Good-bye, Newtonian.2014年10月12日 12時56分32秒

再度の大型台風接近が気になります。

   ★

いくぶん心理的余裕を失っていましたが、少しずつ記事を再開します。
といって、格別話題もないので、部屋の写真を載せます。


部屋の隅の物置のような一角。
いかにも混沌としていますが、混沌はむしろ望むところで、問題とはなりません。
それよりも、この場所は以前も写真に撮った記憶がありますが、そのときと明らかに変化している部分があって、それが自分としてはちょっと寂しく感じます。

   ★

この場所には、かつて人体骨格模型と並んで、130ミリ反射望遠鏡が置かれていました。それをこの夏、手放しました。

もともと稼働率が著しく低く、取り回しの上からも、ベランダ観望には不向きだったのですが(そもそも南向きのベランダでは正確に極軸合わせができない)、いつかまた使う日が来るかもしれないと、ずっと部屋に置いていました。でも、増え続けるモノの圧力はいかんともしがたく、しかも古いモノばかり増えてくると、他とのアンバランスさも目立つようになり、思い切って処分を決断しました。

愛すべきニュートン式反射赤道儀。
あれを買った当時(前世紀末)、すでに自動導入装置付きシュミットカセグレン式望遠鏡の波は日本にも押し寄せていましたが、あまりそういうことは意識せず、再び天文趣味に目覚めた自分が、まっさきに思い浮かべたのは、子供のころ憧れたあのシルエットでした。

   ★

たしかに寂しくはあります。
これで、今も残る星見の友は、30ミリの双眼鏡と、子供向けの60ミリ屈折望遠鏡だけになりました。でも、宝石箱のようにきらめくヒアデスとプレアデス、白く煙るオリオン星雲を眺めるには、それで十分です。

彼らはすでに深更には姿を見せています。彼らが空の主役となり、吐く息が白くなる季節まで、あと少し―。

コメント

_ 蛍以下 ― 2014年10月12日 16時42分20秒

なんとも寂しいですね。
13cmだったらカッシーニの空隙も見えたんじゃないでしょうか。
でも6cm屈折があれば月面も見れますし、また欲しくなったら・・・ということでいいんじゃないでしょうか。

_ S.U ― 2014年10月12日 19時50分39秒

昨今は、望遠鏡も手軽に買えるようになりましたしね。蛍以下さんのおっしゃる通りだと思います。

 ちょっとあまり関係のない話題ですみませんが、「子どもの時の理科趣味」の関係で3日ほど前に感銘を受けたニュースがあったので、旬を外すといけないので今のうちに書かせていただきたいと思います。

 このたびノーベル物理学賞を受賞された赤崎勇先生は、子どもの時に鉱物標本に夢中だったそうですね。鉱物が色やら劈開やらそれぞれに変わった性質を持っていることに惹かれたといいます。鉱物趣味と物理学の基礎的研究の関係は何か赤崎先生ははっきりとおっしゃっていないので疑問に思ったのですが、ノーベル賞の研究が、赤と緑の光を出すLEDの物質があるならば青い光を出す物質もきっとあるはずだ、それを探してみよう、という動機であるならば、なるほどつながっていると理解できたような気がしました。「博物」趣味が独特の有用な性質を持つ物質発見として結実する実例を見た思いで心強く感じました。

_ 玉青 ― 2014年10月13日 07時33分34秒

○蛍以下さま

カッシーニの空隙、たしかに見えた気がします。
「気がする」というのは、私は極度の乱視で、どんなに高性能の望遠鏡を覗いても、自分の眼球の性能によって見え方の上限が決まってしまうからです。もちろん眼鏡には乱視矯正が入ってますが(観望はすべて眼鏡越しです)、それでもどうしても恒星が点星像に見えませんし、ピントが合っている実感が最後まで持てません。ですから、高級機材には最初から縁がなくて、これはある意味、精神衛生にとって非常に良いことです(笑)。

○S.Uさま

値段のことを言うと、他の出費を抑えれば、そこそこの中級機をまた買えそうな気もするのですが、問題はスペースですねえ…

ときに赤崎氏は鉱物少年だったのですね。
となると、青色LEDの話題とは、結晶という太い糸でつながるでしょうし、また具体的なモノへの執着という点でも、二つの世界には共通するものがありそうです。

