奈良から宇宙へ ― 2017年05月28日 17時26分33秒
(薬師寺講堂の棟を飾る鴟尾(しび))
ゴールデンウィークに外出しなかった代わりに、昨日は奈良へ。
薬師寺の伽藍復興の一環として、かねてより進んでいた「食堂(じきどう)」が落成し、そのお披露目があるというので、参詣してきました。
★
伊賀から大和に抜ける沿線は、まさに「たたなづく青垣」。
山々は燃え立つ緑に包まれ、空をゆく白雲が、山並みのところどころに影を落とし、その影が山肌をすべるようにゆっくりと移動していくのが、電車の窓から面白く眺められます。
耕地はちょうど田植えの季節で、山の斜面を上へ上へと続く棚田に張られた水は、空の青を映し、白く光り、これが日本の原風景なのだろうなあ…と、思わせるものがありました。
(伽藍の上に広がる古都の空)
電車を乗り継いで、近鉄・西ノ京駅で降りれば、すぐ目の前が薬師寺。
自慢じゃありませんけれど、私は極端な出不精で、旅行というのをほとんどしたことがないので、薬師寺に来たのは生まれて初めてです。
(法要で撒かれた散華)
薬師寺は、いわゆる奈良・天平に先行する「白鳳時代」に属し、夫婦で天皇位に就いた天武・持統両天皇が建立した寺です。そして、法要後に見学した同寺「聚宝館」で、私は白鳳の世界にしばし思いを馳せたのでした。
聚宝館では、今回の食堂完成を紀念して、工芸家の中野武氏(1945~)と、フレスコ画家の金森良泰氏(かなもりりょうたい、1946~)の作品展が行われていました。テーマは「生命(いのち)と、宇宙(そら)と: 命の形―その始まりと終わり」。
私は中でも金森氏の星をテーマにしたフレスコ画に目を奪われました。
(展覧会チラシ・部分)
金森氏は、東西南北を守る四神、金の日輪と銀の月輪、そして輝く星を綴った古代の星座をモチーフとした連作を出品されていましたが、それらは明らかに高松塚古墳やキトラ古墳の壁画に材を取ったもので、考えてみたら、両者はいずれも天武・持統の古代世界に属するものなのでした。
天武天皇という人は、後の「蘭学趣味にはまった殿様」のはしりのような、極端にハイカラ好みの帝で、自ら天文や遁甲の術をよくし、しかも文字面だけで満足することなく、率先して陰陽寮を作り、占星台を設け、当時にあっては最先端の「科学」である陰陽五行思想の摂取に努めた人です。
天武帝のハイカラ好みは、仏教と中国思想の混淆した世界観を生み、それは薬師寺の本尊である、国宝・薬師如来像の台座に、本来仏教とは無縁の四神像(青龍・朱雀・白虎・玄武)がはめ込まれていることにも、よく表れています。
とはいえ、こうしたハイカラ好みは、天武天皇だけの十八番(おはこ)ではなく、その後も我が国には多くの新思想が、まさに「新しい」という理由だけで流入し続け、前代の思想に接ぎ木され、独自の色合いを生み、混沌とした伝統を形作ってきました。むしろ「混沌こそ本朝の旨なり」と言うべきかもしれません。
★
以下、旅の記憶のかけら。
薬師寺から唐招提寺に至る道。
創建時の姿を残す唐招提寺金堂。
輝く青もみじ。
道々拾った白鳳と天平の甍。
当時の製瓦技法に由来する紋様――凹面には布目、凸面には縄目――が浮き出ています。
当時は陶土の精練度が低かったせいか、断面に異物が顔を出しています。
中央に白く光る鉱物は、おそらく斜長石。
★
1300年の時を長いと見るか、短いと見るか。
「宇宙の年齢(130億年)の1000万分の1」と聞けば、ほんの一瞬のようでもあります。
でも、たとえばウィキペディアの「宇宙の年表」の項によれば、この1300年という時間は、私たちの宇宙が、プランク時代、大統一時代、インフレーション時代、電弱時代、クォーク時代、ハドロン時代、そしてレプトン時代を経て光子時代へと至る、長い長い歴史物語を綴るのに十分な長さだと記されています。
他方、宇宙の130億歳という年齢だって、電子や陽子が崩壊に至る永劫ともいえる年月に比べれば、ほとんどゼロに等しいぐらいです。
一瞬は永遠で、永遠は一瞬。
瓦片の断面に光る斜長石のかけらに、そんな思いを重ねてぼんやりとするのが、私にとっての「良い休日」の過ごし方です。
コメント
_ Nakamori ― 2017年05月28日 19時00分14秒
