鹿児島天文館を訪ねる ― 2012年08月28日 20時06分07秒
アポロ11号のアームストロング船長の訃報、ニホンカワウソが絶滅危惧種からついに絶滅種になった話、理科実験の話の続き(まだ続きます)、いろいろ書きたいことは多いですが、とりあえず忘れないうちに旅のメモ。
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所用を兼ね、鹿児島まで行ってきました。
鹿児島で前から気になっていたのが「天文館」。
ヤフオクで天文関連の古物を探すと、天文館の古絵葉書が必ず大量に表示されるので、こりゃ一体なんじゃろうか…と思っていました。
もちろんご存じの方も多いでしょうが、天文館というのは、「天文館通り」を中心に広がる、鹿児島随一の繁華街の名称で、地方都市の商店街の苦境が続く中、今なお非常なにぎわいを見せています。
(写真を撮り忘れたので、ウィキペディアからの借用画像。立派なアーケードは、雨と並んで桜島の降灰対策も意図しているらしい。)
で、ここが一見天文とは関係なさそうで、やっぱり深い関係があるのは、「天文館」という名称が、江戸時代ここにあった天文観測施設(通称「天文館」)に由来するからです。

(商店街の一角に立つ「天文館跡」の碑)
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薩摩藩が設置したその施設、正式名称を「明時館」といいます。
設立は江戸中期の安永8年(1779)。
江戸後期の天文学をリードした面々の年頃を挙げれば、この年、麻田剛立は45歳、間重富は23歳の青年で、高橋至時にいたっては前髪が取れたばかりの15歳の若侍に過ぎず、重富・至時はいずれも剛立への入門前です。したがって、これはかなり古い時代のことに属します。
明時館を設立したのは、島津家25代当主にして第8代藩主の島津重豪(しげひで)。彼は若年より蘭学趣味、いわゆる「蘭癖」があり、晩年にはシーボルトと面会して親しく言葉を交わしたほどの学者大名です。その重豪から明時館の初代館長に任命されたのは、暦学者の水間良実(みずまよしざね)で、水間家は幕末まで3代にわたって館長職を世襲しました。

(天文館通りに立つ島津重豪(左)と水間良実(右)の像。「天文館跡」の碑のすぐそばにあります。)
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もっとも、明時館は島津重豪ひとりの思いつきで出来たわけではなく、薩摩の歴史や国柄も大いに関わっていました。渡辺敏夫氏の『近世日本天文学史(下)』には、明時館について詳しい記述があるので(pp.494-6)、以下それに拠って概略を述べてみます。
「薩摩の国は 島津の始祖忠久の時代〔=鎌倉時代;引用者〕から暦を編纂していた。〔…〕このように、薩摩島津藩は早くから造暦のことに意を用い、改暦ある毎に人を派して、京都、或は江戸に於て新暦法を学ばせて、帰国後、自藩だけに使用の暦を造らせていた。これは、薩摩は中央から遠く離れた本邦僻陬の地で、中央から来る暦が間に合わないので、貞享改暦以後 暦本は統一されたにもかかわらず、薩摩藩だけは特に領内に限って、自国で編纂の暦〔いわゆる薩摩暦;引用者〕が使用されたからである。そのため、薩摩藩では暦本編纂の天文台が他藩に先がけて創設されたのである。」 (渡辺、p.494)
つまり明時館は、薩摩という遠国にもかかわらずできたのではなく、遠国だからこそできた施設だったわけです。
(鶴丸城のお濠)
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さて、その明時館の実際ですが、渡辺氏の前掲書には、明時館ができたときに藩儒・山本正誼が記した「明時館記」という一文が引用されています。
