水辺の絵日記(2)…カテゴリー縦覧:理科系古書編2015年04月27日 21時22分15秒

ネパールの大地震。
今宵は家族や友人を亡くし、あるいは亡くしつつある多くの人の慟哭を想像する晩になりました。もはや言葉はその用をなさず、ただ手を合わせる晩です。

   ★

ジャネットの日記は1月6日から始まります。

 「イーストンの小屋に入るとすぐ、裏口のドア近くに冬眠中のコヒオドシを見つけた。暖房が利き始めると、眠りを妨げて目を覚まして飛んでいってしまうかもしれないと思い、急いで床に坐って鉛筆、紙、絵具、絵筆をとり出した。床にうずくまって絵を描くのは大変だが、身動きしない蝶を描けるのはありがたい。
 水槽の中では事態が進行していた。はじめはヨコエビが増えすぎ、その体重やサイズからして水槽を占領してしまうのではないかと心配していたのだが、今は巻貝が増え、ヨコエビの数は六、七匹しか残っていない。天敵が私の心配を解決してくれた。
 二匹のトビケラの幼虫をじっと観察すると…」

彼女は家の中で、牧草地で、生垣で、川の中で生き物を観察し、採集し、絵に描きます。

毎日、多くの植物が芽吹き、花をつけ、虫が訪れ、枝の向うに鳥の姿も絶えないので、この小天地に限っても、彼女の日記が種切れになる心配はまったくありません。むしろ、無数の生を見逃し、書き漏らすことを深く憂えねばならないほどです。


2月初めの枯野も、彼女の目には美しい色と形に満ちています。


ジャネットの目はときに巨視的に、ときに微視的に、自由にズームイン、ズームアウトします。地面近くにぐっとよれば、不思議な地衣類や苔が眼前いっぱいに広がり、彼女の好奇心を刺激します。


今の時期、4月27日の日記。

 「高いポプラのそばの導水路を歩くと、低い枝々は芽を吹いているが、上の方の梢は一月の頃と変わらないように見えた。早春のひどく寒い日のあとに来る暖かな素晴らしい日。チフチャフの声と姿、キタヤナギムシクイの囀り。二、三日前にやって来たばかりに違いない。今年初めてイワツバメを見る。川の上空高く虫を捕えている。…」


川を覗き込めば、そこにもまた1つの世界が展開しています。
揺らめく水草とトビケラの幼虫。


オニグモ、オオバンの巣、鱒。
ジャネットが初めてイーストンの村に足を踏み入れたのは14歳のときで、そのときは釣り師である父親と一緒でした。本書の中にも、釣り師の姿が折々登場します。


夏、生命がひときわ乱舞する季節。


これまでのところでもお分かりのように、ジャネットは言葉のまったき意味で「ナチュラリスト」であり、単なる「花鳥画家」ではありません。その筆は小さな虫にまで及び、生物たちのライフスタイルを書き留めると同時に、その死も記録します。


巡り来る秋。そして冬。
日記はクリスマス前の12月20日で終わっています。

 「川から少し離れたところに、黄色い実をつけたセイヨウヒイラギを見つける。百年は経ったと思われる木で、一本ではなくそばに二本の若木が生えている。木にはまだたくさん実がなっているので、どうやら鳥はこの変な実は避けている。本当かどうかオウムのウイリアムで試してみるのを忘れた。クリスマスツリーにつけたヒイラギの赤実は大喜びでついばんでしまって驚いたことがある。赤と黄色の実のヒイラギの絵を描いた。
 ホワイトクリスマスになるかどうか。雪になったらこの谷間の植物や動物はどんなことになるのかしら。」

   ★

イーストン村とイッチェン川流域は、今も豊かな自然の姿を(原始の自然とは異なる、2次的な植生の上に成立したものではあるにしても)見せてくれます。

しかし、本書が出版された当時、その環境は大きく脅かされていました。M3ハイウェイの拡張計画が持ち上がっていたからです。本書出版の背景には、それにプロテストし、保存運動を進める狙いもありました。本書が見せる、イーストン村への深い愛情は、そうした危機感と表裏するものだったのです。(幸い、ジャネットをはじめとする関係者の努力が実って、M3は経路が変更となりました。イッチェン川の自然が、今も当時と変わらぬ姿を見せてくれるのは、そのおかげです。)

