標本余話 ― 2010年07月19日 08時39分26秒
先日、透明標本の記事ではだいぶ煮詰まった感がありますが、あの後で1つ気付いたことがあります。博物趣味全盛の18~19世紀のヨーロッパにおける人々の意識の在りようについてです。彼らは、生物の遺骸を並べたてることに何の矛盾も感じなかったのか?といえば、まさにその通りで、なんとなれば、それは「神の御業(みわざ)を称える立派な行為」に他ならず、良心の呵責の起こりようがなかったからです。
精神分析学や深層心理学において、昔から日本人は超自我(良心)の形成が弱いという論を耳にしますが、それは「絶対神」という核がないだけのことで、実は我々は「瀰漫的にあらゆるものに良心の呵責を感じている」のかもしれません。ですから、「西洋人(←妙に時代がかった言い方ですね)は、神以外のものをおそれない、謙譲と畏怖の念に乏しい人たちだ」と切り返しても、たぶんよかったのでしょう。
(例によって話半分に聞いてください。別に世界は西洋と日本だけで出来ているわけではないし、西洋と日本の内実も多様なので、こういうスパッと割り切った議論は、必ずほころびが出るものです。)
そういえば、先月、日本の昆虫文化に取材したアメリカ映画の話題にも触れました。
アメリカと日本では、虫好きの比率が全然違うこともさることながら、上のことを踏まえ、「アメリカ人は、虫を恐れることはあっても、畏(おそ)れることはない」というテーゼを提出したいと思います。(つまり、アメリカ人にとって、虫は恐怖の対象とはなっても、畏怖・畏敬の対象とはならないということです。)
精神分析学や深層心理学において、昔から日本人は超自我(良心)の形成が弱いという論を耳にしますが、それは「絶対神」という核がないだけのことで、実は我々は「瀰漫的にあらゆるものに良心の呵責を感じている」のかもしれません。ですから、「西洋人(←妙に時代がかった言い方ですね)は、神以外のものをおそれない、謙譲と畏怖の念に乏しい人たちだ」と切り返しても、たぶんよかったのでしょう。
(例によって話半分に聞いてください。別に世界は西洋と日本だけで出来ているわけではないし、西洋と日本の内実も多様なので、こういうスパッと割り切った議論は、必ずほころびが出るものです。)
そういえば、先月、日本の昆虫文化に取材したアメリカ映画の話題にも触れました。
アメリカと日本では、虫好きの比率が全然違うこともさることながら、上のことを踏まえ、「アメリカ人は、虫を恐れることはあっても、畏(おそ)れることはない」というテーゼを提出したいと思います。(つまり、アメリカ人にとって、虫は恐怖の対象とはなっても、畏怖・畏敬の対象とはならないということです。)
コメント
_ to 高橋健次さま(玉青) ― 2010年07月29日 19時02分29秒
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
ご依頼の件は、先ほどお電話した通りですので、お気軽にご利用ください。なお頂戴したコメントは、個人情報保護のため非公開とさせていただきました。どうぞご了承ください。