_ S.U ― 2017年05月28日 19時26分25秒
薬師寺や唐招提寺の遺物に、悠久の年月を感じるも良し、一瞬の時の流れも感じるも良しですね。日本人の何でも外国のものがよく見えるハイカラ好み、外圧利用というのも現在とほとんど変わらないのかもしれません。また、宇宙の最初の1300年間と、最近の1300年間が同じ長さの時間というのはどういうことなのかと考えてみるのは、宇宙の謎とその人間の関わりの意味を解く鍵になりそうに思いました。
私も比較的最近になって、初めて薬師寺と唐招提寺を訪問しました。私は特に学校の国語で習った薬師寺東塔が見たかったのですが、そのときは、その水煙が下ろされていて間近で見られてラッキーでした。
私も比較的最近になって、初めて薬師寺と唐招提寺を訪問しました。私は特に学校の国語で習った薬師寺東塔が見たかったのですが、そのときは、その水煙が下ろされていて間近で見られてラッキーでした。
_ 玉青 ― 2017年05月30日 22時17分36秒
○Nakamoriさま
Nakamoriさんは伊賀のご出身だったのですね。
ええ、伊賀の山並みは、本当に美しかったですよ。
季節も良く、気持ちのよい小旅行でした。
○S.Uさま
1300年の時を思うとき、奈良の都の七堂伽藍が1300年後にはどうなっているか、ちょっと気になります。まあ、私が気にしてもしょうがないのですが、さっき1300年間を一瞬に感じたばかりなのに、そのわずか1300年先のことが想像の埒外にあることに、改めて驚きます。
Nakamoriさんは伊賀のご出身だったのですね。
ええ、伊賀の山並みは、本当に美しかったですよ。
季節も良く、気持ちのよい小旅行でした。
○S.Uさま
1300年の時を思うとき、奈良の都の七堂伽藍が1300年後にはどうなっているか、ちょっと気になります。まあ、私が気にしてもしょうがないのですが、さっき1300年間を一瞬に感じたばかりなのに、そのわずか1300年先のことが想像の埒外にあることに、改めて驚きます。
_ S.U ― 2017年05月31日 07時02分57秒
>1300年先のことが想像の埒外
おおかたの物理法則は時間反転対称になっていて、過去と未来は同等なのですが、人間の知識は恐ろしいほどに著しく非対称ですね。
ただ、この問題は、人間の生理学だけですまないことがわかっていて、そもそも、現在の奈良に1300年前の遺跡はあっても1300年後の遺跡がないことは、生理学の埒外で物理学でも説明は(不可能ではありませんが)容易ではありません。
おおかたの物理法則は時間反転対称になっていて、過去と未来は同等なのですが、人間の知識は恐ろしいほどに著しく非対称ですね。
ただ、この問題は、人間の生理学だけですまないことがわかっていて、そもそも、現在の奈良に1300年前の遺跡はあっても1300年後の遺跡がないことは、生理学の埒外で物理学でも説明は(不可能ではありませんが)容易ではありません。
_ 玉青 ― 2017年05月31日 22時55分36秒
>1300年後の遺跡がない
あはは。
でも、本当に「ない」と言えるのかどうか、そこがちょっと自信が持てません。
もちろん、日常言語では「ない」と表現するのでしょうが、厳密に記述した場合はどうなるのか…というようなところから、またぼんやりが始まって、まさにぼんやりエンドレスです。
あはは。
でも、本当に「ない」と言えるのかどうか、そこがちょっと自信が持てません。
もちろん、日常言語では「ない」と表現するのでしょうが、厳密に記述した場合はどうなるのか…というようなところから、またぼんやりが始まって、まさにぼんやりエンドレスです。
_ S.U ― 2017年06月01日 07時03分23秒
>本当に「ない」と言えるのかどうか
ほぅー、玉青さんのお目には1300年後の遺跡が少しだけ見えるということでしょうか。仮にそうだとすると、無下に否定できるものではありませんね(笑)。
ここは譲れるところまで最大限譲って、「未来の遺跡は、現在において過去の遺跡とは違う形態で存在しており、かつ非日常的な手段でそれを観測できる可能性も否定されない」という表現でご同調申し上げたいと思います。ホログラフィ技術のようなもので、現在の意味の見えないパターンに未来の明瞭な立体画像が隠されているかもしれません(例の千三つ)。
