何が剥製ブームをもたらしたか?…剥製を熱く語る人々(その2) ― 2012年02月19日 19時58分27秒
S.Uさま、たつきさま、愉しいコメントならびに温かい励ましをありがとうございました。なかなかお返事ができずに申し訳ありません。しばらくは、記事の継続を優先し、話を先に進めたいと思いますので、失礼の段なにとぞお許しください。
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さて、前回の続きです。(以下、元記事の分量が多いので、いつも以上に大幅な適当訳ですが、趣旨はそう外れていないはず…)
2000年代に入ってからの剥製ブームの原因は何か?
もちろん真の原因は分かりませんが、そこにはいろいろな意見があって、たとえば、「ミネソタはぐれ剥製師連盟」のロバート・マーベリーは、その背景にインターネットの急速な普及を想定します。
「今やインターネットそのものが、ヴンダーカンマー化してるんだよ。気の向くままに検索をかければ、どんな驚くべきものだって見つけられるし、パソコンを画像ファイルでいっぱいにすることもできる。多くの点で、これは伝統的な驚異の部屋とパラレルだ。ある意味、今じゃみんなが携帯端末で驚異の部屋を持ち歩いているようなものさ。おかげで、僕らはちょっと刺激に対して、鈍感になっているんじゃないかな。」
2000年代の初頭以来、ディスプレイの前でヴァーチャルな時間を過ごすことが多くなった反動として、人々はリアルな世界を感じさせてくれるもの、触覚的なものを強く求めるようになり、それが今の剥製ブームの原因ではないか? コーンはそう推測します。
![](http://mononoke.asablo.jp/blog/img/2012/02/19/1db304.jpg)
剥製が自然のままに朽ちていく様や、あるいは剥製を自作する人であれば、動物の身体を切り裂き、生命を支えてきた内臓器官を直接目にする経験も、リアルな世界とのつながりを回復する手段となりえます。
「みんながヴァーチャルなコレクションをするようになった。だから今度は何かリアルな経験をしたくなった。今起こっているのはそういうことじゃないかな。手仕事や、地元の食材を食べること、そういう何かその土地と結びついたものや、個性的なものが、今じゃどんどん価値を高めているよね。養蜂とか、クロスステッチとか。剥製づくりもそうだね。」
これは要するに、人々の自然回復志向に、剥製ブームを位置づける見方です。
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そうした志向は、当然、IKEAの家具とか、ミッドセンチュリー・スタイルのマスプロ製品を拒否する姿勢とも結びつき、2000年代以降の若い骨董マニアや、スチームパンカーによるヴィクトリア時代への回帰と同根だという見方もできます。
サイエンス番組「Oddities〔無理に訳せば『ふしぎ大百科』?〕」の共同司会者である、ライアン・マシュー・コーンの場合は、「自然回帰」よりもむしろ、この「反モダニズム」という部分にウェイトがあります。
「僕の家にはIKEAの家具なんて影も形もないよ。なんでみんなが1950年代の模倣をしたがるのか、僕にはさっぱり分からない。その美意識は紋切り型だし、誰もが抑圧されていた時代さ。その頃だったら、僕は自分のやりたいことの半分もやれなかったろうね。ヴィクトリア時代には多くのことが未知だった。だからこそ、いっそうワイルドな時代だったのさ。…鹿の頭を欲しいと思ったことはないな。僕はアメリカにないものが欲しいんだ。だから、田舎のフリーマーケットに行ったらこう聞くね。『やあ、猿はないかい?』って。」
コーンは、単なる珍奇さよりも、古びた博物館の空気にどうしようもなく惹かれていて、その点で、いわゆるスチームパンク趣味ともちょっと違います。彼は子どもの頃からアメリカ自然史博物館のとりこになっており、今でも自宅を博物館風にすることに執着している…というのは、また後で述べます。
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コーンの剥製趣味は、基本的に「反モダニズム」的な美意識に基づくものですが、彼はそのいっぽうで、最近の剥製ブームをもたらした、もう一つの現実的な要因も指摘しています。それはリーマンショック以降の景気低迷です。
「景気後退の時期には、みんなソーホーで新品を買う余裕なんてなかったよね。キズもののアンティークを買うとなれば、自分でちょっと手を入れなきゃならないけど、そうすることで、そこに流れる美意識と触れ合うこともできるわけさ。」
アンティークについての人気ブロガー、ブルックリン在住のホーヴィ姉妹も、経済苦境によって、アンティークに新しい市場が生まれたことを認めています。
「びっくりするのは、こういうアンティークが、どれもとても安く買えることよ。eBayさまさまね。そしてあちこちのフリーマーケットを何時間もぐるぐる回るの。私たちが持っている物で高価なものはほとんどないけれど、どれもこれもみんな大好き!」
もちろん、今なら手頃な価格の古物たちも、元をたどればコロニアル・スタイルや貴族趣味の、いわば金満的な品々であったのは皮肉ですが、当時幅を利かせていたのが、狩猟熱と剥製愛好癖でした。
「『異国と自然を征服する金持ちの白人』の美学が、政治的に100%正しいとは思わないわ。でも、これらのオブジェはやっぱり美しいと思わない?過去の時代がパーフェクトでなかったことは認めるにしても。」