それによれば、明時館は城府の東南に470歩の土地(約1550平方メートル)を造成して、その中に高さ1丈3尺(約4m)、広さは下方が4間(約7.2m)四方、上方が2間四方(=8畳間サイズ)の台形をした観測用露台を築き、測器類も一通り備えた天文台であったといいます。(正体不明のものもありますが、測器類としては、簡天儀、測午表、子午針、望遠鏡、渾天儀、枢星鏡、正方案の名称が挙がっています。)
(明時館の観測台を彷彿とさせる『寛政暦書』所載の江戸浅草天文台の景。測量台の上に簡天儀、象限儀を収めた建物が見える。 出典:中村士著、『江戸の天文学者星空を翔ける』)
さらに、渡辺氏は太田南畝(蜀山人)の『一話一言』から以下の一文を引いています。
「(前略)なかんづく薩州の学館は広大にして 美麗なる事天下第一なり。(中略)又別に医学館天文館の二つあり、(中略)又天文館には館の中央に切石にて数丈の高さに築き下たる露台あり。其上に広大なる星測の器を傭へり、天文生毎夜此上にのぼりて星を測る、其傍に日輪を窺ふの台あり、其中に星天鏡の大なるをしかけ、ゾンカラスを当て毎日日中に日輪を量る、館中には天文生数人算法を以て日輪の度数、毎夜の星の転移を推歩するに、台上にては毎日毎夜実物を窺ひはかりて、推度と実測と合ふや違ふやをためす也。又暦をつくり国中に行はる、京都の暦を用ひず、彼国の暦は書物の如くとぢて明白にして甚見安し。七曜暦もつくれり、二暦とも毎年行はる、天文のくはしき事は他国になき所也。」
江戸っ子で幕臣の南畝が、こう舌を巻くくらいですから、薩摩の天文学は当時世によく知られていたのでしょう。
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明時館には、さらに驚かされることがあります。
以下のページには、やや時代を下った天保年間(1830-1843)の明時館の様子が図入りで解説されています。
■せんだい宇宙館「金環日食と鹿児島の歴史」(筆者は面高俊宏氏)
http://sendaiuchukan.jp/event/news/2012eclipse/omodaka/omodaka.html
「天保年間鹿児島城下絵図(部分)」はこちら
当時の広さは632坪(約2088平方メートル)で、半世紀余りの間に若干規模拡大したようです。敷地内には、10棟内外の建物が並んでいますが、上記の観測用露台は見当たりません。その代わりに、かまぼこ型をした不思議な形の建物が見えます。
面高氏の文章を引用させていただきます。
「天保年間鹿児島城下絵図によると、数棟の建物と観測用と思われるドーム状(アーチ屋根)の建物があり、傍らに高い旗を立て、子午線を通過する時刻を測り、季節の移り変わりを調べた。ドーム状の建物は革新的で、現在の国立天文台の自動光電子午環棟の建物に類似している。昨年、明時館跡地にある「うなぎの末よし」店内に設置した復元模型は、私が構造を推測した。」
氏はこれを「ドーム状」と見て、やや大胆とも思える復元案を提示されています。
氏の復元過程は文中で詳述されていないので、その当否については何とも言えませんが、もし事実この復元案の通りだとしたら、(回転式ドームではないにせよ)日本で最初のドーム型観測施設ではないかと思います。
(左:旧東京天文台ゴーチェ子午環棟(自動光電子子午環棟はこれを大型化したような姿)、右:明時館の観測棟…出典は上記ページ)
またこれが半球ドームではなしに、子午線観測用に、スリット状の開口部を設けた、かまぼこ型ルーフだったとしても、完全に時代を先取りした、大胆きわまりない建築です。その発想が一体どこから来たのか?そもそも曲面ルーフを採用するだけの大型機材が明時館にはあったのか?大いに気になるところですが、その辺はもう少しじっくり調べてみたいです。
コメント
_ S.U ― 2012年08月29日 07時28分07秒
_ 玉青 ― 2012年08月29日 21時00分55秒
船長もカワウソも、今は人々の心の中だけに生きる存在となりました。
…と、きれいにまとめたいのですが、どうもカワウソのほうは、それだけでは済まない傷ましさがありますね。と同時に、ヒトに対する不気味な警鐘も聞こえてきます。
