」くらいではないでしょうか(笑)。

 思うに、「足穂の代表作を一つ二つあげよ」という質問に答えることは絶対に不可能で、私はこれには八つくらいの作品を挙げる必要があると思います。足穂は8本の足によって支えられた巨大なタコ入道のような存在なので、その1本をつねったくらいではびくともしないでしょう。

_ 玉青 ― 2010年03月30日 20時56分58秒

>タコ入道のような存在

頭部のみの比較からも、両者の類似は明瞭に見てとれますね。
折に触れて墨を吐くところなんかも似ています(笑)。

_ 玉青 ― 2010年04月04日 08時36分43秒

○S.Uさま

遅ればせながらのコメントですが…

「横寺日記」を読みました。私が見たのは、河出文庫版『弥勒』所収のものです。ここには巧い具合に、S.Uさんにご紹介いただいた「美しき穉き婦人に始まる」と「愚かなる母の記」も載っているので、併せて読むことができました。で、気付いたのですが、記事で引用した「山風蠱(さんぷうこ)」というのは、「美しき穉き婦人に始まる」の初出時のタイトルなんですね。なんだか、やりとりがチグハグになってしまい、申し訳ありませんでした。

さて、「横寺日記」。あの文中当時は、望遠鏡はまったく過去形で語られていますね。やっぱり、例の「貸金庫」の中にあったんでしょうか。

ところで、戦後、草下氏が足穂を訪ねて望遠鏡を見つけたのと同じ時期に、同じようなことを別の人も書いているのを見つけました。(こちらでは鏡筒は「黒」となっています。望遠鏡を観察する目は、草下氏の方が確かでしょうから、これは筆者・伊達氏の記憶違いではないかと思いますが、別の望遠鏡という可能性も完全には否定できません。)ここから、足穂が望遠鏡に寄せる思いというか、執着ぶりが感じ取れるようです。

  ★

「そして、そのころ突如として、かれの四畳半の部屋に、巨大な天体望遠鏡がすえつけられたのだ。口径何ミリであるかは知らないが街で売ってる理科学習用のちゃちなものではない。がっしりした足が、すりきれた畳を凹ませ、レンズは隣家のオムツひるがえる物干台のかなた無限の空をにらんでいた。その黒いつややかな胴体をなぜながら「借りものです。借りもの」とかれは言ったが、得意な面持ちはかくせなかった。新しいオモチャをみせびらかす子供のような。ぼくの前で、かれはもの馴れた調子でその器械をあやつってみせた。それはいかにも『宇宙論入門』の著者にふさわしい姿勢であった。
「夜いらっしゃい。このごろは土星が見えます」と言った。
けれども、それから暫くして訪れたときには、もう何もなかった。がっしりと畳にくいこんだ脚座のあとだけがあった。かれはしおれてみえた。「あんなオモチャが何ですか!」と、すいがらを煙管につめながら言った。」 (伊達得夫、「消えた人」…雑誌『遊(野尻抱影・稲垣足穂追悼号)』所収)

_ S.U ― 2010年04月04日 11時03分16秒

玉青様、詳細情報をありがとうございます。

>河出文庫版『弥勒』
 私が読んだのも同じ本です。これにある「白昼見」は、その頃の足穂の生活が素直に書かれていて、かつ、文学的修辞にも優れているようで、私の特に好きな作品の一つです。

 「弥勒」の主人公が史実の足穂に等しいならば、彼が横寺町に移る前後は、ほとんど無一物で眼鏡どころか真冬に布団まで質入れしたそうですから、その頃に望遠鏡の出し入れは難しかったかもしれません。 「貸金庫」に渡ったが、ずっとあとまで他所に流れずに取り返せた、という可能性か、関西方面に残してあって取りに帰ったという可能性くらいに限られるのかもしれません。

 でも、色が違うならば戦後に本当に借りた物かもしれませんね(←ちょっと自信がなくなってきた)。それなら、今度は、その頃の彼に高価な物を貸す人がいたか、という問題になります。出版関係か支援者から借りたのかもしれませんが、その一人である伊達得夫にはアタリがつけられなかったのでしょうか。足穂の異常な生活を穿鑿しても仕方ないというかキリがないと思うのですが、どうも望遠鏡だけは気になります...

