ケプラーの多面体宇宙モデル2011年07月08日 22時08分10秒

『ケプラーの憂鬱』 も残すところあと30ページ。
いよいよケプラーの人生が幕を下ろす間際まで来ました。

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天王星が発見されたのは1781年で、これは周知のように ― と、ハーシェル協会員としてあえて書きますが ― ウィリアム・ハーシェルが成し遂げた偉業です。

それ以前は、誰もが水・金・地・火・木・土の6個しか惑星はないものと思っており、当然ケプラーの時代もそうでした(もっとも、地球は惑星ではないと考える人も大勢いましたが)。

ふつうの人であれば、それを自明の前提として受け入れるだけでしょうが、ケプラーは妙な問いの立て方を好む人だったのか、惑星の数はなぜ6個しかないのか? そして、なぜ今あるような軌道間隔を描いて回っているのか?」という点にこだわりました。

ケプラーの第1法則~第3法則は、彼の天才的な思索の結晶であり、科学史における偉大な事件と言ってよいのでしょうが、直接上の問いに答えるものではありません(問いの後段については、部分的に答えているかもしれません)。彼としては、それ以前に世に問うた『宇宙の神秘』で開陳した、多面体宇宙モデルこそがその答でした。
 
(↑『ケプラーの憂鬱』より)

(↑上図中央部拡大。出典=ウィキメディア・コモンズ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kepler-solar-system-2.png

「惑星はなぜ6個しかないのか?」
それはこの宇宙に正多面体が5個しかないことに対応しているのだ。

「惑星はなぜ今あるような軌道間隔を描いて回っているのか?」
入れ子になった正多面体に内接する円を描いてみよ。まさに惑星の軌道がそこに浮かび上がるではないか!

これは単なる思い付き以上のものではなく、言ってみれば一種の奇説に過ぎませんから、彼の三法則と同列には論じられないでしょうが、しかし彼はこの考えがいたく気に入っていたようです。(少なくとも小説の中ではそうです。そして著者のバンヴィルは、この説を受けて、小説全体の結構に、ある巧妙な仕掛けを潜ませているのですが、それはまた次回。)

   ★

そういえば、以前、ペーパー・オーラリーを紹介したときに、この宇宙モデルのペーパークラフトが、チラリと顔を出しました[商品情報]。なんだかペラペラしていて、もうちょっと重厚さが欲しい気もしますが、ケプラーを身近に感じるには手ごろな品かもしれません。


(正多面体の話題に移りながら、この項つづく)

コメント

_ S.U ― 2011年07月09日 06時59分52秒

ケプラーの「奇説」(「多面体説」)は、私には、大成功を収めた「3法則」の発見よりも、むしろ身近で自然なものに感じられます。比較的最近、そう思うようになりました。

 連想がすっ飛びますが、宇宙にある「基本粒子」(基本となる物質的な素粒子)は、「クォーク」が6種類、「レプトン」が6種類からなります。なぜこれが6種なのかはわかっていません。(7つめ、8つめが見つかる可能性がないわけではありませんが、6つで終わりの可能性が今のところ高そうに見えます。)

 自然がなぜ「6」という数を選んだのか、誰しも考えるところでしょう。そして、ケプラーの立体の自由度に関連づける説は、惑星より素粒子に更にふさわしく思われます。現代の物理学者には基本粒子の数についてトップダウン的な奇説を唱える人はあまりいないようですが、ケプラーは「偉大なパイオニア」であり、そしてそれが失敗に終わったことは美しくさえ思えます。

 現代では「惑星の個数」と「素粒子の種類数」がまったく性質の違う問題(「博物学の問題」と「基礎科学の問題」という意味で)なのはわかっているのですが、何か未来永劫にそうとは言い切れないものが潜んでいるようで、...うまく言えませんが、楽しいです。

_ 玉青 ― 2011年07月09日 08時51分27秒

「この世界には正多面体が5個(ケプラー自身が発見した星型正多面体とその変種を含めても9個)しかない」

この事実は、原子・分子の配置に一定の制限を課し、たしかに世界を大きく秩序付けているわけですよね。そう考えると、ケプラーの思い付きは意外な卓見だったのかもしれませんね。そしてさらに極微の世界に入り込んでも、この事実が何らかの形で(えらく大雑把な言い方ですが)、現象を統べている可能性もある…ということでしょうか。

そもそも、正多面体の数が5個しかないというのは、我々の住む世界の基本的な空間構造によって規定されているのでしょうけれど、三角形の内角の和が任意であるように、正多面体が2個しかない世界や、133個存在する世界を想定することもできるわけですよね(違うかな?)。あるいは、現世でも、極微や極大のスケールになると、もはや正多面体の数が5個であることは保証されない…とか?

ちょっと頭がぐらぐらしてきました。

「この世界には基本粒子が6種+6種しかない」
という事実(将来それが確かめられたと仮定して)についてはどうでしょうか。これはそれ自体無前提に与えられた公理と考えるべきなのか、それともさらに基本的な公理、いわば「世界のグランドルール」から演繹可能な陳述なのでしょうか?基本粒子が4種類しかない世界や、85種類ある世界を考えると、そこではどんな物理現象が観察されるのでしょうか?