>幕府が暦の制定権を薩摩藩に許した経緯は知りませんが破格のことだと思います
同感です。事実上の連邦国家だった幕藩体制にあって、暦の制作こそは「国家の大権」の象徴として、幕府が力を注いだものですから、それを「遠国」だからといって薩摩に許したのは、破格の殊遇です(単に遠いだけなら、肥後や津軽にだって許してもいいはずです)。もちろん薩摩の側も、その重みは十分自覚した上で、交渉を進めたのでしょう。
>楽しみに読ませていただきたいと思います。
とはいえ、天文館の話題はこれで終わりですので、その辺のドラマチックなストーリーについては、私自身完全に他力本願です。誰か「天地明察」のように、歴史小説に書いてくれんですかねぇ。(枝葉末節にこだわるわりに、今ひとつ踏み込みが足りないのが、天文古玩の天文古玩たるゆえんかも…;)
…と、きれいにまとめたいのですが、どうもカワウソのほうは、それだけでは済まない傷ましさがありますね。と同時に、ヒトに対する不気味な警鐘も聞こえてきます。
>幕府が暦の制定権を薩摩藩に許した経緯は知りませんが破格のことだと思います
同感です。事実上の連邦国家だった幕藩体制にあって、暦の制作こそは「国家の大権」の象徴として、幕府が力を注いだものですから、それを「遠国」だからといって薩摩に許したのは、破格の殊遇です(単に遠いだけなら、肥後や津軽にだって許してもいいはずです)。もちろん薩摩の側も、その重みは十分自覚した上で、交渉を進めたのでしょう。
>楽しみに読ませていただきたいと思います。
とはいえ、天文館の話題はこれで終わりですので、その辺のドラマチックなストーリーについては、私自身完全に他力本願です。誰か「天地明察」のように、歴史小説に書いてくれんですかねぇ。(枝葉末節にこだわるわりに、今ひとつ踏み込みが足りないのが、天文古玩の天文古玩たるゆえんかも…;)
_ S.U ― 2012年08月30日 08時04分17秒
>破格の殊遇
中国との交流における便宜とからめて何らかの主張をしたということもありうるのでしょうか。どうせ幕府との交渉ではいろいろ嘘ばかりの理由を並べていたに違いありませんので推測は難しいです。
>天文館の話題はこれで終わり
そうかもしれませんが、それでも大丈夫です。また、似たような件からそのへんに話題を回帰させていただくことは十分に期待できますので、その時に楽しみに読ませていただきたいと思います。
中国との交流における便宜とからめて何らかの主張をしたということもありうるのでしょうか。どうせ幕府との交渉ではいろいろ嘘ばかりの理由を並べていたに違いありませんので推測は難しいです。
>天文館の話題はこれで終わり
そうかもしれませんが、それでも大丈夫です。また、似たような件からそのへんに話題を回帰させていただくことは十分に期待できますので、その時に楽しみに読ませていただきたいと思います。
_ 玉青 ― 2012年09月01日 12時07分47秒
唐鎌祐祥氏の『天文館の歴史―終戦までの歩み』(春苑堂出版)が届きました。
残念ながら、ドーム型建築の詳細は追加情報なしです。したがって新たな記事を起すには至りませんでしたが、唐鎌氏の本に教えられたことを、以下摘録しておきます。
同書によれば、「薩摩暦が許されたのは、薩摩が中央に遠く離れて、暦本を遠く容易に入手できないという特殊事情によるとされているが、琉球貿易の問題と関連して特例が認められたともいわれる」とあります。その「琉球貿易との関連」の中身は不明ですが、相当高度な政治的配慮が働いていたことは間違いないでしょう。同書によれば、薩摩は暦だけでなく、秤や枡も独自のものを使用していたそうで、これまた破格のことと思います。薩摩暦については、例の大阪懐徳堂の中井竹山が、「一将軍の治下に暦本二つあるべき筈なし」と批判していたそうで、当時の人にとっても、まったく異例のことと感じられたのでしょう。
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その他、明時館関連の「トリビア」を箇条書きしておきます(いずれもソースは『天文館の歴史』)。