_ 玉青 ― 2010年04月04日 13時46分33秒

今日は一日PCで作業しているので、早レスです。

 +

直前の私のコメントは、記事を全く見ずに書いたのですが、もう一度見直したら、草下氏は「3インチの反射望遠鏡」とは言っていますが、それが「白」とは一言も述べてませんね。これは私の早とちりでした。人間の記憶はかくもあやふやなので、白を黒、黒を白と思いこんでしまうことも、容易に起こりうるわけです。(かの明智小五郎も「D坂の殺人事件」において、同様のことを語っていたかと。)

伊達氏の文章ですが、最後の段落を読むと、足穂の怒りと悲しみが伝わってきて、あれがただの借り物だったとは到底思えません。再び貸金庫に預けた末に、今度はとうとう流れてしまった…という可能性はやっぱり大きいのじゃないでしょうか。

_ 渋谷誠一郎 ― 2010年04月04日 15時03分48秒

玉青様はじめまして。

川崎天文同好会の渋谷と申します。
故森久保茂氏の7㎝反射機と5㎝屈折機のレストアを企画した者です。

さて私どもの川崎天文同好会では、毎年4月に「市民天文講演会」を実施しており、天文界で活躍中の先生方のお話をうかがっております。
今年は下記の日程と講師により実施しますが、その折に、2台の「森久保望遠鏡」も展示できる予定です。
もし、お時間等ございましたら、お運びくださいませ。
一般公開、市民向けの講演会ですので、どなたでもお聴きになれ、また
内容も平易で親しみやすいものになっております。

<記>
演題:天体望遠鏡おもしろ話
    ~日本のアマチュア望遠鏡の歴史と使い方、楽しみ方~
講師:児玉光義さん(五藤光学研究所)
日時:4月18日(日)14:30~
会場:川崎市高津市民館
交通:JR南武線「武蔵溝ノ口」または東急田園都市線「溝の口」を下車し
   てすぐ駅前広場にある「ノクティ2ビル」11階
参加費:無料


*講演会は上記時刻からですが、13:30から川天総会を行います。こちら
 もご興味あればお気軽にどうぞ。
*講演会終了後講師を囲んで懇親会(すなわち一杯)を行います。こちら
 は申込制、有料(といっても2、000円前後)です。当日受付けます。

_ 玉青 ― 2010年04月04日 19時51分47秒

○渋谷誠一郎様

こんばんは。コメント並びに情報をありがとうございました。
演題からして、強烈に興味をそそられました。否も応もなく、お近くならば絶対にうかがうのですが、いかんせん地方在住の悲しさで、なかなか思うに任せません。切歯扼腕というのは、こういうのを言うのでしょうね。

それにしても川天さんは、アクティブにいろいろ活動されていて、本当に素晴らしいですね!M輪さんをはじめとして、川天さんと、私が関与している日本ハーシェル協会の双方に関わっていらっしゃる方も多いと思いますが、アマチュア天文界が全般に長期低落傾向にある中、いろいろとご指導・ご支援いただければ心強く思います。

拙ブログともども、今後もどうぞよろしくお願いいたします。
(森久保先生の望遠鏡も、機会があればぜひ拝見したいと思っています。)

_ S.U ― 2010年04月04日 21時38分16秒

うーん。「白黒」はっきりしませんね。望遠鏡の「胴体」といっても、鏡筒が白で架台が黒ということもあるかもしれませんし。悔しいけれども、過ぎ去った過去のことはなかなかわかりません。

 野尻抱影、稲垣足穂、それから草下英明も、いずれも私が天文をはじめた頃は、まだばりばりの現役で、呼び捨てどころか「先生」付けで呼びたいような方々なのですが、今は天文・文学史上の存在となってしまった感があります。もちろん、ファンとしての親愛の感情は時間を経て変わるものではないのでしょうが、頼れるのが文献だけになりつつあるというのがちょっと寂しいです。 (なお、私は、野尻氏と草下氏については存命中からファンでしたが、足穂氏は名前を聞いたことがある程度でした。)

_ 玉青 ― 2010年04月06日 19時51分53秒

草下氏や抱影翁はしばしばテレビに出演されましたが(足穂氏はどうだったでしょうか)、聞くところによると、今ごろはカペラのあたりで、それがオンエアされているようですよ。(オリオン霊園で待つ抱影翁が、ご自分の番組を見るのは、まだだいぶ先になりますね。)

