苔の人生2014年06月15日 11時40分34秒

さらにコケの話。
手元にこういうコケの標本があります。


Funariaceae は「ヒョウタンゴケ科」の意。
同科に属するコケの一種(種名不明)を透明なアクリルに封入した標本で、サイズは8.5×5.5cm、ちょうど石鹸ぐらいの大きさです。


左から原糸体、配偶体、造卵・造精器を含むロゼット、蘚類の外観。
詳細は以下のページを見ていただくとして、要は胞子から育ったコケの子供が大人になり、受精作用によって次代を担う胞子を育むまでを表現しています。

コケの一生 -コケの生活環-(広島大学理学部のサイトです)
 http://www.digital-museum.hiroshima-u.ac.jp/~museum/pages/kokelifecycle.html


側面から見ると、アクリルが2層になっており、初層に標本を固着した後、次層を流し込んだことが分かります。


青く染色された点状の原糸体。肉眼やルーペではさっぱり分かりませんが、45倍まで拡大すると、埃状のモヤモヤしたものが見えてきます(焦点距離の関係で、それ以上の拡大は無理でした)。


立派に育った緑のコケ。


小さな虹。


コケのシルエットとアクリルの揺らぎ。
小さな透明ブロックに、命の連鎖が封じ込められている不思議。

   ★

…と、アクリル標本を持ち上げた後で、ちょっと一言。

最近、生物標本が「何でもアクリル」になってないでしょうか。
カエルの発生や、マウスの解剖など、以前は瓶詰標本の定番だったものが、最近みんなアクリル封入標本に置き換わっている気がします。
透明標本や骨格標本もそうですし、昆虫標本でもそういうのが売られています。

その方が保管が楽だし、生徒が手に取りやすいという理由も大きいのでしょう。
たしかにアクリルに埋め込むと、モノの生々しさが薄れて、存在が抽象化するというか、希薄化する感じがします。

でも、決して手に触れることのできないものを、果たして標本と呼んでいいのかどうか。
理科の教材として見た場合、あまりいい点数は付けられないように思います。実験・研究の材料に使えないのはもちろん、観察だってしづらいでしょう。少なくとも、生物とはそもそも生々しいものだ!…という事実を学ぶきっかけにはなりそうもありません。

(その抽象化された表情を愛でる、というなら話は別です。)

コメント

_ S.U ― 2014年06月15日 16時58分42秒

>決して手に触れることのできないものを、果たして標本と呼んでいいのかどうか

 あの生々しい液浸標本が何のためにあるかというと、取り出して研究に使うのだというのを知ってちょっと感動したことを思い出しました。伊達や酔狂に眺めるために保管しているわけではなく、将来時至らば敢然と蓋を開け内容物をむんずと取り出だし切り刻む・・・学問の厳しさを知った思いがしました。
 アクリル標本でこの厳しさを感得できないのは、無視できない欠点ではないかと思います。もちろん学校教育で保管する古い標本を実際に分析することはないでしょうが、研究の姿勢や方法を学ぶことは、標本の外観を眺めることにも増して重要なことではないかと思います。

 また、コケについては、栽培用の生きたサンプルもあって、タマゴケを研究所から無料でもらったことがあります。水をやらずに枯らせてしまいました。コケから「コケにするな」と言われてもしかたありません。

_ 玉青 ― 2014年06月16日 06時52分00秒

思わず膝をポンと打ちました。
そう、アクリル標本って結局は「観賞用」なんですよね。
いくら怜悧な顔つきをしても、学術標本の厳しさがそこにはありません。まあ、瓶の中身を片っ端からむんずと取り出だして切り刻む(笑)にも及びませんが、しかし一朝事あらば…の気概は常に欲しいところです。

(ときに協会掲示板へのご投稿ありがとうございました。珍しく会員外の方から書き込みがあって、とても嬉しかったです。)

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