コメント

_ S.U ― 2013年08月16日 10時08分15秒

>極東の島国には少年技師がいかにも少ない
 昔のことはいざ知らず、本来の意味での「少年技師」はここ何十年かでも少なくなってしまったように思います。最近は、単純な器械や器具の組み合わせでの実験に目を輝かせて追究するような少年少女はごく一部(の天性のある人)になったのではないでしょうか。

 思うに、かつては、大人になってどんな仕事に就くにしてもある程度の基礎的技術は身につけておかないといけないということが潜在裏に頭にあって、理科好きの人はそれぞれ工作などに(無理にでも)興味を持ったものだと思いますが、昨今は理科好きと工作好きは分化してしまったように思えます。

 不器用なのは天性で仕方がなく、そんな不器用な人でも(自分のことですが)手を動かしてみるとそれなりの発見があるもので、これはちょっと厳しい傾向であると感じています。

_ 玉青 ― 2013年08月16日 21時42分33秒

>昨今は理科好きと工作好きは分化

あ、なるほど。たしかにそんな気がしますね。
ところで、現代における工作少年たちは、どんな分野で活躍してるんでしょう。ロボコンとかですかね。あるいは、モノを離れてプログラミングとかに行ってしまってるんでしょうか。

_ S.U ― 2013年08月17日 07時42分14秒

>現代における工作少年たち~ロボコンとかですかね。あるいは、モノを離れてプログラミング

 これは興味深い問題ですね。私どもが「科学教室」でやっているのは「誰にでも失敗なしにできる工作」ですから「工作少年」の参考にはなりません。推測するしかないです。

 従来の通説では、ハード屋(ハードウェア技師)とソフト屋(ソフトウェア技師)は別種の人種で、いわゆるデジタル制御に携わる人はハードに触るにしてもソフト屋の側に属する人だと言われています。工作少年は定義からしてハード屋でしょうから、デジタルではなくアナログを手がけなければならないことになります。
 
 もっとも、この分類は現在は機能していないかもしれません。また、ロボコンは力学や精密なセンサーを要しますからアナログの要素も大きいと言えます。いっぽう、ハード屋であった多くの人が時代の要請でソフト屋に転向を強いられたことも事実です。融合なのか移行なのかは判然としませんので、これについては保留にします。

 ここでは、工作少年というからには昔どおりのアナログに限定するのが無難でしょう。だとすると現在でも生きている分野は、飛行機のフライトモデルとか身近なアイデア・発明などが挙げられるところでしょうか。フィギュアやジオラマの製作も健在でしょう。

 いっぽうで、アナログ電気回路(アナログアンプやラジオのような)を作ったり部品の設計図面を引くような若者は、大幅に減少したように思います。

_ 玉青 ― 2013年08月17日 17時08分30秒

理科少年は理学畑を、工作少年は工学畑を歩む…と単純に割り切れればいいのですが、理学畑にも理論系と実験系の人がいて、工学畑にもソフト系とハード系の人がいて、またそれぞれに交錯する領域がいろいろあって…となると、だんだん話がややこしいことになってきますね。また、少年たちの心にも、成長とともに、いろいろ複雑なひだが生じてくるので、いっそうスッキリいかない部分が出てきて当然ですが、ともあれ好奇心旺盛な、「工(たくみ)」の心を持った少年たちが、のびのび活躍できる場がこれからもあってほしいですし、またそうでなければ、「ホモ・ファーベル(工作人)」としての人類の沽券にかかわるのではないでしょうか(と、ちょっと大きく出てみました・笑)。

_ S.U ― 2013年08月17日 19時28分33秒

はい。いろんな流儀があっても、みんな科学や工作が好きな思いは同じ。少年少女の皆さんには、好きなことをのびのびとやってほしいですね。

 昨今の困難な情勢から日本の技術立国はどうなるんだ、と心配な気持ちになっていたのですが、玉青さんが全人類を相手に大きく出られたので、今回はその懸念については書かないことにします。

_ ZAM20 ― 2013年08月18日 10時01分15秒

記事を紹介して頂き有難うございます。
理科系と工学系が子供のころから分離した存在なのかは分かりませんが、朝永振一郎のエッセイの中にも、子供と工作をする話なんぞもあるので、オーバーラップするところも大きいのではないかと思います。
プログラミングに熱中する子供達も確かに存在するとは思いますが、割合から言うとかつての工作や実験をする子供よりは少ないような気がしています。というのは、小物工作で、それなりに楽しめる物が出来るスキルに比べると、プログラミングで、それなりの物が出来るようになるまでの最初のハードルはかなり高く、そこを乗り越えるのは決して容易な事ではないからです。ラジオなどのアナログ回路にしても、ゲルマニウムラジオなら小学校でハンダごてを握れれば作れ、それで音が聞こえるわけですが、プログラミングには、それに相当するような最初の一歩に当たる物が存在する気がしません。
かつての工作少年達は、うまく出来たもの以上に失敗を積み重ねていて、失敗を通してや、それをリカバーする過程で色々なノウハウを身につけていたと思います。だいぶ前に、高校の先生と話した時に「失敗をさせたいのだけれど、その余裕がない」ということを嘆かれていましたが、今の世の中、便利さに囲まれて子供達が自らノウハウを蓄積する機会が非常に貴重なものになっている気がしています。