_ S.U ― 2010年04月08日 22時28分20秒

 足穂の望遠鏡の穿鑿は、私のほうはだいぶネタ切れになってきました。最近見つけためぼしい点は以下の程度です。

・作品「北落師門」は、足穂が古着屋開業のあと明石を去る直前の様子を描いていますが、作品中の「私」が好意を寄せている女性が(私=足穂として)、

 - 女性の弟は、足穂の友人で、足穂は彼に望遠鏡で月を見せたこと。
 - 足穂が近々ラジオに出演して、天文と文学に関する話をすることになっている。
   (会話文のため、多少不明瞭)

ということを語っています。昭和10~11年のことと思われます。足穂はラジオ出演を果たしたのでしょうか。

・作品「東京遁走曲」および中央公論社『日本の文学』34の年譜では、昭和21年に、足穂は、上田光雄という人(出版関係者)の主宰する「ロゴス大学」というものの天文部主任に抜擢され、それによって住居と生活の世話になっています。(その後、あまりにその向きの仕事をしないので追い出された)

 真面目な天文関係の出版も含め、足穂は、けっこう、天文学の普及(布教?)に努めていたようです。尊敬する抱影翁を見習ったのかもしれません。

_ 玉青 ― 2010年04月09日 21時06分43秒

毎度ありがとうございます。

私も最近足穂の年譜を気にかけていて、そこに出てくる謎の「ロゴス大学」のことが気になっていました。どんな実体の組織だったのでしょうか?
私が連想するのは、同じく昭和21年、民主主義建設の理想を掲げ、教員と学生の相互練磨を謳った自由大学「鎌倉アカデミア」です。(廣澤榮『わが青春の鎌倉アカデミア』というのが岩波から出ています。) ロゴス大学も、似たような文脈でできた教育機関なのかな?と思うのですが、だとするとタルホとは一寸肌合いが違うようで、まあ続かなくて当然という気もします。

ところで望遠鏡の一件。これもロゴス大学との関係が疑われますが、草下氏の訪ねたのが昭和23年の11月の時点であることを考えると、少し年代が合わないような…。
本人に聞くのがいちばん早いのですが、御大は今はどこにいるのか、さっぱり行方が知れません。

_ S.U ― 2010年04月10日 07時24分27秒

足穂の年譜はなかなか完全なのがないようで、重要な事情が抜けていたりしていることがあります。頼みのご本人はまだ見つかりませんか。残念ですがそういう人なので仕方ないでしょう。

 上田光雄もロゴス大学も不詳ですが、ネット検索で当たる「光の書房」の主宰者がそうなのだと思います。この人はグスタフ・フェヒナーの哲学書の翻訳を出版していますが、その少し前にフェヒナーに刺激を受けた足穂と関係があるように思います。

 「東京遁走曲」は話の年代が行ったり来たり飛ぶので年譜を疑うことは可能ですが、その頃の記述は多く、昭和21年のロゴス大学招聘は間違いないでしょう。上田については、足穂から連絡を取った/かつて飛行学校を経営していた/左翼ではない/朝永振一郎の超多時間理論(1943)を知っていた、という記述があり、足穂と共通した方向の人であったようです。望遠鏡を貸してくれそうですが、やはり年代が合いませんね。

 また、戸塚グランド坂の住居は旅館で1日120円ということですから、この時、足穂は世間的には羽振りがよいと見られたかもしれません。入手経路の可能性は広そうです。

_ 玉青 ― 2010年04月10日 13時13分18秒

国会図書館のデータベースによると、「光の書房」の出版活動は、昭和22年から24年まで続いています。その目玉が「世界哲学講座」全15巻(15巻で完結したかどうかは不明)で、第1巻の「印度哲学史/希臘哲学史」から始まり、カントの「意訳・純粋理性批判」(上田光雄自身が訳しています)やら、「プロチノスの神秘哲学」やら、「現代心理学」やら、「アラビヤ哲学」やら、とにかくいろいろなテーマを多彩に取り上げています。

ロゴス大学は、その編者として頻繁に名前が出てきます。昭和23年に出た巻では「日本科学哲学会ロゴス自由大学」、翌年には「哲学修道院ロゴス自由大学」となっていますが、いずれにしても「ロゴス自由大学」というのが正式な名称だったようです。

とすると、やはりここは同じく「自由大学」を名乗った、鎌倉アカデミアと似た毛色の団体だったように思います。ただ、後者は文学科、産業科、演劇科、映画科の4学科編成で、芸術色が濃かったのに対し、ロゴス大学は哲学・宗教色が強く、足穂が天文部主任に招かれたというのも、一種の科学哲学的なものを期待されたのではないかと想像します。