ほぅー、玉青さんのお目には1300年後の遺跡が少しだけ見えるということでしょうか。仮にそうだとすると、無下に否定できるものではありませんね(笑)。
ここは譲れるところまで最大限譲って、「未来の遺跡は、現在において過去の遺跡とは違う形態で存在しており、かつ非日常的な手段でそれを観測できる可能性も否定されない」という表現でご同調申し上げたいと思います。ホログラフィ技術のようなもので、現在の意味の見えないパターンに未来の明瞭な立体画像が隠されているかもしれません(例の千三つ)。
_ 玉青 ― 2017年06月02日 21時24分33秒
>少しだけ見える
そうなんですよ、心眼に映じるといいますか。(笑)
ここでちょっと問題をコンパクトにして、「明日の自分は、今いるのか、いないのか」という問いを立てたいと思います。この問いは、一見、「『明日の自分』は明日にならないと存在しないのだから、現在において存在するはずがない」ように思えます。
これは自明のことでしょうが、ただ、ちょっと引っかかるのは、我々は、「明日の自分は、明日の世界にいる」と、現在形で表現することに何のためらいも感じないですよね。(「昨日の自分は、昨日の世界にいる」についても同様です)。
「明日の世界」や「昨日の世界」は、もちろん今ここにあるわけではありませんが、「今日の世界」とともに「同時に」――この「同時」の意味もやっかいですが――存在しており、「明日/昨日/今日の自分」についても同じことが言えるはず…というのが、私の「引っかかり」の大元で、このことは以前もS.Uさんとやりとりした記憶があります。
それと、存在をめぐる「ある/なし」の二分法。
これは完全に二値デジタルの世界で、原理的にはあらゆるものが、「ある/なし」のどちらかに落とし込めるはずだ…という世界観もあるのでしょうが、私は<存在>と<非在>には、(技術的な決定困難性を超えた)根本的な程度・濃淡があって、連続値をとるのではないか…という考えを好みます。(たとえば、「明日の自分」、「直径3メートルのサンクランボ」、「江戸幕府第27代将軍」は、いずれも<非在>には違いないですが、その非在の程度には差があるのではないか…といったようなことです。)
以上は例によって寝言の類ですので、お読み捨ていただければと思いますが、まあ、ないはずのものを在るかのように夢想するところが、ボンヤリ屋の最大の特徴なのでしょう。(^J^)
そうなんですよ、心眼に映じるといいますか。(笑)
ここでちょっと問題をコンパクトにして、「明日の自分は、今いるのか、いないのか」という問いを立てたいと思います。この問いは、一見、「『明日の自分』は明日にならないと存在しないのだから、現在において存在するはずがない」ように思えます。
これは自明のことでしょうが、ただ、ちょっと引っかかるのは、我々は、「明日の自分は、明日の世界にいる」と、現在形で表現することに何のためらいも感じないですよね。(「昨日の自分は、昨日の世界にいる」についても同様です)。
「明日の世界」や「昨日の世界」は、もちろん今ここにあるわけではありませんが、「今日の世界」とともに「同時に」――この「同時」の意味もやっかいですが――存在しており、「明日/昨日/今日の自分」についても同じことが言えるはず…というのが、私の「引っかかり」の大元で、このことは以前もS.Uさんとやりとりした記憶があります。
それと、存在をめぐる「ある/なし」の二分法。
これは完全に二値デジタルの世界で、原理的にはあらゆるものが、「ある/なし」のどちらかに落とし込めるはずだ…という世界観もあるのでしょうが、私は<存在>と<非在>には、(技術的な決定困難性を超えた)根本的な程度・濃淡があって、連続値をとるのではないか…という考えを好みます。(たとえば、「明日の自分」、「直径3メートルのサンクランボ」、「江戸幕府第27代将軍」は、いずれも<非在>には違いないですが、その非在の程度には差があるのではないか…といったようなことです。)
