思い内にあれば色外に現る2018年05月13日 08時02分30秒

▼閑語(ブログ内ブログ)

いまいましい事柄を、可憐なペーター坊やの話とごっちゃに語るのは気が進まないので、今日は別立てにします。

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毎日新聞の一面コラム、朝日新聞なら「天声人語」に当たるのが、「余録」欄です。

加計問題をめぐって参考人招致された、柳瀬元首相秘書官の答弁について、5月11日の余録欄が、「人を小ばかにしたような記憶のつじつまあわせはほどほどにした方がいい。」と断じましたが、「人を小ばかにしたような」というのは、まさに今の時代を覆う「厭な感じ」の核心を突いた表現だと感じ入りました。

政府関係者の国会答弁や、記者会見での発言を思い起こすと、「人を小ばかにしたような」態度が、どれほどあふれかえっていたことでしょう。

ウィットにとんだシニシズムは、私は別に嫌いじゃありません。むしろ積極的に面白がる方です。でも、あんなふうに人を馬鹿にすること自体を目的にしたような、知性や品性のかけらもない物言いには、「馬鹿に馬鹿にされるいわれはない」と、腹の底から怒りを覚えます。小ばかにされて喜ぶ人はいませんから、おそらく多くの人も同じ気分でいるんじゃないでしょうか。

「誠実さ」は、別に高邁な理想でもなんでもなくて、世間一般では今もふつうに尊重されているし、それを旨とする人も多いのですから、それを政治家や官僚に求め難いとしたら、それは永田町や霞が関の方がおかしいのです。「小ばか政治」はいい加減やめて、早くまともな会話のできる政治と行政を回復してほしいと、心底願います。

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…というようなことを書くと、「天文古玩も、畑違いの政治のことなんてほっときゃいいのに」と思われる方もいるでしょうね。

しかし、『ペーター坊や月への旅』の英訳本の裏表紙を見たら、挿絵を描いたハンス・バルシェック(Hans Baluschek、1870-1935)について、こんなふうに紹介されていました。

「画家・グラフィックアーティスト。マックス・リーバーマンやケーテ・コルヴィッツとともに、ベルリン分離派運動〔旧来の伝統美術からの脱却を唱えた芸術革新運動〕の一員。名声のある画家であると同時に、社会主義者として、多くのポスターや絵葉書のデザインも手掛けた。ナチスによって『退廃芸術家』の烙印を押され、1935年に没した。」

戦後になって、共産党政権下の東ドイツでは大いに英雄視され、盛んに作品展が行われたとも聞きます。まあ、芸術家の政治利用という点では、これはナチスの振る舞いとネガとポジの関係にあるもので、泉下のバルシェックがそれを喜んだかどうかは疑問です。


いずれにしても、『ペーター坊や』の世界と、現実世界とは、やっぱりどこかでつながっていて、両者を切り離すことはできません。僭越ながら「天文古玩」もまた同じです。

コメント

_ S.U ― 2018年05月13日 20時16分08秒

もう何度も同じことをコメントさせていただいているような気がしますが、大事なことは何度書いてもよいと言っていただいているので、アホみたいにまた書きます、

 政治は、まじめに仕事や生活をしている国民を支えることが第一の目的のものでしょうから、そういう人たちに、まじめに自分の仕事の説明する必要があります。人を小馬鹿にしながら、政治家が務まるとは思えません。まじめにものが言えない政治家は、その職業に向いていないと言わざるを得ません。昔は口ベタで偏屈者でも通った職人や医者や研究者ですら、今は懇切な説明ができないといけなくなったようですが、昨今の政治家は逆の方向で、いったいどうしたことでしょう。

 もちろん、世の中まじめ一本槍では肩がこり身も持ちませんので、私なども人から指摘されるまでもなく自ら気を抜いておりますが、国民注視の公の場で気が抜けるのは大した逸材か単なる馬鹿のどちらかで、自分を逸材と思うなら政治家や公務員以外の職業にもっと適した場があるのではないかと思います。

_ 玉青 ― 2018年05月15日 06時47分37秒

ご賛同いただき、ありがとうございます。
「閑語」の方は、いわば常識的なつぶやきでしょうから、さらに深掘りはしませんが、記事を書きながら、私の頭の中では絶えず懐かしい曲が鳴り続けていたことを告白します(曲中、女の人が「キャー」というところが、私の心情を代弁しています)。

https://www.youtube.com/watch?v=0U6b_gTIJ1Q
(バリー・マニロウ「コパカバーナ」)