今改めて見たら、鎌倉アカデミアについてはウィキペディアにも記述がありましたし、また、簡単ながら以下の記述も学校の雰囲気をよく表しています(鎌倉市観光協会のサイト)。

http://www.kcn-net.org/kamakura/zakki/academy.html

ロゴス大学の活動休止と時を同じくして、鎌倉アカデミアも昭和25年には閉校となりましたが、こうした自由奔放かつ実験的な学園は、戦後の焼け跡に咲いた仇花的な存在だったような気がします(上のコメントで触れた廣澤榮の本は、東宝の組合争議弾圧と朝鮮動乱の記述で終わっています)。

なお、自由大学という名称を、私は戦後の民主化と結びつけて考えていましたが、その根はもっと古く、大正から昭和にかけて長野県周辺で盛んだった民衆教育運動(自由大学運動)に由来するもののようでもあります。

○自由大学運動の歴史的意義とその限界
 http://rose.lib.hosei.ac.jp/dspace/bitstream/10114/87/1/74-1-2nagashima.pdf

_ S.U ― 2010年04月10日 17時12分14秒

なるほど、タルホ先生はややこしそうなものに首を突っ込みかけたのですね。やはり激動の昭和と無縁というわけにはいかなかったようで。「光の書房」という名前は、何となく新興宗教とかかわっていそうですが、どうだったのでしょうか。何にしても、自ら学び考えようとする時代の風は高く評価したいと思います。

 足穂から声をかけたこともあって上田の主旨には共鳴したものの、すでに独自の宇宙哲学が完成に向けて進んでいたので、もはやロゴス大学の方針通りに動くにはあまりやる気が起こらなかった、というところでしょうか。その頃は渾身作「ヰタ・マキニカリス」の出版準備にかかりきりになっていたということもあったかもしれません。

_ S.U ― 2010年04月25日 15時41分50秒

こんにちは。また、こちらにコメントです。

 足穂の30代の明石時代の「リアル天文」における「普及活動」についてですが、すでに述べた件について、こちらで調べてもよくわからないというか、取りつくシマもないことがあるので、ぜひ、玉青さん、それから世の学識の方々のお知恵を借りたいと思い、ここに報告をさせていただきます。以下、少し長くなりますが、ご容赦ください。

 それは、上(4/8のコメント)に書いた「稲垣足穂出演のラジオ放送」の件です。「北落師門」という私小説に、主人公「私」の友人「忠郷」の姉という人が出てきて、会話体で、「私」がラジオ出演して「棚機」のころに天文と文学について語る予定である、という話が出てきます。会話体なのでいまひとつ明瞭ではありませんが、他の解釈はできないように思います。

 この「私」は足穂で、時期は彼が明石で望遠鏡を買った後の明石在住中ということのようです。昭和10年の可能性が最も高く、昭和9年、11年の可能性もあります。(彼の小説や年譜にはこのへんで1年程度の矛盾があることがあります)

 当時のラジオ局としては、日本放送協会大阪放送局(JOBK)(神戸に支所があった)しか考えられないので東京朝日新聞の番組表を見てみましたが、足穂の名前は見つけられていません。七夕前後に特別講義番組がありましたが、足穂の名前は出ていませんでした。でも、別の番組の可能性もあり、また、新聞に載っているのはごく一部の番組だけなので、これだけでは足穂がラジオに出ていないという証拠にはなりません。

 当時の足穂は、明石でぶらぶらしているだけのアル中の人だったので日本放送協会から声がかかるかあやしいようにも思いますが、たとえば野尻抱影が『星座巡礼』出版後すぐにラジオ番組のレギュラーになっていることを考えると、すでに星に関するユニークな小説を何編も世に送っていた足穂にもラジオ出演の声がかかる可能性は十分にあったと考えます。足穂が実際の星座を憶え始めたのは昭和7年頃のことでしたが、このころ彼は暇だったので、2~3年で一通りの星座は憶えていたことでしょう。また、母親や知人に望遠鏡で月を見せたり、星について語ったりしているので、そういう知識を人に広めたいという気持ちは持っていたと思います。野尻抱影の影響もあったでしょう。

 それでは、当時の足穂の年譜、ラジオ放送についてご存じのことがありましたらお知らせください。私の根拠の無い勘では、このラジオ出演の件は、まったくの虚構である可能性が2割、話はあったが実行されなかった可能性が5割、実際に出演した可能性が3割くらいではないかと思っています。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック