今日も歴史を生きる2018年03月11日 14時21分25秒

記事の更新が滞っていますが、諸事情ご賢察いただければと思います。

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今日は「閑語」の拡大版です。

「本来、報道人というのは、同僚を出し抜くこと、他社を出し抜くこと、世間を唸らせることに大いに生きがいを感じる、ケレン味の強い人たちのはずですから、これほどまでに無音状態が続いているのは、それ自体不思議なことです。そこには「寿司接待」とか「忖度」の一語で片づけられない、何か後ろ暗いことがあるんじゃないか…と、私なんかはすぐに勘ぐってしまいます。

〔…〕それでも、ジャーナリストを以て自ら任じる人には、ここらで勇壮な鬨(とき)の声を挙げてほしい。別に高邁な理想で動く必要はありません。ケレンでも十分です。

とにかく唄を忘れて後の山〔←「裏の畑」を訂正〕に棄てられる前に、美しく歌うカナリアを、鋭く高鳴きする百舌を、深い闇夜を払う「常世の長鳴鳥」を思い出して、ぜひ一声上げてほしいと思います。」

…と書いたのが2月17日のことでした。
そして、財務省による文書改ざんという一大スクープを朝日新聞がものにしたのが3月2日。まさにジャーナリストの本懐といったところでしょう。この10日間は、政権にとって最も長い10日間だったはずです。

その後の急展開には驚くばかりです。
世界も日本も絶えず動いていますね。その揺れ動く世界の中で、人々の生きざまや身の処し方を観察していると、自ずと自分のことも省みられて、いろいろな思いが去来します。そして、その中で確かに自分は生きていることを実感します。

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この時季、この状況を前に、ふと口をついて出て来るのは有名な杜甫の詩句です。

  国破れて山河在り
  城春にして草木深し…

唐の年号でいう至徳2年(757)、佞人・安禄山の乱で首都が制圧され、杜甫も賊徒に囚われの身のまま、長安で二度目の春を迎えた折の感慨を詠んだものです。
「破れて」は“敗れて”にあらずして、「すっかり破壊されて」の意。「城」は日本の“お城”ではなく「都城」、即ち首都・長安のことだと、漢文の時間に習いました。

今の場合、安倍という人物が安禄山に相当し、賊徒に恨みを飲んだ杜甫の言葉は、私自身の思いと重なります。そして現代日本の賊徒の首魁は、手負いとなりながら、いまだ抵抗を続ける構えを見せており、まさに「烽火三月に連なる」状況です。

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歴史上の安禄山は、一時「皇帝」を名乗って、空しい権勢を誇りましたが、やがてかつての寵臣に謀られて、悲惨な最期を遂げました。

早春の芽吹きや花々を前に、そんな故事を思い起こして、真の春の訪れを待つばかりです。



コメント

_ S.U ― 2018年03月11日 19時54分10秒

トカゲのシッポ切りが今回も使えるかどうか。トカゲはこれで、何千万年か生き延びてきたのかもしれませんが、あほらしいほど手筋がミエミエになりました。

 そもそも、優秀な公務員というのは、言い逃れができないような危ない橋は渡らないものですよね。今回、公務員の処分が優先されたら、消去法により、本当の指揮者は私人か公人かよくわからないけど公務員に指揮する「あの人」に決まったようなもんなのですけど、詰めろがかかってから逃げる手があるのか。総裁選もあるし、ここは、王手返しか本コウで粘るような熱戦を期待したいです。何と言っても、国権の最高機関、国民に投票所に足を運んでらって選ばれた国会議員のメンツをかけた勝負として、とことん頑張ってほしいです。最高裁の判決を見るに司法などあてになりません。何と言っても国会です。

_ KIRICKLAND ― 2018年03月13日 13時56分16秒

私の師、画家・中村宏から70年代に聞いた言葉は(ひっくり返して)
山河破れて国在り
でした。唐突に思い出しました。

_ Nakamori ― 2018年03月14日 12時07分55秒

理屈が通じない、という状況が続いて久しいですが、状況が変われば(立場が変われば)理屈を押しつけてくる方々であることが、誠に腹立たしい。嗚呼、腹立たしい。

_ 玉青 ― 2018年03月17日 17時05分54秒

コメントへのお返事が遅れ、申し訳ありません。

○S.Uさま

この時期に、心静かに憲法前文を読み返したのですが、

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」

とうたっているくだりなど、本当に何度繰り返しても繰り返し足りません。
この宣言を心にとどめて、引き続き国会での論戦を見守りたいです。

○KIRICKLANDさま

おお、中村宏氏の!
70年代というと、ちょうど氏が足穂に絡まれたり煙に巻かれたりした頃ですね。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/07/31/
そんな時期に、氏が漏らされた「山河破れて国在り」の一句。あの頃は公害問題で、それこそ山河が破れ放題だったことと関連するのでしょうか?そして、山河が破れた末に顔を覗かせる国とはいったい…?
氏の真意は分からぬながら、何となく「身捨つるほどの祖国はありや」的な感慨を持たれたのかなあ…とも想像します。フクシマもそうですけれど、山河を破ってまで守る価値のある国なんてない!という、強い反語的表現だとすれば、それは私の思いとも共通するものです。

○Nakamoriさま

ええ、まことに腹立たしい限りです。
最近の日本人は怒りを悪い感情と捉えているのか、ちょっとおとなしすぎます。このあたりで大いに怒りを表出したほうがいいと思います。これは私憤でも私怨でもなく、義憤というやつですね。

_ S.U ― 2018年03月19日 19時18分55秒

>憲法前文を読み返し
 日本国憲法前文の言わんとするところは明瞭ですね。政治家が、国民の厳粛な信託に基づいて活動しているのか、国会議員も国民一人一人もよくよく見つめなければなりません。教育勅語の徳目が悪いとは思いませんが、議会制民主主義の憲法はその実現過程を包含しているところこそが重要です。

 もっとも、現在の政府首脳などは論外で、国民を欺き国を私し亡国への道を歩ましむるのは、日本国憲法にも「皇祖皇宗ノ遺󠄁訓」にも反することは明白と申さざるをえません。

_ 玉青 ― 2018年03月20日 22時54分30秒

まったく無道も無道、いっそ外道な感じですね。

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