以上は例によって寝言の類ですので、お読み捨ていただければと思いますが、まあ、ないはずのものを在るかのように夢想するところが、ボンヤリ屋の最大の特徴なのでしょう。(^J^)
_ S.U ― 2017年06月03日 05時43分09秒
>寝言の類
私が居間でうとうとしていると隣の部屋で寝ている玉青さんのほうから寝言が聞こえてきました。内容は不明瞭だったり時に明瞭になったりしました。
その大意は、「今日、実在しないことであっても、昨日/明日の世界には実在しているものがある。昨日/明日の世界というのは、ある意味で今日の世界と同時に存在している。従って、昨日/明日の世界に実在しているものは、今日実在しているものと言える」というふうに聞こえました。寝言ながら、これほど説得力のある屁理屈は珍しいと思い、つい私もうとうとしながら真に受けて考えこんでしまいました(笑)。
この屁理屈は矛盾を含むので、前提の何かがくつがえされるのが筋だろう・・・ おそらくこの矛盾は、マクタガート時間論におけるA系列の矛盾と関係するものではないか・・・(Wikipedia「ジョン・マクタガート」3.4節ご参照) マクタガートはこれで時間自体を非実在としましたが、そのA系列の排他性に拘る説は今日では論理学でも物理学でも正しくないとされているので、屁理屈の矛盾で前提を崩す必要は必ずしもありません。
私は、この寝言が見かけ上の矛盾を維持したまま止揚される方向で解決する確信を感じ、あとで玉青さんに尋ねようと思って、今度は本当に眠ってしまいました。
私が居間でうとうとしていると隣の部屋で寝ている玉青さんのほうから寝言が聞こえてきました。内容は不明瞭だったり時に明瞭になったりしました。
その大意は、「今日、実在しないことであっても、昨日/明日の世界には実在しているものがある。昨日/明日の世界というのは、ある意味で今日の世界と同時に存在している。従って、昨日/明日の世界に実在しているものは、今日実在しているものと言える」というふうに聞こえました。寝言ながら、これほど説得力のある屁理屈は珍しいと思い、つい私もうとうとしながら真に受けて考えこんでしまいました(笑)。
この屁理屈は矛盾を含むので、前提の何かがくつがえされるのが筋だろう・・・ おそらくこの矛盾は、マクタガート時間論におけるA系列の矛盾と関係するものではないか・・・(Wikipedia「ジョン・マクタガート」3.4節ご参照) マクタガートはこれで時間自体を非実在としましたが、そのA系列の排他性に拘る説は今日では論理学でも物理学でも正しくないとされているので、屁理屈の矛盾で前提を崩す必要は必ずしもありません。
私は、この寝言が見かけ上の矛盾を維持したまま止揚される方向で解決する確信を感じ、あとで玉青さんに尋ねようと思って、今度は本当に眠ってしまいました。
_ 玉青 ― 2017年06月03日 17時00分18秒
あ、S.Uさんがいらっしゃるのに気づかず、眠りこけてしまい、申し訳ありませんでした。
どうも恥ずかしい寝言を聞かれてしまいましたね。
>マクタガート時間論
何か、記憶の深い闇から浮かび上がってきたものがあったので、本棚を眺めたら、私が今いる場所から、おへその位置を基準にして左前方96cmのところに、『時間のパラドックス』という中公新書が立っていました。奥付を見たら昭和55年発行となっています。たぶん高校生の頃に読んだ本でしょう。
私がマクタガートの名に接したのは、この本が最初で(ひょっとしたら最後かも)、今パラパラ見ていたら、私が時間について、さも自分の意見のように喋っていることは、大抵この本で読み齧ったことが核になっていることに気づきました。
これは、もういっぺんこの本を読み返さないといけませんね。
読めば、気分だけでも高校生の頃に戻れそうです。でも、高校生の頃のように集中が続かず、読んでいるとすぐ眠気を感じるのは、やはりマクタガートの非凡な論に反して、時間の流れは確固としてある証左なのでしょう。
どうも恥ずかしい寝言を聞かれてしまいましたね。
>マクタガート時間論
