本を読む2014年12月14日 20時02分12秒

嵐の前の静けさ。
選挙の結果と国の行く末も気になりますが、今日はのんびり思うところを書きます。
(特に理科趣味とは関係ありません。)

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少しずつ年の瀬モードに入ってきて、大掃除の序盤戦のようなことを始めています。

まあ、掃除のしようもない状態であることは、これまで述べてきたとおりですが、それでも、日ごろ覗かない本棚の隅に堆積した埃を掃除機で吸い取ったり、あるいは昔のビニールカバーの本だと、ビニールが変質して、埃がべたっとくっついてしまっているのもあるので、それをゴシゴシ拭き取ったり、そんなことをして一日過ごしていました。

すると、当然ですが、本がハラリと開きます。表紙は日に焼けているのに、中は妙に真新しい本が。

そのチラッと見える字面が面白そうで、読んでみたいなあとそそられます。
もちろん、かつての自分が面白そうだと思い、いつか読もうと買った本ですから、自分にとって面白そうであるのは当然です。でも、その「いつか」が来ぬまま、20年以上経ってしまった本もたくさんあります。

その間に、世の中の様子もずいぶん変わりました。
社会が読書を尊ばなくなると同時に、読書を暗黙のうちに強制する圧力もなくなりました。それによって、「本を読む人間は偉い」とする風潮は改まり、「読まない人間はダメだ」とする空気も消えました。様々な情報へのオープン・アクセスビリティの高まりは、単に知識量のみを誇ることの意味を無化し、ただの「記憶の樽」を生み出すような読書を是とすることもなくなったのだと思います。

ある意味、今は読書に自由が訪れたのでしょう。
現代においては、読みたい人は、読みたいように、読みたいだけ読んでいい。読まなくても咎められることはない。有形・無形の強制なしに、本当に面白いと思う人が、あるいはそこに意味を感じる人だけが、話題性や社会の目なんかを気にすることなしに、思うざま読書できる世の中になったわけです。

私も老い支度として、そんな純粋な読書の愉悦を、そろそろ味わおうかと思ったのでした。

   ★

よお、何だか乙に独りごちてるね。

ああ、キミか。キミはいつも突然来るね。

うん、そこを通りかかったら、何やらブツブツ言うのが聞こえたもんだから、お前さんもついに来たかと思って、心配になった。

そりゃ申し訳ない。どうもこのごろ、独り言を云う癖がついてね。齢のせいかな。

まあ、それはお互い様だけど、何やら読書の純粋な楽しみがどうこう言ってたね。

うん。かくかくしかじかの所懐をブログに書き付けてた。

ふーん、何だかやけに物わかりがいいな。でも、お前さん、本気でそう思ってるのかい?昔は「メディアリテラシーは、多読・精読によってのみ作られる」というのが持論だったじゃないか。

ああ、確かにそうだね。

おいおい、しっかりしてくれよ。だいぶ記憶の樽の底に穴が開いちまったようだな。
そもそも、お前さんの議論には、一つ抜け落ちている点があるよ。

え、何だろう?

価値を相対化するのが好きな連中は、スマホでゲームするのも、まともな本を読むのも、人の営みとして優劣はないと言うけどさ、まあ優劣はおいといて、功利としてはどうなんだい?人生が無限だったら、それこそ何をしてもいいよ。だけど、哀しいかな、現実はそうじゃない。必然的に時間資源の戦略的配分が必要になるわけさ。

おや、キミらしくない話しぶりだね。やけに話が俗っぽいじゃないか。

この辺は、変に物わかりのいいふりをしないほうがいいのさ。だって、切実だもの。
本は強制されて読むもんじゃない。別に本なんぞ読まなくてもいい。そりゃそうさ。でもね、「本を読まない大学生ほど騙しやすいものはない」と考える悪い連中は、世の中に山ほどいるからね。俺だって、ふとそんな気がすることがないでもない。

えっ、穏やかでないね。そんなもんかなあ…。

お前さんは知るまいが、今の世の中はそうなのさ。「知は力なり」という言葉は永遠の真理だけど、今ほどそれがリアリティを帯びた時代はなかろうさ。お前さんだって、自分では大丈夫と思ってるかもしれないけど、俺から見るとだいぶ危ういぜ。

ああ、せっかくのんびり読書を楽しもうと思ったのに、何だかキナ臭い話になってきたね。

まあ、「読書の愉悦」は20年後にとっておくことだね。その頃には読書が「特殊技能」になって、再び尊ばれているかもしれない。

うーん…あんまり嬉しくはないねえ。
でも、とりえずキミの忠言、ありがたく聞いておくよ。