樹の話2014年12月13日 15時27分02秒

風邪もどうやら終息に向かいつつあります。
世間では明日の選挙で、与党が圧勝するという予測が報じられていますね。あの人に白紙委任状を渡すことに、何のためらいもないのでしょうか。我が同胞の何と勇猛なることか!…と、別にそんな嫌味な言い方をしなくてもいいですが、でも、大いに心配しています。

   ★

現実の政治は奇々怪々ですが、最近の出来事で強く感じたことがあります。
それは、「嫌中」を以て自ら任じ、「中国は怖い」というイメージを常日頃振りまいている人たちが、なぜ香港の騒動を声高に指弾しなかったのかということです。本当にご都合主義的だなあと思いますし、そういう人が本当は何を志向しているのか、明瞭に示す出来事だったと思います。「語るに落ちる」ならぬ「語らずに落ちる」とはこのことです。

   ★

(ビジュアル博物館「樹木」、同朋舎)

さて、今日は木の話。
木には、種類に応じて「樹形」というのがありますね。ポプラならスラッとノッポで、松なら枝ぶりよくくねっているとか。
もちろん同じ種類でも個体差がありますし、そもそもあまり特徴のない、「普通の木」としかいいようのない木もありますが、それでもよく見ると、そこには自ずと特徴があるものです。


たとえば、上はさまざまな木の姿を描いた、メキシコの複十字シール(1994年発行)。
これを見ていると、樹形の妙をつくづく感じます。

(複十字シールは結核予防の啓発アイテム。この品は美しい銀鼠色の光沢紙に刷られています。)

木自身には自分の姿が見えないなのに、こういう風に自ずと形を成すというのは、考えてみると不思議なことです。


■ブルーノ・ムナーリ(作)、須賀敦子(訳)
 木をかこう
 至光社、2007

この本は、そんな樹形の秘密に迫る1冊。
と言っても、ここには植物学の記述は一切ありません。これは木の絵を描くための本です。



無限にバリエーションがあると思える木の形も、実は驚くほど単純な原理からできており、その原理さえ心得ておけば、どんな木でも自由に描ける…イタリアの造形作家ムナーリは、そう教えてくれます。
おそらく生物としての木の成長プログラムにも、そうした原理が埋め込まれているのでしょう。美術家の観察と直感が、木の秘密に迫った好著です。

   ★

樹木はあらゆるシンボルの中で、最も強力なものの一つと言われます。
一本の木は生命を象徴し、ときには宇宙そのものが宿っているとも観念されました。

ユダヤ人強制収容所での自らの体験を描いた、フランクル『夜と霧
学生の時読んで、その内容の大半は記憶から消えてしまいましたが、今でも鮮明に覚えているのは、極限状態に置かれた収容者が、構内の一本の木と「対話」する場面です。改めて探したら、そのエピソードは邦訳の171頁に載っていました。

「この樹とよくお話しますの。」と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女の言葉の意味が判らなかった。彼女は譫妄状態で幻覚を起しているのだろうか?不思議に思って私は彼女に訊いた。「樹はあなたに何か返事をしましたか?―しましたって!―では何て樹は言ったのですか?」彼女は答えた。「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる―私は―ここに―いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ…。」

この一節を読んだときの言葉にならない思い。それこそシンボルが有する力なのでしょう。こうして書きながら、今でも身震いがするほどです。


コメント

_ S.U ― 2014年12月13日 20時02分57秒

外国について激しく非難する、というのは、結局は、自国内での矛盾の捌け口を外国に求めている場合が大半のように思います。中国での反日デモと似たり寄ったりではないでしょうか。また、その逆もあって、国内で「日本の誇りを守れ、自主憲法を!」と声高に言う人が、日米安保条約の地位協定、貿易の不平等性には何も言わないという現象があります。国内のことと外国のことを首尾一貫して扱うことは難しいようです。

 さて、樹の件ですが、樹の枝振りと葉っぱの付き方は、常に完璧な図形をなしているように見えますね。あれは、数学的に特徴ある(エントロピーの小さい)配置になっているためでしょうか。それとも、人間の自然に対する本能的な美的感覚で心理的にそのように感じるだけのことなのでしょうか。日本画を描いていた私の友人がかつて「植物の葉っぱの付き方の造形は完璧である」と言ったのを聞いて以来ずっと気になっています。

_ 玉青 ― 2014年12月14日 20時01分47秒

>国内のことと外国のことを首尾一貫して扱うことは難しい

まったくですねえ。
そもそも為政者側からすると「タメにする」議論なので、いきおいダブルスタンダードは避けがたいところです。

>樹の枝振りと葉っぱの付き方は、常に完璧な図形をなしている

1つ思ったのは、そもそも「完璧」という概念が、自然の造形をもとに生み出された可能性です。であってみれば、自然が常に完璧であるのは、ある意味当然ですが、まあ、この辺は鶏と卵のようなところもありそうですね。

_ S.U ― 2014年12月15日 20時51分31秒

自然が「完璧」の基準を作ってくれているというのは、画期的というかある意味で「完璧」な仮説ですね。
 だとすると、人間が不完全なのはまだまだ進化の歴史上の修行が足らないということなんでしょうね。不完全なのも持ち味というのは、努力賞というか伸びしろということなのでしょうか。

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