天体議会の世界…カボションカットの時計(1)2013年08月05日 17時16分33秒

小旅行から帰宅しました。
今回の旅は(私的ないろいろは別として)「天文古玩」的には、特記すべきこともないので、さっそく「天体議会」の話題を続けます。

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学校をサボることに決めた主人公の二人が、さてこれからどうしようか相談する場面。

 「銅貨は硝子面を月長石〔ムーンストーン〕のようにカボションカットにしてある腕時計を確かめて、水蓮の意見を求めた。彼も同じカットをした自分の時計を一瞥した。近頃の流行〔はやり〕で級友たちの大半がこの型〔タイプ〕の腕時計を持っている。水蓮はそのうえ、鎖に白銅の硬貨を細工した飾りを繋いでいた。彼が自分で作ったもので、刻印された双魚〔ピスセス〕の輪郭を抜き、薄く熨〔の〕してある。腕を振りあげるたび、微かな金属音をたてた。」(p.20)


『天体議会』が描くのは、一言でいえば「涼しげな理科少年世界」で、いろいろそれっぽいアイテムが登場するのですが、細かくいえば、そこには「理科色」の強いアイテムと、「少年色」の強いアイテムとが混在しています。
ここに出てくる<腕時計>は、さしずめ後者の代表でしょう。また、ここには水蓮という少年の面影や性格もよく表れていて、一読、印象に残る描写です。

   ★

「カボションカット」とは、宝石の研磨法の一種で、ダイヤモンドのように複雑な多面体を削り出すのではなしに、表面を単純に丸く研磨するだけのもの。オパールや猫目石、月長石などが、その代表的な石種。要するに凸レンズ型の形状です。
↓の画像は相当盛り上がっていますが、もっと平たくする場合もあり、その厚みは時に応じてさまざまです。

(カボションカットされた月長石
出典:http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Moonstone_cabochon_ring.jpg

ここで水蓮たちが身に着けていた腕時計は、いわゆる「ドームウォッチ」タイプの、凸レンズ型の風防ガラスを備えた時計のことだと思います。(私は最初、上の画像のような形を思い浮かべましたが、いろいろ探しても、どうもそんな時計はなさそうですし、そもそも、こんなに分厚いガラスが付いていたら、重くて肩が凝ってしまいます。)

それでも、なるべく盛り上がりの大きい時計を探してみました。


↑は「PARNIS」というブランドの、ドイツ製と称されるものの、本当は中国製らしい、ごく安手の時計です(少年たちが、仲間内の流行で身に着けるものですから、安価なほうがリアルな気もします)。ご覧のとおり、風防の盛り上がりはなかなかのもので、これならカボションの名に偽りなしです。


裏側はスケルトンになっていて、時計の動きが観察できます。


さらに竜頭(りゅうず)をロック/リリースできるギミックもあって、これらの特徴は、いかにも、あの世界の少年たちが好みそうです。

(この項つづく)

コメント

_ S.U ― 2013年08月07日 08時12分08秒

 作者の長野氏は私と概ね同世代ですが、私たちが中高生で初めて腕時計を買ってもらった頃は、若者向けには男女を問わず「多面体カット」が流行っていたように思います。曲面状(凸レンズ状)の時計は、私どもの世代では懐中時計か国鉄時計を思い起こして、一時代古いというイメージだと推測しますが、長野氏はそれを承知で、未来の物語ということでまたハズしてきているのかもしれません。

_ 玉青 ― 2013年08月07日 21時35分40秒

なるほど、当時を振り返れば…というやつですね。

ただ、長野氏の場合、どうも単純な世代論ではくくれそうにありません。
いや、世代論は依然有効には違いありませんが、たぶん事態はより複雑で、氏の少女時代の現実の体験に加えて、少女時代に「憧れ」として仰ぎ見たこと、その後、80年代の多様な文化事象(セゾン文化とか、サブカルとか、ポストモダンとか)の中で、氏の美意識がどう形成されたのか、さらに80年代当時における世間一般のレトロ意識の実態はどうであったか等々、時間幅をより大きく取って考察する必要があるような気がします。

それに、『天体議会』を1991年の発表時に読んだ読者の反応と、今それを読む読者の反応も結構違うでしょうし、そういう風に考えると、『天体議会』に描かれた「レトロ」の正体は、実は相当に複雑だと感じています。

