どくとるマンボウ昆虫記2011年11月02日 22時47分25秒

作家の北杜夫さんが亡くなったと聞いて、一抹の感慨なきにしもあらず。
享年84歳ですから天寿といってよく、特に意外な感はありませんでしたが、何といっても私は一時その作品を愛読していたので、寂しいというか、空しいというか。

私が氏の作品を熱心に読んでいたのは中学生のときのことです。
そして最初に手に取ったのが『どくとるマンボウ昆虫記』だったと思います。
私が中学生のころ、氏はちょうど50歳前後で、私からすると憧れの伯父さんのような存在でした。

   ★

今にして思うと、当時、私は一種のアイデンティティの危機を迎えていました。
ちょっと前まであれほど好きだった昆虫に、急速に興味を失い始めていたからです。

昆虫を捕ってピンに刺したとて、それがいったい何になるのだろう?
そんなことをしたって、何にも生まれないじゃないか。
クダラナイ!コドモッポイ!!

そんな気持ちの一方で、やっぱり私は自分の過去を切り捨てることにもためらいがあって、何か虚無的な心を抱えていました。そんなときに、北杜夫さんの『昆虫記』に、そして氏の自伝的作品『幽霊』に出会えたことは、いくぶん大げさに言えば「魂の救済」にも相当する経験だったのです。

もはや自分は昆虫とオトモダチでいることはできない。
でも、そこから数々の物語を紡ぎだすことはできる。
生身の(というのも変ですが)昆虫たちの向こうには、さらに大きな世界があるらしい…そんなことを私はボンヤリと感じ取ったのでしょう。
ここでいう「さらに大きな世界」とは、文学とか、人間の心の領域とか、そういうものです。実際にそれが昆虫の世界よりも大きいかどうかは不明ですが、まあ中学生というのは、いろいろなルートで文学に目覚めるものですから、自分の場合、それがたまたま北杜夫さんだったということでしょう。

ともあれ、『昆虫記』のユーモアに、自分はどれほど心を慰められたことでしょう。
そして『幽霊』が描く心象風景に、どれほど魅せられたことか。
(「或る幼年と青春の物語」の副題を持つ『幽霊』は、とても美しい作品です。肉体と精神の成長の中で戸惑う主人公の昆虫少年(氏の分身)の繊細な心模様が、透明な自然描写と、入念な昆虫の生態描写とともに静謐に描かれています。)

   ★

こうして私は北杜夫さんの主要作品を次々と読み、学校で書く作文にもその文体が影響するまでになり、その影響の一部は今でも残っている気がします。

氏は嫌がるかもしれませんが、私あえて氏を「偉人」と呼び、その死を悼みたいと思います。さようなら、そしてありがとう。。。

コメント

_ うり ― 2016年03月31日 20時28分04秒

こんばんは。過去記事へのコメント失礼いたします。
とっても素敵な内容だったので…

私が成長期に感じたアイデンティティの危機を、
玉青さんも中学生のころに感じられたのだな…と、
(実際の私と玉青さんの年齢差は大きいのですが)
中学生の玉青さんにとてもシンパシーを感じました。

そして、当時の玉青さんに「あこがれのおじさん」の北杜夫さんがいらしたように、
歳を重ねられた玉青さんが、今、私たち後続の者の
「あこがれのおじさん」になられたのは
素敵な連鎖、人は良い影響を先達から受け、後続にそれを与えてゆくものなのですね。
(そして「ウクライナの12星座切手」、記事を拝見してからすぐに買っちゃいました。かわいいですね!)

_ 玉青 ― 2016年04月01日 22時43分48秒

うりさん、コメントありがとうございます。

考えてみれば、私は当時の北杜夫さんの年齢に近いですね。
しかし、自分が「あこがれの伯父さん」の年齢になって感じるんですが、これで伯父さんもなかなか苦労と悩みが尽きぬもので、有体に言ってしまうと、人間齢をとれば自然に円熟するというのは、まあ一種のファンタジーですね。ある程度齢をとったら、苦労をどう見せないようにするかが大切なポイントなのかもしれません。

…と、舞台裏を明かすとそんな感じですが、この駄文がうりさんの心に多少なりとも触れたのであれば、とても嬉しく思います。どうぞこれからもお気軽にお立ち寄りください。

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