こういう問いには答(あるいは少なくとも意味)があるんでしょうか?
そもそもこれは物理学の研究対象なのでしょうか?
(ブツブツ… すみません、最後はほとんど独り言です。)

_ S.U ― 2011年07月09日 16時30分17秒

おぉ、私の寝ぼけた頭に浮かぶケプラーの多面体説に「潜在する真理」について、部分的にでも共鳴して下さっているようでうれしく思います。

 この宇宙の(1+3)次元時空構造や基本粒子の(6種+6種)構造(それが正しいとして)の起源を考える玉青さんの「戦略」について、私はそこまで深く考えていませんでしたが、まったくご同意いたします。

 この問題が意味のある問いかけとして現代物理学の対象になっていることは間違いありません。しかし、正解にたどり着ける目途がまだ立っていないので、最終的にどれほどの意味を持つのかはわかりません。 仮に、遠くない将来、物理学によってこの問題に決着が得られるとしましょう。それには、2通りの場合が想定されると思います。

(1)宇宙に唯一実現しうる統一的な原理から、宇宙の構造の主要な部分(広域的な次元数も基本粒子の種類数も含めて)が演繹され、これらが同じ原理による必然の帰結であることが明らかになる。

 こうなったら、ケプラーの「卓見の勝利」と言えそうです。また、別の可能性として、

(2)我々の宇宙の(1+3)次元時空構造や(6種+6種)構造を「一つの解」として説明することはできるが、宇宙で実現しうる法則には多数の可能性があって他の状態をとる宇宙の存在も禁止されない。

 こうなれば、我々の宇宙で実現している法則は本来の普遍性を持たないことになります。そのときは、我々の太陽系に惑星が8個あっても他の個々の恒星系の惑星数に制限がかけられないように、我々の宇宙に閉じた素粒子論は「博物学」になってしまうのでしょうか。それを嫌う素粒子論は「我々以外の宇宙」に目を向けて研究を進めることになるのでしょうが、それが本質的に実証科学として成立するものかどうか、多くの人が懐疑的にならざるをえないでしょう。

_ 玉青 ― 2011年07月09日 19時50分55秒

ブツブツにお答えいただき、ありがとうございます。

これまでの人類の歩み(自分たちの存在する場所が世界の中心ではないと再認識し続ける歴史)をそのまま延長すると、(2)の方に分があるような気がしますが、こればかりは前例主義が利かないので、結末は分からないですね。

それにしても、素粒子研究が「世界の本質をえぐり出す刃」なのか、それとも単に「極微の世界の新種探し」に過ぎないのか、これぞS.Uさんのアイデンティティにも関わる重大事なのだな…と、以前頂戴したコメントも考え合わせて思いました。たしかあのときは、「現象記述的アプローチ」と「法則定立的アプローチ」の対立云々というようなことを話題にしたのでしたね。

>それが本質的に実証科学として成立するものかどうか、多くの人が懐疑的にならざるをえない

かつて恒星の物質組成が、(技術的にではなく)原理的に知り得ないものの代表例と考えられた時代があったことを思い出します。うーん、よくは分かりませんが、たとえば将来「観測」や「実在」という概念の意味合いが大きく変わって、相互作用しえないはずの別の世界の問題が、改めて実証研究の俎上に乗るとか、現時点では全く予想のつかない巨大な理論的ブレイクスルーが生じるとか(←テキトー;)、人間の夢と想像力はまだまだ尽きそうにないので、個人的には将来の意外な展開に期待するところ大です。

_ S.U ― 2011年07月10日 09時26分40秒

 「宇宙の最高原理」のタテマエからいうと(1)であるべきですが、なんか実際は(2)のような気がしますね。またも歴史は繰り返すのか。

 申し訳ないことに、この方面の研究の最前線の動向はよく知らないのですが、現状の多数派は(個々の研究者の内心に立ち入らないとわかりませんが)、いきなり(1)を目指すのは実利を挙げるにはとっつきにくいので、まず現実の宇宙を説明できる(2)をサーベイし、その大域的な様相が見えたところで、あわよくば(1)に乗り移ろうと考えているのではないかと思います。乗り移れなくとも、(2)の大域構造が解明できれば(2)の完成が視野にはいってきます。

 (2)から(1)に移るのが困難であることがわかれば、多数派は分裂し、おっしゃるような実証研究のブレークスルーに賭ける者、断じて(1)をあきらめない者、実在しない宇宙をただ数学として弄ぶ者、「博物学」を受け入れる者、...と様々になるのではないかと思います。現状はまだまだなので、そこまで心配する人はいないと思います。そうこう言っているうちに、ケプラーやアインシュタインのような天才によって、すべてがひっくり返ることになるのかもしれませんしね。

_ 玉青 ― 2011年07月10日 19時38分21秒

なるほど、何と言っても「宇宙の最高原理」なのですから、語義からして、すべてをそこから演繹できなければいけないと。
何だか神学論争のようで、ちょっと面白いですね。
ここにも歴史の繰り返しを見て取ることができるやも。

それにしても、生きている間にすべてがひっくり返る場面に立ち会えたら…と思いますが、実際その場になったら、どんな心持がするでしょうねぇ。痛快に思うか、呆然自失となるか、「まあ、今夜のビールの味には影響あるまいよ」と達観するか…(^J^)

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