再び理科室の歴史について(4) ― 2006年10月04日 21時07分17秒
(小野田伊久馬著 『六箇年小学校理科教材解説』 明治40年より。愛らしい鯨の挿絵。ステッキをついたおじさんも可愛い。)
さて、さらに続きです(出典は昨日に同じ)。
■大 正■
「理科教室の設置が飛躍的に増加したのは第1次世界大戦後である。政府は敗れたとはいえ、ドイツの科学力に驚嘆し、近代兵器の出現に目をみはり、理科教育の重要性をあらためて認識して、大正7年には中学校、師範学校に生徒実験設備補助費として20万円を出し、大正8年には理科を小学校4年から課して時間数を増やした。」
第1次世界大戦(1914~1918;大正3~7年)後の、大正デモクラシー華やかなりし時代が、理科室の「発展充実期」にあたります。日清、日露の両戦役につづき、ここでも理科教育充実の背後に不気味な戦争の影を見ることができます。
「各府県でも理科教授の振興と設備の充実を促して訓令を発している。熊本県の訓令(大正10年4月)によると『理科教育ノ振興ハ我国戦後教育ノ一大要目…』であり、したがって『特別理科教室ノ設置ハ教育上最モ大切ナレハ町村経済ノ許ス限リ成ルヘク急二設置ノ方針ヲトルコト』と督励をしている。この結果、発明発見の思想は一般に流布し、理科教育熱は非常なもので、理科講習会はしばしば開かれ、簡易理科器械が先生の手によって盛んに作られている。」
一般的な理科重視の風潮と、こうした官による督励とがあいまって、大正時代には理科室の設置が急激に増加しました。
【前掲書・表3.2】 山口県小学校理科設備普及の状況
(学校総数397校に対する比)(大正11年4月末)
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実験用具4人1組宛以上備え付けたる学校数 111 28.0%
教授上大体不都合なき程度に器械標本等を 202 50.9%
備付せりと認むる学校
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上の表は、大正11年における山口県下の調査結果です。授業をするのに、ほとんど不都合のない程度に備品を備えた学校が半数に上る一方、児童実験用具を4人1組以上備え付けている学校は28%にとどまり、その差が目立ちます。
ここで後者(28%)は、理科室設置校と重なるように読めるのですが、青木氏の原著はこの前後の文意が曖昧です(一応、ブログ主は左のように解釈しました)。ともあれ、このデータから青木氏は、
「これは教室を設置するには水・電気などの設備が必要で単なる普通教室の転用では機能を果さず、これを設備するとすれば多額の出費を要することから、経済的余力がなかったと解され、市町村財政の貧富がそのまま教育の格差として現われている。したがって理科教室を設置した学校では、多額の出費をあえてした学校であり、またその設置目的が児童の実験・観察を行なうことにあったから、その建築的設備は現在の理科室と大差ないほどの充実したものであった。」
…と結論付けています。理科室の普及過程は一様に進んだわけではなく、学校間格差が大きかったことが分かります。一口に「大正時代の小学校」と言っても、実態は千差万別だったのです。
(この記事続く)
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