宝石王の小箱(後編)…カテゴリー縦覧:化石・鉱石・地質編2015年05月12日 07時01分22秒

(昨日のつづき)

モノというのは、岩波新書よりも一回り小さな木箱です。



どうと言うことのない箱ですが、そのサイズと、側面に丸みを持たせてあるところが、いかにも愛らしい感じです。(時代的には1960年代ぐらいのもののようです。)


蓋の裏には、緑と黄色のブラジリアン・カラーの帯。


そして肝心の中身は、宝石12種のサンプルです。
個々の宝石は豆まきの豆のような、文字通り「豆粒サイズ」ですが、カットした状態と、ラフな原石がペアになって、行儀よく並んでいます。


豆粒サイズとはいえ、そこは宝石王の小箱ですから、多結晶(微晶集合体)の不透明な石は単純なカボション・カットにするいっぽう、



単一結晶の透明な石には、一層の輝きを与えるべく、多面体のファセット・カットが施されています。

   ★

宝石というのは、お金の絡むことが多いので、時に俗な感じを受けます。

しかし、鉱物学者の砂川一郎博士によれば「宝石は地下からの手紙」であり、金銭的価値とは別に、それ自体興味深い対象です。この砂川博士の言葉は、「雪は天からの手紙である」という、中谷宇吉郎博士の名セリフをもじったものでしょうが、雪の結晶が、高空の気象条件を雄弁に物語るように、宝石の結晶も、地下深くの組成・温度・圧力を、我々に無言で教えてくれます。


まあ、私の食指が動いたのは、そんな結晶成長学の奥深さに打たれたからではなく、単にこの「ズラッと感(参照:http://mononoke.asablo.jp/blog/2014/11/23/7500805)に惹かれたせいですが、改めて「大地の手紙」に目をやれば、そこに見た目の美しさ以上のものを感じる…ような気もします。(単に気がするだけです。)



コメント

_ S.U ― 2015年05月12日 17時51分24秒

 これは、磨いたのと原石がセットになっているのがいいですね。これなら、足穂先生に「ハナタレ小僧の『見本』」と言われることもないでしょう。

 宝石といえば、宮沢賢治は、宝石の人造品(人造宝石ではなく模造品?)の製造商売をしようとしていたそうですね。私は、井上ひさしの『イーハトーボの劇列車』で読んで知ったのですが、Wikipediaにも出ているので正しいのではないかと思います。
 石コ賢さんがなぜ宝石の模造品を普及させることを考えたのか、自分ないし社会への何らかのアンチテーゼとして出てきたものなのでしょうか。単純にそれで大儲けしようと考えたのかもしれませんが、賢さんがそんなもので大儲けできるくらいなら、別の人がもっとうまくやってしまいそうなことは、自分でもわかりそうなものだと思います。

_ 玉青 ― 2015年05月13日 07時15分55秒

改めて年譜を見ると、賢治が宝石商を志したのは、妹の看病のため上京していた大正7年から8年にかけての挿話で、期間にすると3か月足らずのごく短いものだったようですね。

賢治にとって宝石商売は、大好きな「石」にかかわるものであり、併せて人造宝石を製造することは、当時最先端の科学的試みでもあり、そして何よりも憧れの東京に脱出するための方途であった…というのが大きかったように思えます(その頃の彼は、明らかに花巻を嫌っていました)。

賢治は父親への手紙の中で、「人造の宝石を人造の名に於いて(模造には非ず)売る」ことは「道義上決して疾しからざる」ものと書いているので、模造(=ニセモノ作り)は良くないが、人造は良いという理屈を持っていたようです。でも、別の手紙では「模造真珠等の製造」の計画にも触れているので、それもあまり純粋なものではなかったかもしれません。

この宝石商の夢が父親の反対でついえて、郷里にしぶしぶ帰った彼は、しきりに株を売買したり、浮世絵(春画)の収集に励んだりして鬱屈を晴らしましたが、この前後の彼の行動と思考は、およそ後の賢治さんのイメージとはそぐわないもので、宝石商の一件も、東京で一山当てたいという山師気分が多分に混じったものだったろうと思います。(賢治が躁鬱気質の人だったという蓋然性の高い説に従えば、たぶん躁の時期にあたっていたのでしょう。)

_ S.U ― 2015年05月13日 18時15分48秒

宮沢賢治の「宝石商売」についてどうもありがとうございました。
比較的短期間で、それも躁状態(過激状態)の時のものだったのですね。

 東京で何が何でも自活するという要求があったのかもしれません。父親も質屋・古着商だったので宝石商なら似ているから許してもらえるという望みもあったのかと思います。

 井上ひさしも『イーハトーボの劇列車』でおおむね同様の見方をしています。史実に近い蓋然性が大きいのだと思います。それに加えて、人造(または模造)宝石は、庶民や農民に今後需要が出て彼らの社会的な進出にも寄与するというような読みも見せています。一方、父親は賢治がとにかく花巻に帰って仕事をするよう手段を選ばず策を弄します。この論争もそれが完全に父の勝利に終わるのもほぼ史実の通りなのでしょう。

_ 玉青 ― 2015年05月14日 07時08分06秒

>『イーハトーボの劇列車』

いやあ、S.Uさんに刺激されて、これは読まねばという気になりました。
早速アマゾンで注文しました。

井上ひさしさんの「読み」は、お楽しみにとっておくとして、公平に見た場合、このときの賢治の計画はずいぶん危なっかしいもので、まあ足穂の古着屋と五十歩百歩でしょう。賢治さんにも言い分はありましょうが、ここは父親たるもの一言あって然るべきところ…と、父親の一人として思います。

_ S.U ― 2015年05月15日 07時42分54秒

>父親たるもの一言
うーん、それもそうですね。ところが、並の父親には、一言の手加減に規範がなく、それがわからないのが何とも辛いところです。

 井上ひさし作品のお薦めになってしまって恐縮ですが、これは一つ一つのセリフも長く賢治研究の資料にもなると思いますのでよろしくお願いします。

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