天文古玩の幼年時代(2) ― 2014年12月20日 08時30分57秒
再来週の今日は、新年も三日目となり、そろそろお正月ムードにも飽きてくる頃ですから、2015年もきっとあっという間に終わってしまうのでしょう。早いものですね。
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そういえば思い出しましたが、「天文古玩」の前身は2つありました。
1つはおととい書いた「理科室倶楽部」です。
そして、もう1つが「Armchair Astronomer’s Room」というページで、コンテンツは少なかったですが、天文古書の話、昔の星座早見の話、天球儀の話…今の「天文古玩」につながる話題は、たいていそこに登場していました。ですから、後者の方が、より直接的な前身だと言えます。
そして、もう1つが「Armchair Astronomer’s Room」というページで、コンテンツは少なかったですが、天文古書の話、昔の星座早見の話、天球儀の話…今の「天文古玩」につながる話題は、たいていそこに登場していました。ですから、後者の方が、より直接的な前身だと言えます。
記録がはっきり残っていませんが、公開していたのは共に2002年頃でした。
あれから本当にいろいろあったなあ…と、しみじみ思います。
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さて、『天球図の歴史』のつづき。
この本は、星図に関するビジュアル本であり、通史です。紙質も良く、オールカラーの美しい本で、当時も今も、日本語で読める星図史の本としては、最も充実した内容の1冊だと思います。古代オリエント世界から20世紀に至るまで、記述にも遺漏がありません。
この本に関して、個人的に象徴的だと思えるのは、それを本屋さんの店頭で買ったという事実です。20世紀の末、もうネット書店はありましたが、依然として本は本屋さんで買うのが普通でした。モノも情報も、それだけノンビリ動いていたわけです。
たとえば、タイトルページを飾る18世紀のバッカー星図↑。
米国議会図書館蔵のクレジット表示が麗々しくあって、こういう品は真に貴重なのだ…と思わしむるものがあります。まあ、貴重なものにはちがいありませんが、一方で、それが普通に売り買いされているということは、当時の私には知るよしもありませんでした。
米国議会図書館蔵のクレジット表示が麗々しくあって、こういう品は真に貴重なのだ…と思わしむるものがあります。まあ、貴重なものにはちがいありませんが、一方で、それが普通に売り買いされているということは、当時の私には知るよしもありませんでした。
そして、まさに「運命のページ」と言えるのが、これです。
エドウィン・ダンキンの『The Midnight Sky』から採った図と、フィリップス社のアンティーク星座早見。もちろん、まだ「天文古玩」という概念は持っていませんでしたが、そう名状されるべき世界がこの世にはあるのだと、直覚した瞬間でした。
エドウィン・ダンキンの『The Midnight Sky』から採った図と、フィリップス社のアンティーク星座早見。もちろん、まだ「天文古玩」という概念は持っていませんでしたが、そう名状されるべき世界がこの世にはあるのだと、直覚した瞬間でした。
この夢のように美しい星景画と、「彼の作品は星図と絵画の、また幻想の境界を越えた」という巧みなキャプションには、文字通り身も心も持って行かれました。
さらに同時代のフランスで出た、これまた美しい星景画、アメデ・ギユマンの『Le Ciel』を知ったのもこの本を通じてです。
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星図の黄金時代とも言える17~18世紀の、美麗の極ともいえる豪華な彩色星図も、もちろん魅力的ですが、ダンキンやギユマンに代表される、19世紀の天文趣味の世界には、それらとはちょっと違う手触りがありました。そして自分にとっては、より懐かしい、いわゆる「魂のふるさと」的なものを、そこに感じたのです。
今にして思えば、それはジュール・ヴェルヌ的な科学世界なのでしょう。さらに、それ以前から愛読していた、たむらしげるさんのフープ博士の世界が、そこに現実にあるような気もしました。
その頃は、まだリアル天文趣味にはまっていたのですが、私の場合、天文趣味は子供の頃の思い出と固く結びついており、それ自体「懐かしい」ホビーでした。そして、その懐かしさをずうっと延長した先に、19世紀の天文趣味の世界があるんじゃないか…ということも、『天球図の歴史』を読んで感じました。
その予感は当たっていて、その方面の探求の先に、アラン・チャップマン氏の『ビクトリア時代のアマチュア天文家』との出会いもあり、そうした世界を渉猟しつつ今に至っているわけです。
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皆さんにも覚えがあるでしょう。「運命的な出会い」というのは確かにあるものです。
そのときには分からなくても、後から振り返ると「確かにあれがライフコースの分岐点だった」と思えるような出会いが。
そのときには分からなくても、後から振り返ると「確かにあれがライフコースの分岐点だった」と思えるような出会いが。
(郷愁をふりまきつつ、この項つづく)
コメント
_ S.U ― 2014年12月20日 20時03分16秒
_ 玉青 ― 2014年12月21日 15時48分52秒
>なぜその時にその本を手に取ったのかということはよくわからない