_ S.U ― 2013年08月08日 06時54分51秒

>世代論は依然有効~事態はより複雑
 おぉ、そうなのですか。
 実は私もそこに遠からずのことを考えて、長野氏の流通業に関わる新刊書を読み始めたところです。書かれてるのは、途中まで読んだところ、'60年代と'80年代の話がおもです(今のところ'70年代は抜けています)。「耽美派」小説と違ってこれはドロップの危険がなくありがたいです。全体がつながることが読み取れたら、また分析に生かしてみたいと思います。

_ 玉青 ― 2013年08月08日 21時00分50秒

やや!S.Uさんがそんな方面にまで研究の手をのばされていたとは!!
それでは、作者・長野まゆみさんに関する考究はS.Uさんにお任せすることとして、私の方は作品そのものの世界の裡で、しばし遊ばせていただくことにしましょう。
ご考究の成果については、また追々とお聞かせいただければ幸いです。

_ S.U ― 2013年08月09日 07時45分03秒

(笑) 私は、長野氏個人のファンではないのですが、『天体議会』のモノ趣味との関連と、あとは流通小売業界の歴史に興味があって、新刊著書(2012)を読んでみました。けっこう分量のあるものでしたが、脱落することもなく一気に読めました。

 でも、関連についてはすぐにはわかりません。氏がこの本に書いていることはまあフツーで(女性の何がフツーか存じませんが、私の想定内に余裕で入っているという意味)、時々、鉱物趣味や理科趣味が顔を出しても、特に他の部分とつながりはないように書かれています。'70年代のことはほとんど書かれておらず、その年代の動機についてはわかりませんでした。

 というわけで、全体的に見ると、この「理科感覚」というのは現実の経験とは別で、天性のものなのかもしれません。男性と女性の差がそっちの方向にあるのかもしれません。それでも、早急な結論以上のものがありそうなので、また次の機会に別の結論が出るかもしれません。

_ 玉青 ― 2013年08月12日 13時12分30秒

お返事が遅くなり申し訳ありません。

改めて探したら、お読みになったのは『あのころのデパート』という本ですね。
アマゾンのレビューはちょっと辛かったですが、当時を知る者としては、ホロリとさせられるタイトルであり、内容ですね。

まあ、『天体議会』とのつながりは一寸分かりませんが、個人的に1つ連想したのは、スティーヴン・ミルハウザーというアメリカの現代作家が書いた「協会の夢」という短編です(白水uブックス『ナイフ投げ師』所収。この本は、以前コメント欄でねこぱんちさんに教えていただきました)。

かつて、誰にとっても憧れの対象であった百貨店が、新しいショッピングモールに取って代わられる中、古い大きな百貨店を買収した「協会」が、かつての百貨店が持っていた豪華さ、非日常の感覚を、さらに途方もなく極端な形で表現することで、客を引き付け、百貨店を再生する物語です。その生まれ変わった百貨店の内部の描写が、既視感と未視感のまじりあった、眩暈のするような幻想性を帯びていて、正体不明の「協会」の存在と相まって、『天体議会』の世界をちょっと思わせるものがありました。

そんな風に考えると、かつてのデパートが体現していた異世界感、人工世界感、そして新しさとトラッド感の混じり合った空気が、何となく長野さんの作品に影響しているようにも考えられます。(真夏の昼下がりにボーっとしながら思いついたことなので、適当に読み飛ばしてください。)

_ S.U ― 2013年08月12日 21時48分16秒

>アマゾンのレビューはちょっと辛かった
そのようですね。
多くの読者が期待するのは、百貨店でモノを買う(見る)ことが輝いていた時代から、現在まで、どのように価値観が変遷してきたか、あるいは凋落してきたかなのでしょうが、そういうことはあまり追求されていません。

 長野氏は百貨店の従業員をされていた立場で書かれていることもあるのでしょうが、百貨店が売っていた夢と理科趣味の夢との関連は特になさそうでした。

 確かに、百貨店で企画で、鉱物やら古銭やら美術品が展示販売されることがしばしばありますが、どうもあれはもひとつしっくりきません。

_ 玉青 ― 2013年08月13日 20時54分37秒

デパートは夢を売っていた…とよく言いますが、詮ずる所「消費のための消費」を喚起していたに過ぎないのでしょうかねえ。今の人が志向するのは、もっぱら「生活のための消費」ですから、100均やホームセンター、あるいはネット通販でしかモノが売れないのは理の当然で、デパートの凋落はデパート自身の努力不足とは関係なしに、一つの時代が終わったということなのでしょう。でも、見方によっては、真っ当な考えに立ち返ったともいえるのかなあ…とか、この辺は自分でもちょっとよく分かりません。まあ、可処分所得が右肩上がりだった時代とは、明らかに物を買うことの意味が違ってきているのは間違いないんでしょうが。