_ S.U ― 2018年05月15日 21時18分50秒

>「コパカバーナ」
 私の知らない曲でよくわかりませんが、「小馬鹿話し」ということでしょうか(すみません)。

 時代劇を見るまでもなく、人を小馬鹿にするのは昔から小物役人(肩書きに関係なく)の典型で、昔はそれでもお上の威光で理不尽ながらも幅が利いたものですが、今では民のほうが開明したので、小馬鹿にしているほうが自ら馬鹿を曝しているような具合になり、単にひんしゅくを買うだけになりました。

 また、賢い公務員は例の「理屈と膏薬はどこにでも」式にどんな無理にも理屈をつけて、さすがは高学歴のお役人と言い負かされた市民が感動したものですが、今では単に誠意と仕事をする気がないと見なされるだけでしょう。世の中進歩して良いこともあったと思います。

_ 玉青 ― 2018年05月16日 20時50分01秒

ときに、「小馬鹿」に対して「小利口」という言葉がありますね。「大賢は愚なるが如し」という言葉もふと思い出します。そして、『空手バカ一代』の主題歌は、「醜い利口になるよりは、綺麗な馬鹿で生きてやる」と高らかに歌い上げていました。さらに、親父の小言曰く「人には馬鹿にされていろ」というのもありました。

…というふうに考えると、私は馬鹿にされて無暗と腹を立てていましたが、どうも人生の先達に言わせると、利口よりも馬鹿の方が偉いんだ…という意見が多いようです。お釈迦さまの弟子でも、「智慧第一」と持ち上げられた「しゃりほつ」よりも、掃除洗濯以外何もできなかったけれど、それによって悟りを得た「すりはんどく」の方が、いっそう尊敬に値すると感じます。

人を小馬鹿にする政治家・役人は、結句自らの愚をさらしているわけですが、彼らはどうしたら賢の道に戻れるのでしょう。やっぱり縁なき衆生は度し難いのでしょうか。

怒るばっかりでは能がないので、利口と馬鹿について思いを巡らせてみました。

(以上、まったくの独り言なので、どうか無視してください)

_ S.U ― 2018年05月17日 07時19分52秒

深入りすることもないと思いますが、この手の議論は好きな上に、思考の減退という話もありましたので、ちょっと触れさせていただきます。

 「馬鹿のほうが偉い」というのはある意味真実だと思います。以前、野田首相が大臣任命の時だったかに「無知の知」の意味を取り違えてこれまた馬鹿にされましたが、ある意味では彼の意図していることは正しいと思います。そもそもソクラテス学派の本来の意味「自分が無知であることを知っているのは偉い」というのはその通りでソクラテスにケチをつけることはありませんが、現代人は自分の知識の限界を仕事中にもネット検索中でも常に認識させられており、これはとりたてて言うほどのことはない自明の衆知になったと言えるのではないでしょうか。

 私の取り上げたいのは、F・ベーコンの言う「劇場のイドラ」、三浦梅園の言う「学習の弊」というやつです。三浦梅園の『玄語』「例旨」の冒頭付近にある一節「学習之蔽。殆擲薬石。」によると、「馬鹿につける薬はない」ではなく「学識を積んだ人につける薬はない」と言っています。なまじ学問を積むとそれに束縛されてかえって見識が狭くなるということなのでしょうか。そういうことはありそうなことで、技術や細目の研究の分野では学識が必須ですが、立法や人倫が絡む分野では「学識経験者」でない人もいれたほうがよろしいのでしょう。リーダー格の政治家はどちらがいいか、微妙なところですが、この点に限って言えば、確かに学習の弊よりは馬鹿のほうがましかもしれません。

 「馬鹿は死ななきゃ治らない」とも言いますが、「学習の弊」も死ななきゃ治らないか、というと、幸いにして薬石に頼らずとも老人の認知症というものがありますので、死ななくても治るかもしれません。今後、そういう方向の活用があるかもしれません。しかし、政治家を認知症の人にやっていただくのは、性格上のこともありさぞ迷惑なことだろうと思います。(とんでもない誤解のないよう申し上げておきますが、最近の某副首相のことを言っているわけではありません)

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