○明時館暦官の水間・磯永・石塚の各氏は、明時館構内に居住し、事務を執っていた。
○安政2年(1855)、薩摩藩は明時館に蘭学講会所(洋学講習所)を設置。このとき館内に暦者の役宅を新築し、従来の役宅は「明時館役所」として、蘭学講会のときはここで用務に当たった。
○水間家2代目の喜藤太(良純)は、明治以降、土御門家の暦役所幹事として出仕し、以後、新政府の天文暦道局御用掛→星学局御用掛に任じれらた。
○現存する最も新しい薩摩暦は、水間家3代目の良包が作暦した明治2年のもので、これが最後のものと思われる。
○明時館廃止の時期は不明だが、版籍奉還のあった明治2年9月に、藩の演武館等が廃止されており、明時館もおそらく同時に廃止されたと考えられる。
○それまでの測量機の一部は、現在、尚古集成館に保存されている。
○明時館の建物は、明治24年頃まで残っていたようだが、この年、跡地に旅館や劇場・寄席ができ、明治36年の大火で焼けるまで、この寄席は「天文館定席」として人気を博した。
○旧称「中福良通り」が「天文館通り」と呼ばれるようになったのは、明治30年代に入ってからのことであり、したがって、この通称は江戸時代の天文館(明時館)に直接由来するのではなく、上記の寄席の名前から派生したものと考えられる。
○明治24年、明時館跡に旅館を開業したのは石塚政次郎という人物である。しかし、かつて明時館内に居住していた暦官・石塚氏との関係は不明。
○大正6年、かつて明時館の庭に立っていた、山本正誼撰文の「明時館記」を刻んだ石碑が、新屋敷町の民家で発見された。碑が同所に移された経緯は不明。石碑は2つに折れており、1つは厠の据え石に使われていた。また同邸内には、明時館の露台に使われた石らしいものも横たわっていた。この碑は同年、鹿児島市に寄贈されたが、その後所在不明となり、現在も行方不明とのこと。
+
江戸幕府の天文台も、その廃絶の様は茫洋としていますが、「勝者」の薩摩でも、事情は大同小異だったようです。勝者・敗者を問わず、明治維新とは、旧い文物が弊履のごとく打ち捨てられていくプロセスに他ならなかったのでしょう。
残念ながら、ドーム型建築の詳細は追加情報なしです。したがって新たな記事を起すには至りませんでしたが、唐鎌氏の本に教えられたことを、以下摘録しておきます。
同書によれば、「薩摩暦が許されたのは、薩摩が中央に遠く離れて、暦本を遠く容易に入手できないという特殊事情によるとされているが、琉球貿易の問題と関連して特例が認められたともいわれる」とあります。その「琉球貿易との関連」の中身は不明ですが、相当高度な政治的配慮が働いていたことは間違いないでしょう。同書によれば、薩摩は暦だけでなく、秤や枡も独自のものを使用していたそうで、これまた破格のことと思います。薩摩暦については、例の大阪懐徳堂の中井竹山が、「一将軍の治下に暦本二つあるべき筈なし」と批判していたそうで、当時の人にとっても、まったく異例のことと感じられたのでしょう。
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その他、明時館関連の「トリビア」を箇条書きしておきます(いずれもソースは『天文館の歴史』)。
○明時館暦官の水間・磯永・石塚の各氏は、明時館構内に居住し、事務を執っていた。
○安政2年(1855)、薩摩藩は明時館に蘭学講会所(洋学講習所)を設置。このとき館内に暦者の役宅を新築し、従来の役宅は「明時館役所」として、蘭学講会のときはここで用務に当たった。
○水間家2代目の喜藤太(良純)は、明治以降、土御門家の暦役所幹事として出仕し、以後、新政府の天文暦道局御用掛→星学局御用掛に任じれらた。
○現存する最も新しい薩摩暦は、水間家3代目の良包が作暦した明治2年のもので、これが最後のものと思われる。
○明時館廃止の時期は不明だが、版籍奉還のあった明治2年9月に、藩の演武館等が廃止されており、明時館もおそらく同時に廃止されたと考えられる。
