戦前の少年向け天体望遠鏡事情(2)2010年01月19日 22時09分30秒


この話題は、たぶんものすごくお詳しい方もいると思います。
ですから、私が半可通を決め込んでもしょうがないのですが、天文趣味史の肝の部分であることは間違いないので、主として(正・続)『日本アマチュア天文史』(恒星社厚生閣)の記述によって、ごく簡単にアマチュア用天体望遠鏡史をおさらいしておきます。(参照したのは、主に正編の森久保茂氏「総説」(pp.1-33)と、続編の冨田弘一郎氏「望遠鏡と観測機械」(pp.273-313)です。)

森久保によれば、「明治大正の頃はアマチュア向けの望遠鏡は国内ではほとんど生産されず、輸入品で高価であったため普及しなかった」(上掲書10ページ)ということですから、今日的な意味でアマチュア向けの望遠鏡市場が成立したのは、昭和初年以降でしょう。

日本光学が大正6年(1917)に設立され、そこから五藤光学が派生したのが、まさに大正15年、すなわち昭和元年(1926)のことでした。
「最初は1吋(2.5cm)口径の屈折経緯台式望遠鏡で、その年の秋頃科学画報社(誠文堂新光社代理部)から売出され、「科学画報」誌上に広告された。翌年頃からは、毎月100台以上が全国の小学校などに購入された」(森久保、上掲書11ページ)とあって、昭和以降の普及はかなり急だったようです。

また冨田によれば、「〔五藤光学の〕ベストセラーのウラノス58mm屈経は、対物レンズは富岡光学、接眼鏡は東洋光学が下請けで、定価190円であった。誠文堂新光社代理部(現科学教材社)は、外観が同じものを75円で発売し、中村の50、75mmや、上野珓吉が研磨した15cm反射鏡を石原製作所の一本支柱の経緯台に載せて供給し、望遠鏡の普及に貢献した。定価は50mm22円、75mm40円、15cmが200円であった」(冨田、上掲書291ページ)とあります。

なるほど、昨日書いた75円の高級機というのは、これだったわけですね。そして、昨日の広告には、たしかに下の方にチラッと「反射望遠鏡二吋より六吋迄」と書かれています。

上の写真は昨日の広告の裏面です。当時の天文少年御用達のシリウス型望遠鏡が写っています。そして、注目すべきはその下の広告。冨田のいう50mm22円也の反射望遠鏡はこれです。昨日のレートで言えば、今の価格で6~7万円相当と、結構な額です。

「故中村要氏御設計」というのが泣かせますね。鏡面研磨の天才・中村要が、目の病気を悲観して自ら命を絶ったのは一昨年、昭和7年(1932)のことでした。それにしても、口径50ミリの反射望遠鏡というのはどんなものでしょうか。まあ性能はともかく、この小反射望遠鏡、シルエットが実に愛らしく、手に入るものなら欲しい気がします。

日本のアマチュア用小口径望遠鏡は、中村がいなかったら、ひょっとしたら屈折一色でスタートしていたかもしれませんが、彼のおかげで意外に早く反射式の市販品が流通していたことが分かります。

そして、少しでも大きい口径を求める心理は昔も変わらず、まず反射望遠鏡からスタートしたファンもいました。

(この項つづく)

コメント

_ ガラクマ ― 2010年01月22日 02時53分56秒

21日のコメントには迷惑書き込みがありましたので、19日にコメントさせていただきます。

誠文堂新光社(科学画報)代理部の1インチ、2インチ、森久保氏の望遠鏡については、以下ご参考下さい。

http://yumarin7.sakura.ne.jp/GOTO/Goto1inch.html
(あとで気がついたのですが、対物と接眼部が逆になっておりました。写真は間違っており、修整しておりません)

http://yumarin7.sakura.ne.jp/telbbsp/joyfulyy.cgi?getno=4237#getno4237

_ 玉青 ― 2010年01月23日 07時07分06秒

うひ~、とか言ってしまいますが、
この記事で思い浮かべたのは当然ガラクマさんのことでしたので、
コメントをいただき嬉しく思います。

リンク先の画像も堪能しました。
まだまだこういう物が世間には残っているんですねえ。

かつての持ち主は、望遠鏡が届いた日、きっと木箱を抱いて寝たんじゃないかとか、
当時のことをいろいろ想像すると、それだけで胸がいっぱいになります。
もっとも、物置の奥から発見した遺族の方にとっては、単なるガ○クタ扱いかもしれず、
それだけに、こういう貴重な品を次代に引き継ぐ古スコマニアの責務は重大ですね!

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