かつて抱影翁は、天文学とは「天文の学」であり、また「天の文学」でもあると喝破しましたが、その伝でいくと、物理学とは「物理の学」であると同時に、「物の理学」であるのやもしれませんね。物理学の主役は、一般的にはモノの背後に潜む法則性でしょうが、一方には「モノそのもの」を主役に据える立場もある…とかなんとか、適当なことを言って、S.Uさんに渋い顔をされるといけませんが(笑)、でも青色LEDの開発は、「モノそのものの力」をまざまざと感じる出来事でした。

_ S.U ― 2014年10月13日 09時10分06秒

>問題はスペース
 スペースのことをいうと、シュミットカセグレンかマクストフカセグレンなんでしょうねぇ。でも重さはこちらのほうが重いかもしれないです。また時が来ればご検討下さい。

>「モノそのもの」を主役に据える立場
 物理の法則は物からそれなりに独立した存在なのか、それとも物の存在と一体のものか、はたまた人間の心理の中にのみあるのか、あたかも宋学の論争のようですが、将来に決着がつく可能性が高い進行中の物理学の問題であると思います。

 そういえば、前回の日本人のノーベル物理学賞(2008年)もこの話題に関係していると気づきました。「6種類の物質粒子(クォーク)があると、粒子と反粒子の対称性の破れが生じる(「小林・益川理論」)」、「素粒子の法則の対称性の破れが物質粒子の質量を生む(「南部理論」)」は、物質自体がその法則と不可分であることを示しているようにみえます。

 いずれにしても、前回も今回も、深い示唆に富んだ良いテーマであり、おっしゃるところの「モノそのものの力」を示す良い受賞であったと改めて思いました。

_ 蛍以下 ― 2014年10月13日 19時43分32秒

S.U様

最近は13cmクラスのマクストフカセグレンが求めやすくなってるようですね。
フォーク式赤道義に載せればかなりコンパクトにまとまりそうなので私も欲しいです。



玉青様

>極度の乱視

私は極度の近視で、普段はコンタクトレンズ着用です。
昔の話ですが、ある朝目覚めたとき枕元に時計もメガネもなく、時間がわかりませんでした。
部屋には壁掛けの時計がありましたが、布団の中からは私の近視では全然見えません。
布団から出たくなかった私がそこで思いついたのが望遠鏡理論です。
たまたま手鏡が手の届くところにあったので、「この鏡に遠くの時計を映して、それを見れば時間がわかるではないか」と閃いたのでした。
ところが驚いたことに鏡に映った時計はボヤけていました。

_ 玉青 ― 2014年10月14日 06時59分15秒

○S.Uさま

物と心と理。その関係が如何なるものなのか、真実は容易に知れませんが、あらゆる現象は、その3枚の合わせ鏡が繰り広げる万華鏡のようなものだ…という喩えが、今の自分にはいちばんしっくりきます。(どれがより基底的ということはないのかもしれません。)

○蛍以下さま

あはは。
そういえば、「遠くのものを手鏡に写して、それを虫眼鏡で拡大する」というアイデアが、昔ベストセラーになった『頭の体操』に載っていた気がします。(あるいはブルーバックスの物理クイズだったかな?いずれにしても、なぜそれではうまくいかないか?というのが問題の中身でした。)

_ 蛍以下 ― 2014年10月14日 15時12分41秒

玉青様

結局、凹面鏡がなければ話にならないということでしょうか。
デジカメで壁掛け時計を撮って再生すれば時間がわかったはずですが、それもボヤけてたら怖いですね(笑)

_ 玉青 ― 2014年10月15日 07時02分22秒

結局、平面鏡の場合、そこに見えるのは虚像ですから、虫眼鏡では拡大できないということに尽きるのでしょう。凹面鏡の場合は実像を結びますから、さらに凸レンズで拡大できますし、さればこそ反射望遠鏡で観望も楽しめる理屈ですよね。(しかし、私はこういう基本的なこともよく分からぬまま来てしまったので、レンズとか鏡の話題になると微妙な感じがします。)

デジカメはシンプルな解決法ですね。あれはいわば「他人の目を借りる」ことに相当するのでしょう。

_ 蛍以下 ― 2014年10月15日 13時30分28秒

>「他人の目を借りる」

あ~、なんか腑に落ちました・・・
望遠鏡を覗くというのは「自分の目」だから「俺は土星見たことがある」と自慢したくなるんですね。

_ 玉青 ― 2014年10月16日 22時20分37秒

眼視派のこだわりは、まさにそこだな!…と、私も腑に落ちました。

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