何か、記憶の深い闇から浮かび上がってきたものがあったので、本棚を眺めたら、私が今いる場所から、おへその位置を基準にして左前方96cmのところに、『時間のパラドックス』という中公新書が立っていました。奥付を見たら昭和55年発行となっています。たぶん高校生の頃に読んだ本でしょう。
私がマクタガートの名に接したのは、この本が最初で(ひょっとしたら最後かも)、今パラパラ見ていたら、私が時間について、さも自分の意見のように喋っていることは、大抵この本で読み齧ったことが核になっていることに気づきました。
これは、もういっぺんこの本を読み返さないといけませんね。
読めば、気分だけでも高校生の頃に戻れそうです。でも、高校生の頃のように集中が続かず、読んでいるとすぐ眠気を感じるのは、やはりマクタガートの非凡な論に反して、時間の流れは確固としてある証左なのでしょう。
_ S.U ― 2017年06月03日 21時29分38秒
>『時間のパラドックス』という中公新書
おぉ、これは奇遇。何を隠そう私のもともとのネタ本はこれです。中村秀吉氏の本ですよね。ふと思って私のへその右前方やや上方を探しますと、約117cmの距離にちゃんと見つかりました。昭和61年の版でした。この本は私の長年の愛読書の一つです。
私は、玉青さんと違って、物理の宗門にどっぷり入ってから量子力学と統計力学の時間の扱いについて学びたくてこの本を買いました。書かれているのは異宗門の教義だったのですが、別の前提でそれなりに論理的に組み立てられているのでとても勉強になりました。それ以来、A、B、C系列の話は時々引用させてもらっています。
齢を取ると眠れなくなって睡眠導入剤に頼る中高年齢者が多いと言われる昨今、すでにその手の効能を持つ書籍を若いうちから大量に蓄積しているということは、有り難いというか我ながら先見の明があったと思います。
おぉ、これは奇遇。何を隠そう私のもともとのネタ本はこれです。中村秀吉氏の本ですよね。ふと思って私のへその右前方やや上方を探しますと、約117cmの距離にちゃんと見つかりました。昭和61年の版でした。この本は私の長年の愛読書の一つです。
私は、玉青さんと違って、物理の宗門にどっぷり入ってから量子力学と統計力学の時間の扱いについて学びたくてこの本を買いました。書かれているのは異宗門の教義だったのですが、別の前提でそれなりに論理的に組み立てられているのでとても勉強になりました。それ以来、A、B、C系列の話は時々引用させてもらっています。
齢を取ると眠れなくなって睡眠導入剤に頼る中高年齢者が多いと言われる昨今、すでにその手の効能を持つ書籍を若いうちから大量に蓄積しているということは、有り難いというか我ながら先見の明があったと思います。
_ 玉青 ― 2017年06月04日 10時14分19秒
やや、奇遇奇遇。
これは話がきれいにまとまりましたね。
さてもS.U和尚こそ是八宗兼学の叡僧ならんか。
私もぜひその膝下で門前の小僧を務めさせていただきたく存じます。
これは話がきれいにまとまりましたね。
さてもS.U和尚こそ是八宗兼学の叡僧ならんか。
私もぜひその膝下で門前の小僧を務めさせていただきたく存じます。
_ S.U ― 2017年06月04日 15時23分24秒
はい、高僧よりも小僧のほうが勉強熱心でものごとをよく知っていたりする場合もしばしばなので、修行を怠らぬようにしたいと思います。
それから、私はタルホ宗門徒でもあるのですが、教祖に「地上とは思い出ならずや」というお言葉があります。宇宙にはすべての時間が同時に存在していて、地球ではその一部の時代の録画がアーカイブから借りてこられて上映されているという意味と思いますが、これにも影響されました。また今後出てくると思います。
それから、私はタルホ宗門徒でもあるのですが、教祖に「地上とは思い出ならずや」というお言葉があります。宇宙にはすべての時間が同時に存在していて、地球ではその一部の時代の録画がアーカイブから借りてこられて上映されているという意味と思いますが、これにも影響されました。また今後出てくると思います。
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伊賀は私の郷里。青々とした山並みの風景を思い出しました。
ありがとうございます!