![](http://mononoke.asablo.jp/blog/img/2012/02/19/1db301.jpg)
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元記事を私なりに咀嚼すると、剥製ブームの背後にあるのは、「リアル世界への回帰」、「ネイチャー志向」、「反モダニズム」、「ヴィクトリアン・アンティークの値頃感」といった要因だということになります。もちろん、これはひとつの仮説で、ほかにもいろいろな要因はありうるでしょう。
個人的に考えると、80年代の博物学リバイバル―これは荒俣宏さんに限らず、世界中で同時並行的に起きた現象のようです―が、その下地にあり、さらに2000年以降、オンライン売買の普及によって、景気後退の件とは別に、古物の取引のあり様が根本的に変わったことを上げないと片手落ちのような気がします。
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ともあれ、こうして巻き起こった剥製ブームですが、そこにはまた2つの対立する流れがあり、一口に剥製ブームと言っても、なかなか一筋縄ではいきません。
(この項つづく)
アート派 vs. 科学派…剥製を熱く語る人々(その3) ― 2012年02月26日 12時16分08秒
仕事の方はもう一息です。
ブログの記事の書き方を忘れかけていますが、思い出しながら書いてみます。
記事が間延びしてきたので、手短にいきましょう。
ブログの記事の書き方を忘れかけていますが、思い出しながら書いてみます。
記事が間延びしてきたので、手短にいきましょう。
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一口に剥製といっても、そこにはアートとしての剝製と、科学標本としての剝製の区別がある―。 元記事の筆者、リサ・ヒックスは、そうはっきり書いているわけではありませんが、彼女が描く最近の剥製ブームからは、そのことが読み取れます。
アート派の方は、再三登場する「ミネソタはぐれ剥製師連盟(MART;Minessota Association of Rogue Taxdermists)」の面々がそうであり、インテリアとして剥製を飾るホーヴィー姉妹もその仲間と見てよいでしょう。
まあ、アートといってもいろいろな趣味嗜好があるので、ホーヴィー姉妹のようなビューティフル路線もあれば、気色の悪い猟奇路線もあって、後者はたとえば19世紀の見世物興行師、P.T.バーナム(1810-1891)が呼び物にした、怪しげな人魚のミイラだとか、ヴィクトリア時代の剥製師、ウォルター・ポッター(1835-1918)が得意とした擬人化された剥製(ウサギの授業風景など)といった、どちらかといえばバッド・テイストと思えるものを好む人たちです。MARTのメンバーが作る、キメラ剥製(異種の剝製を組み合わせて作った空想上の生物)などは、その直系の子孫かもしれません。
(ポッターのウサギの学校。
出典:http://en.wikipedia.org/wiki/File:Potter%27sRabbitSchool.jpg)
出典:http://en.wikipedia.org/wiki/File:Potter%27sRabbitSchool.jpg)
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他方、剥製に科学の香りを求める人もいます。
たとえば、近代剥製術の父と呼ばれるカール・エークリー(1864-1924)。
彼の作る剥製は、わらなどを詰め物にするのではなく、解剖学的に正確な彫像を制作して、そこに皮をかぶせるという凝った方法で作られました。
彼は自ら野生動物を次々に仕留め、それを剥製にしてアメリカ自然史博物館に壮大なジオラマ風景を作った人ですが、晩年の1920年代に一頭のゴリラと出会ったことから「回心」して、以後は野生生物の保護運動に尽力しました。とはいえ、彼は最後まで科学の名に基づく、剥製愛好癖を捨てようとはしませんでした。
「科学」の看板が、罪の意識を覆い隠すのに使われた…かどうかは分かりませんし、リサもそう書いているわけではありませんが、何となくそういう気配があります。
また、ロサンゼルスにあるヴンダー系ショップ、「Empiric Studio」では、1960年代の「スペース・エイジ」テイストをまぶした理系グッズとともに、剥製を販売しており、同店の広報担当、アニー・クラウニンシールドによれば、同店における剥製は、「研究室や学術的環境でお目にかかるモノ」というカテゴリーに入るのだと説明しています。
これは考えてみると「剥製は科学的存在であるが故に、研究室に置かれている。そして研究室に置かれているが故に、科学的だ」というトートロジーを構成しているような気がしなくもない。
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アートとしての剥製と、科学としての剝製の関係はなかなか微妙です。
科学的相貌を持った剥製が「知の向上をもたらす善」であり、アートとしての剥製が「罰あたりな悪」である…と単純に言い切れないのは、その「科学性」に付きまとう上記のような曖昧さからも窺い知れます。