今年62歳になるジャネットは、現在も同じハンプシャー州内にアトリエを構え、今はファブリックや壁紙などのデザインを主な仕事にしているようです。

■Janet Marsh Designs  http://www.janetmarshdesigns.com/

美しい自然を愛する心は、些かも変わってないはずですが、彼女のナチュラリストとしての仕事は、結局この『水辺の絵日記』がほぼ唯一のものであり、今も彼女の代表作となっています。それが遠い日本で翻訳され、私を含め多くの人に愛されていることは、ある意味、若さというエネルギーが生み出した「奇蹟」であり、人が魂のふるさとを守るときに発揮する力が、いかに大きいかを物語るものだと思います。

コメント

_ S.U ― 2015年04月29日 07時07分38秒

ジャネットは、1970年代に20代でこのイングランドの野山を散策したわけですね。植物に満ちた自然が、若い観察者を老哲学者のように落ち着かせるというのはよくわかるような気がします。でも、彼女にとっては、毎日毎日出会う野山が、驚き(ヴンダー)の連続であったことでしょう。

 思うに人は、このような自然のヴンダーを、日常として継続的に経験した人、非日常として時々経験した人、それと気づかずにどっぷり浸かっていた人、また、そのナチュラリストとしての感受性の多寡も千差万別だと思うのですが、それがその人の人格形成に決定的な影響を与えるものなのか、それともまったく大したことないのか、気になるところです。

_ 玉青 ― 2015年04月29日 21時15分12秒

これは自然体験に限らず、あらゆる刺激について言えることでしょうね。
それによって決定的な影響を受ける人もいるし、大したことない人もいる…というのが実態かと。

つらつら思うに、自然と向き合い、それと親しむには、「それしか他に楽しみがない」か、「よき導き手がいる」か、いずれかの場合に限られるのかもしれません。少なくとも、「子供は無条件に自然に興味を抱くものだ」というのは、経験的に言って事実に反するようです。

今日日の子供たちは、たとえ自然の豊かな土地で暮らしていても、草笛を吹いたり、川で泳いだりなんてことはなくて、小さな画面を見てゲームに熱中しているのではないでしょうか。いや、それ以前に過疎と高齢化によって、子供文化そのものが消滅した土地も多いことでしょう。

さらに一世代が経過した21世紀半ば、いったいどんな世の中になっているのか、それは未来の世代に委ねるしかありませんが、個人的にはどうにもうすら寒い思いがします。

_ S.U ― 2015年04月30日 07時28分28秒

なるほどそういうものですか。ありがとうございます。
 自分のことを言うとなんですが、私などは「それしか他に楽しみがない」クチでした。小学校高学年以降にはいろいろと他の文明的な楽しみができましたので、野山歩きから離れていったように思います。

 それでも、このジャネットさんの植物画を見ると、当時のことが良い思い出となって思い合わされます。それしかなくて仕方なくやったことでも結構役に立つ、でも、人に依って物事に依っては逆効果の時もある、というわけで、げに教育とはままならぬものであります。

_ 玉青 ― 2015年04月30日 21時43分12秒

>なるほどそういうものですか。
…と、話を引き取っていただきましたが、まあ例によって与太話の類と思ってください。

ところで、自分のことを振り返ると、これがよく分からないですね。
それしか楽しみがなかったわけでもありませんし(むしろ自然の乏しい所でした)、良き指導者に恵まれたわけでもありません。あるタイミングで、ある出来事が偶然作用したのかもしれませんが、特に意識に上るエピソードはありません。…しばらく考えても答が出ないので、この件はペンディングにしますが、でもその偶然を喜びたいと思えることは、幸せなことだと思います。

_ 蛍以下 ― 2015年04月30日 21時44分27秒

横から失礼します。私も田舎育ちで幼少期は山川で遊ぶくらいしかなかったんですが、80年代を境にパックマンやゲームウォッチ、ファミコンといったゲームが雪崩を打って登場し、遊びが激変したことを覚えています。
とは言え、再び魚釣りに回帰したりする人もいるので個人の資質によるのでしょうね。

_ 玉青 ― 2015年05月01日 06時45分49秒

>80年代…遊びが激変

あ、分かります。
さらに遡って70年代はと言うと…

と、ここで懐旧談をひとくさりと思いましたが、考えているうちに思念がさらに遠くに飛んだので、そのことは独立した記事にしますね。

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