_ 玉青 ― 2013年08月18日 19時36分32秒

〇S.Uさま

日本の現状と課題も、大きいと云えばずいぶん大きい話題ですが、それについてはいずれまた。心地よくのびのびしたところで、まずは語り納めとしましょう。
…と思いましたが、ZAM20さんからのコメントもありましたし、また思われる所がありましたら、どうぞコメントをお願いします。

〇ZAM20さま

いつも楽しませていただいています。今回はちゃっかり記事を引用させていただき、恐縮です(笑)。

今回の件は、我ながら印象でものを語ってしまい、実状が分かっていない気がしたので、改めて「小学生 電子工作」その他、あれこれのキーワードで検索して、最近の工作事情を眺めてみました。

すると、案に相違して、あちこちで親子教室が開かれたり、いろいろ入門キットが売られていたり、なかなか活況を呈しているように見えました。ゲルマラジオとか、お風呂満水ブザーとか、オーソドックスな品も健闘していて、はんだ付けのコツなどもしっかり教えてくれるようです。ネットのおかげで、昔より情報も得られやすくなったし、結構なことだと思いました。

しかし、それでも何となく閉塞感が漂うのはなぜだろう?と考えました。
本来、子どもはエネルギーの塊で、ほっといても子供たち自身が動いて、大人の目をかすめて知識や技術を我が物とするぐらいの勢いがほしいのですが、お仕着せの企画を見ていると、どうも弱々しい苗木を枯らさぬよう、水やりや肥料に周囲が細心の注意を払っているような印象を受けてしまいます。

まあ、これは子ども自身の罪ではなくて、子どもの数が減っていることが根本原因としてあるのでしょう。社会の先細り感をどうにかしようと、大人の側も必死ですから、「失敗をさせたいのだけれど、その余裕がない」という先生の嘆きは、世間一般に共通するものという気がします。

(すみません、コメントのご趣旨とずれてしまったかもしれません。)

_ S.U ― 2013年08月19日 06時30分43秒

>ほっといても子供たち自身が動いて
 まったく同感です。そして、かつて自力で電気回路を組み立てていたような子ども達(と同じような意欲を持っている今の子ども達)は、ソフトウェアに移っていると言って間違いないと思います。でも、かつての電気工作熱中組と今のソフトウェア熱中組を絶対人数で比べるとぐっと減っているでしょうね。

 ご引用のZAM20様のページを拝見しました。ご指摘になっている「『子供の目がきらきらする』だけの科学教室」の限界については、私も感じるところがあります。たぶん、玉青さんのこのご指摘とも重なるものだと思います。こういう科学教室は、友だちや家族みんなで科学に親しむという意味はありますが、自力で切り開いていく、失敗を体験するくということには助けになっているかどうか疑問で、ひょっとしたら手助けのし過ぎで追究の腰を折ってしまってマイナスになっている可能性すらあると思います。そのリスクのぶんだけ、科学が好きな高校生、大学生で自力で追究し失敗できるだけの時間を与えてあげてほしいと思います。これが高校の先生だけではどうにもならないのであれば、もっと広い社会の単位で考えなければならないことだと思います。

 話を発散させてしまいすみませんでした。話を収束させるには、社会全般に広げて科学の普及の影響を論じたいと思いますが、これはまた次の機会にさせてください。

_ 玉青 ― 2013年08月19日 21時14分33秒

なかなか根の深い問題ですね。
そも教育とは何ぞやという、あまりにも本質的な問題もありますし、教育に伴うリスクを社会と個人がどう引き受けるべきか、「リスクゼロ」を目指すことで派生するリスク等、いろいろ考えるべき点は多そうです。
ぜひ渦中の子供や若者自身にも参加してもらって、大いに論じたいものですが、とりあえず他日を期しましょう。

_ S.U ― 2013年08月20日 06時29分23秒

>そも教育とは何ぞや
 確かに、ことばの定義やめざすところの違いの問題もありますね。
 私たちが語っているのは、(学問として系統立った)「教育」とはちょっと違う、(そこへの道を示してゆく)「普及」なのではないかと思います。
 両者の違いがどれほどあるのかは自明ではないでしょうから、他日を期すことにしましょう。

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