火山を目の当たりにする2019年03月23日 07時08分56秒

火山の恐ろしさを知るために、火山のステレオ写真を買いました。


3枚とも1903年に出たもので、版元はアメリカのキーストーン社(1892年創業)です。


台紙の裏には、それぞれ説明文が書かれています。
しかし、この火山シリーズは、本来もっと枚数があったらしく(手元の3枚は「25」、「50」、「71」とナンバリングされています)、何か恐るべき悲劇があったことは分かるのですが、これだけ見ても事情がよく分かりません。

でも、検索したら、すぐにその正体は知れました。
この3枚はいずれも同じ火山を写したもので、場所はカリブ海に浮かぶマルティニーク島(フランス領)、山の名は「プレー山」、そして噴火があったのは、前年の1902年です。

ウィキペディアには「プレー山」の項目があって、そこに1902年の悲劇が詳述されています。約3万人の島民が亡くなった、この20世紀最大の火山災害を、私は恥ずかしながら、全く知らずにいました。以下、リンク先の記述をかいつまんで書かせてもらいます。

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プレー山の噴火は一時に起こったのではなく、1901年の予兆に始まり、1902年に生じた大小の悲劇を経て、1904年に一応の小康を得るまで、複数回生じています。

噴火活動が本格化したのは、1902年4月末からです。
山頂に火山湖が形成され、降灰で船舶の往来がストップし、火山泥流で150人の村人が犠牲となり…と、これだけでも相当深刻な事態ですが、真に恐るべき悲劇は、5月8日に起こりました。

(「激しく壮大な火山噴火の光景に見入る現地民。マルティニーク島、グロ=モルヌ」)

この日の朝、プレー山は4度にわたって爆発し、そこで発生した火砕流が、島で最大の町サン・ピエールを襲ったのです(マルティニーク島はフランスの海外県で、サン・ピエールは当時の県庁所在地です)。

 「高温の火砕流は瞬く間にサン・ピエールを飲み込み、建物を倒壊させると共に大量のラム酒を貯蔵した倉庫を爆発させたために町は炎に包まれた。港に停泊していた18隻の船も巻き込まれて16隻が沈没した〔…〕。
 この災害による死者数ははっきりしないが、サン・ピエールの住民と避難民合わせて2万4,000人とも、3万人ないし4万人とも言われる人々が僅か数分(時計は噴火の2分後に停止している)のうちに死亡した。犠牲者の中にはサン・ピエール市長も含まれていた。」

(「荒廃した死の町。マルティニーク島、サン・ピエール」)

市内の生存者はわずかに3名。まさに全滅状態です。
反射的に広島や長崎を思い起こす方もいるでしょう。

しかも、悲劇はこれで終わらず、同年8月30日には新たな火砕流が発生し、サン・ピエール北東のモルヌ・ルージュ村を襲い、2,000人が死亡しています。

(「解き放たれた破壊の悪魔。プレー山の恐るべき悲劇の不吉な予兆。1902年8月30日」、同)

プレー山は活火山として現在も監視の対象となっており、復興されたサン・ピエールは、今や人口5,000未満の小村に過ぎない…とウィキペディアは記しています。

   ★

このステレオ写真、最初覗いたときは、奇妙な現実感の無さが感じられました。
確かに奥行き感はあります。噴煙はもこもこと盛り上がっているし、手前に立つ人物は、はるか向こうの光景を呆然と見つめ、その遠近感は歴然としています。でも、そこには一切の動きがなく、凍り付いた世界のように見えたのです。

しかし、事態の全貌を知ってみれば、そうした凍り付いた世界こそ、悲劇を体験した人の心象のように思え、あらためて慄然とします。


【3月24日付記】

マルティニーク島の悲劇を検索する過程で、同じく1902年(明治35年)に、日本でも大規模な噴火被害が生じていたことを知りました。伊豆諸島の南端に近い「鳥島」でのことです。

ここは今では無人の島ですが、明治時代にはアホウドリの羽毛採集に従事する人が大勢住んでおり、1902年8月7日ないし9日(正確な日付は不明)に起こった大噴火によって、島民125名が全員死亡した…と、ヤフーの「災害カレンダー」には書かれています(https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/84/)。

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