○それまでの測量機の一部は、現在、尚古集成館に保存されている。
○明時館の建物は、明治24年頃まで残っていたようだが、この年、跡地に旅館や劇場・寄席ができ、明治36年の大火で焼けるまで、この寄席は「天文館定席」として人気を博した。
○旧称「中福良通り」が「天文館通り」と呼ばれるようになったのは、明治30年代に入ってからのことであり、したがって、この通称は江戸時代の天文館(明時館)に直接由来するのではなく、上記の寄席の名前から派生したものと考えられる。
○明治24年、明時館跡に旅館を開業したのは石塚政次郎という人物である。しかし、かつて明時館内に居住していた暦官・石塚氏との関係は不明。
○大正6年、かつて明時館の庭に立っていた、山本正誼撰文の「明時館記」を刻んだ石碑が、新屋敷町の民家で発見された。碑が同所に移された経緯は不明。石碑は2つに折れており、1つは厠の据え石に使われていた。また同邸内には、明時館の露台に使われた石らしいものも横たわっていた。この碑は同年、鹿児島市に寄贈されたが、その後所在不明となり、現在も行方不明とのこと。
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江戸幕府の天文台も、その廃絶の様は茫洋としていますが、「勝者」の薩摩でも、事情は大同小異だったようです。勝者・敗者を問わず、明治維新とは、旧い文物が弊履のごとく打ち捨てられていくプロセスに他ならなかったのでしょう。
_ S.U ― 2012年09月01日 16時37分54秒
これは、天文館に関する知識をありがとうございます。
薩摩藩の天文学は、幕府に近い形式を取り、また京都とも正式の「技術交流」があったのですね。遠隔地であることをいいことにコソコソやっていたものと思いきや、公認で堂々とやっていた印象でちょっと驚きました。
また、破格の琉球支配とも何らかの関係があったようですね。当時の琉球は、中国(清)と薩摩の二重支配になっていて、中国に対しては薩摩に支配されていることを隠して朝貢ということになっていましたが、実は薩摩も中国も知っていて貿易を続けるためになんだかんだと形式を取り繕い、薩摩も中国貿易にかこつけて鎖国を建て前とする幕府に対してありもしない不都合を訴え、暦法も条件闘争の一つのネタだったのかもしれません。
現代も過去も、隣国との関係においては、面子やら利益やら、国内向け国外向けないまぜで、筋論ではとうてい納得のいかない処理がなされるのが常態なのかもしれません。
薩摩藩の天文学は、幕府に近い形式を取り、また京都とも正式の「技術交流」があったのですね。遠隔地であることをいいことにコソコソやっていたものと思いきや、公認で堂々とやっていた印象でちょっと驚きました。
また、破格の琉球支配とも何らかの関係があったようですね。当時の琉球は、中国(清)と薩摩の二重支配になっていて、中国に対しては薩摩に支配されていることを隠して朝貢ということになっていましたが、実は薩摩も中国も知っていて貿易を続けるためになんだかんだと形式を取り繕い、薩摩も中国貿易にかこつけて鎖国を建て前とする幕府に対してありもしない不都合を訴え、暦法も条件闘争の一つのネタだったのかもしれません。
現代も過去も、隣国との関係においては、面子やら利益やら、国内向け国外向けないまぜで、筋論ではとうてい納得のいかない処理がなされるのが常態なのかもしれません。
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ニホンカワウソも、子どもの頃すでに「幻の動物」としてかなり人気がありましたが、「当事者」はどこかにクールに生きていることを期待していました。(船長とカワウソをいっしょくたにした評ですみません)
さて、鹿児島ですが、「天文館」と「薩摩暦」はつながっているのですね。幕府が暦の制定権を薩摩藩に許した経緯は知りませんが破格のことだと思います(琉球支配も破格ですが)。 薩摩の天文家はどのような気概を持って中央と対峙し観測をしたのか、楽しみに読ませていただきたいと思います。