_ S,U ― 2013年08月15日 05時35分21秒

>デパートは夢を売っていた≒「消費のための消費」?
 長野まゆみ氏がこのへんをどう考えているのか、改めて『あのころのデパート』の始めのほうをあたってみますと、「非日常性を味わう」ということが肯定的に評価されています。ただし、これは長野氏の幼かった時代のことをおもに指しているようです。一方で、バブル期の消費行動については否定的な見方を述べていて、物欲や資力のある人の要請(ステータスから見栄まで含めてと解釈します)に基づく買い物であると見なしているようです。

 私が長野氏の見方を勝手に解釈しますと、「消費のための消費」にも2種類あり、乱暴な言い方ですが、古き良き時代の「レジャーとしての消費」と、バブル期のような「自分の欲求を満たす必要に追われた消費」があって、前者と後者に善悪を当てはめているようです。後者は本当は、日常の要請を満たすためと見なせますから「生活のための消費」のほうに分類されるべきかもしれません。

 そして、最近のデパートで行われていることは「ただの『買い物』」であるといいます。これは、玉青さんのおっしゃるようにホームセンターでもネット通販でもできることですので、長野氏にとっては論外なのでしょう。

 結局のところ、長野氏は(私の極端な単純化によるものですが)、かつての「レジャーとしての消費」を単なる物欲以上のものととらえ、デパートでの勤務体験に基づいて、今後のデパートに高度のエンターテイメント性を求めている(それも、1960年代とは違うかたちの)ということだと思います。

 これを読んだ私自身の考えでは、個人の資力に関係なく、何か「健全な無駄遣い」というものがあるはずで、それを実現するのがデパートの使命であり、そしてそれが安定した消費経済の基盤になるべきものではないかと思います。

_ 玉青 ― 2013年08月15日 20時29分19秒

詳細な分析をありがとうございます。
御説を読み、またまたいろいろ考えたのですが、「レジャーとしての消費」というのが、この問題を考える際の、大きなキーワードではないかと思いました。

「夢を売る商売」というと、今ではディズニーランドが思い浮かびます。「60年代のデパートは、今のディズニーランドのような存在だった」といえば、今の人にいちばんよく分かってもらえるかもしれませんね。

すべてが光り輝く、非日常の空間。カップルも、親子連れも、そこに身を置くだけで、なにがしかの満足感を味わえた場所…という意味で、たしかに昔のデパートは、ディズニーランドの前身だったと言えるのではないでしょうか。

消費行動の変化はそれ自身興味深い問題ですが、実はデパートの変質は、消費行動よりも、レジャー活動の変質という流れで捉えた方が、むしろ分かりやすいかもしれないなあ…と、ふと思いました。

東京ディズニーランドがオープンして30年。
長野氏が肌で感じたデパートの変質とちょうど軌を一にしているのは興味深い点です。

_ S.U ― 2013年08月16日 08時19分57秒

>東京ディズニーランド 
 長野氏の幼少時代の思い出はデパートの屋上遊園地だったそうで、子どもにはその方向の記憶の強い人も多いでしょうね。まあ、デパートとディズニーランドでは、ミニ遊園地とハイパー遊園地以上の差があるので子どもでも同列に見ることはないでしょうが、「特別な一日」を過ごしたという体験に違いはないかもしれません。私自身は、小さい時にデパートの屋上遊園地に行った記憶がないので、'60年代に東京以外でそれがどれほど流行していたかはわかりません。

 ディズニーランドは、開業30年後も、大人が年間パスポートを買うなどリピーターの人気が落ちていないようですので、何度行っても「非日常性」が味わえるのでしょう。デパートにも、そういうレベルに達する高いテンションの演出が求められているのではないかと思いますが、今や経費その他の面で苦しいのでしょうね。

_ 玉青 ― 2013年08月16日 21時41分48秒

>「特別な一日」

まさに。屋上庭園をはじめ、「よそ行き」の服を着て歩く清潔な店内、おもちゃ売り場、レストランのお子様ランチ、お姉さんがお辞儀するエレベーター…。子供にとっては、建物全体がワクワクするような高揚感に充ちていた気がします。その1つ1つが、今のディズニーの各アトラクションに相当するものだった、とすら言えるかもしれません。

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