MARTのメンバー、ロバート・マーベリーは、リスの剝製づくりと同時に、その肉を料理して食べるという、一種のパフォーマンスというか、イベントを開催しています。情緒的にはちょっと受け入れがたいし、リスにとっては災難だと思いますが、それは普段人々が意識から遠ざけている動物と人間との関係(虐待や搾取)を問いかけるものだと、マーベリーは言います。(付言すると、リス料理自体はヨーロッパで伝統的に行われてきたらしいです。)
「リスは本質的に価値中立的存在です。〔…〕リスだって動物なんです。鹿の角を壁に飾って構わないなら、これだって同じことでしょう。リスは『可愛い』と見なされている点がちょっと違うだけです。」
「はぐれ剥製師たちは、自然を心から愛しています。たとえ彼らの作る作品が少々ダークなものだとしても。いや、むしろ自然そのものが、得てしてダークなものなのです。」
「動物の死体をもてあそぶ」かの如く見えるアート派の人々にも、いろいろ言い分があるわけです。たとえそれに全面的に賛成できなくても、耳を傾けるべき点は多々あります。
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そしてまた、博物館の空気自体をアートとして享受する人もいるので、話はどんどんややこしくなります。以下は、前回も登場したテレビ番組「Oddities」の司会者、ライアン・マシュー・コーンの思い出ばなし。
「子どものころ、コーンはよく犬を連れて、ニューヨーク州の北部まで宝探し(scavenging)に出かけ、森で見つけた動物の頭骨やその他の骨を家に持ち帰った。彼は「世界最大の豚」やら、「世界一のカボチャ」やら、安っぽいイカサマ物が登場する怪しげな見世物小屋でインスピレーションを得た。また、両親は彼をよくアメリカ自然史博物館に連れて行ってくれたが、そんなとき彼はアイデアでいっぱいになって帰宅したものだった。
〔…〕
『僕が愛してやまなかったのは、自然史博物館の中では、全ての物がいかに完璧に配置されているかということなんだ。そこで僕は頭骨を棚の上に飾るのをやめて、代わりに、それぞれに小さな架台を作って、自分は今博物館の中で暮らしているんだと夢想したものさ。僕は小さなカーテンを使って幕開けごっこもした。家族を前に見世物興行を演じて、セレモニーの司会者よろしく“サアサアご覧じろ”と口上を述べたりしてね。』
子ども時分は小遣いに恵まれなかったので、自分の部屋をこうした森で見つけた珍物でいっぱいにしたのだと、コーンは語る。その後、大人になって多少の金が自由に使えるようになると、彼は剥製やその他のアンティークを探しに出かけるようになった。」
(コーンのキャビネット。
出典:http://www.collectorsweekly.com/articles/taxidermy-comes-alive/)
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世間には、読書家とは別に、愛書家という人種がいます。本を読むよりも、モノとしての本を愛好し、読みもしない高価な本をせっせと買い込むような人です。
「理科よりも理科室が好き」、「博物学よりも博物館が好き」というのも、この愛書趣味に通じるものかもしれません。私の中にも多分にそういう傾向があるので、架台に凝って、自室を博物館風にしたかったという、コーン少年の夢には深い共感を覚えます。
私自身、金とモノ乏しい中、いかにして自分の部屋(ただし兄と共用)を理科室的テイストで満たすか、尋常でない努力をした覚えがあるので、この一節にはいっそ涙ぐましい思いがします。そしてまた、ここでも稲垣足穂の博物趣味への耽溺を連想するのです。
■稲垣足穂『水晶物語』(1)、(2)
http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/07/17/448139
http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/07/18/451209
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とはいえ。最後の最後で明言しておきますが、私は剥製はそれほど好きではありません。
私の部屋に置かれた少数の剥製は、Empiric Studioのアニー・クラウニンシールドが言うところの「研究室や学術的環境でお目にかかるモノ」であり、理科室のムードを感じさせるいわば「小道具」として置かれているので、剥製そのものを愛好する癖はまったくありません。
MARTの面々がいかに熱弁を振るったところで、ポッター流の擬人化剝製や、その日本版である徳利をさげた狸なんかは、やっぱり罰あたりなんじゃないかと思います。
(某オークションサイトより)
じゃあ、「理科室風小道具」として剥製を購入するというのはどうなんだね?
それも五十歩百歩ではないのかね?
いや、その剥製を愛してすらいないと言うなら、いっそう罪深いんじゃないかね?
…と言われると、まったく反論ができません。マーベリーの言葉を真似て、「いや、科学そのものが、得てしてダークなものなのです」と言っても、屁理屈にしか聞こえないでしょう。ここは一途に動物たちに手を合わせるばかりです。
(この項おわり)
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