発達心理学だと、よくレディネス(準備体制)というのを問題にしますね。
早期教育の重要性をやかましく言う人もいますが、基本的にそれを受け入れるレディネスがないと、いくら周囲が熱心に教え込んでも、小さい器から水があふれるように、さっぱり入って行かない。逆にレディネスが整っていれば、スッと頭に入る。要は、発達には段階があり、それを無視して詰め込むことはできないということです。
これは子ども相手の話ですが、大人にもやっぱりレディネスはあるらしく、いわゆる機熟というやつですね。ですから、たまたま機が熟していた時に、自分の精神状態にフィットする本を手に取ると、そこに運命的な出会いを感じたりしますが、実はそれ以前にも、似たような情報には何度も接していたのに、単に記憶に残らなかっただけ…なのかもしれません。
まあ、これは後付けの説明で、証明するのは「運命」の存在を証明するのと同じぐらい難しいでしょうから、ここは素直に運命の存在を認めたほうがいいかもしれませんね。(^J^)
少なくとも、ある種の出来事に「運命」を読み込む傾性が人にはある…というのは確かなようです。
発達心理学だと、よくレディネス(準備体制)というのを問題にしますね。
早期教育の重要性をやかましく言う人もいますが、基本的にそれを受け入れるレディネスがないと、いくら周囲が熱心に教え込んでも、小さい器から水があふれるように、さっぱり入って行かない。逆にレディネスが整っていれば、スッと頭に入る。要は、発達には段階があり、それを無視して詰め込むことはできないということです。
これは子ども相手の話ですが、大人にもやっぱりレディネスはあるらしく、いわゆる機熟というやつですね。ですから、たまたま機が熟していた時に、自分の精神状態にフィットする本を手に取ると、そこに運命的な出会いを感じたりしますが、実はそれ以前にも、似たような情報には何度も接していたのに、単に記憶に残らなかっただけ…なのかもしれません。
まあ、これは後付けの説明で、証明するのは「運命」の存在を証明するのと同じぐらい難しいでしょうから、ここは素直に運命の存在を認めたほうがいいかもしれませんね。(^J^)
少なくとも、ある種の出来事に「運命」を読み込む傾性が人にはある…というのは確かなようです。
_ S.U ― 2014年12月21日 18時46分22秒
>レディネス(準備体制)
ある程度年齢が進んでから(たとえば高校生以上)出会った本については、それ以前に似たような本との出会いを何回か拒絶しつつ準備が進んでいった、という自覚症状が確かにあります。遂に機が熟したというのは事実でしょうね。でも、とてもすばらしいタイミングで最良の本に出会えたという気がするのはやはり運命なのか、ラッキーの記憶だけが残っているのか・・・ おそらく不発弾も多くばらまかれたままと思いますが、それもこれもひっくるめて運命なのでしょうか。
私は科学の早期教育には懐疑的で、レディネスができていないときにヘタに触れたがために、あとは一生涯不発になる可能性を高めることもあるのではないかと思います。科学は最初の「ふしぎ、驚き」が大事で、「なんか難しそう」とか「だいたいわかったからよしとしよう」という状況は大敵です。
ある程度年齢が進んでから(たとえば高校生以上)出会った本については、それ以前に似たような本との出会いを何回か拒絶しつつ準備が進んでいった、という自覚症状が確かにあります。遂に機が熟したというのは事実でしょうね。でも、とてもすばらしいタイミングで最良の本に出会えたという気がするのはやはり運命なのか、ラッキーの記憶だけが残っているのか・・・ おそらく不発弾も多くばらまかれたままと思いますが、それもこれもひっくるめて運命なのでしょうか。
私は科学の早期教育には懐疑的で、レディネスができていないときにヘタに触れたがために、あとは一生涯不発になる可能性を高めることもあるのではないかと思います。科学は最初の「ふしぎ、驚き」が大事で、「なんか難しそう」とか「だいたいわかったからよしとしよう」という状況は大敵です。
_ 玉青 ― 2014年12月22日 23時01分41秒
この場合、いつかドカンと破裂してほしい不発弾ですね。(^J^)
まあ、大抵は埋もれたままのことが多いですが、ときに不時の爆発がなくもないのが面白いところで、それもやっぱり機熟の作用なんでしょうか。
>科学の早期教育には懐疑的
科学に限らず、あらゆる学習がそうかもしれませんね。背伸びをしたい子には、上手に背伸びをさせてあげることも大事なのでしょうが、そうでない子の手をむりやり引っ張っても、反作用で縮こまろうとするだけで、得るところは少ないようです。何事も、相手の「機根」を察するというのが、教育の要諦かと思います。
まあ、大抵は埋もれたままのことが多いですが、ときに不時の爆発がなくもないのが面白いところで、それもやっぱり機熟の作用なんでしょうか。
>科学の早期教育には懐疑的
科学に限らず、あらゆる学習がそうかもしれませんね。背伸びをしたい子には、上手に背伸びをさせてあげることも大事なのでしょうが、そうでない子の手をむりやり引っ張っても、反作用で縮こまろうとするだけで、得るところは少ないようです。何事も、相手の「機根」を察するというのが、教育の要諦かと思います。
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人間の知識欲あるいは思考法の転機が本との出会いによってもたらされる、というのはうなずけます。私の場合もそういう本がいくつかあることは識別できますが、なぜその時にその本を手に取ったのかということはよくわからない場合が多いです。