「星を売る店」の神戸(3)2015年06月13日 10時27分15秒

梅雨の中休み。心の中の景色は爽やかな夕晴れです。
以下、前回の引用箇所に続く文章。

 青々と繁ったプラタナスがフィルムの両はしの孔のようにならんでいる山本通りに差しかかると、海の方から、夕凪時にはめずらしく涼しい風が吹き上げてくる。教会の隣りのテニスコートでは、グリーンやピンクの子供らがバネ仕掛の人形のように縄飛びしている。樅の梢ごしに見える蔦をからませたヴェランダからはピアノのワルツが洩れてくる。

みずみずしい神戸の山ノ手の風景です。

(明治前半とおぼしい神戸の幻燈スライド。ガラスの向うに広がる明るい世界)

先日引用させていただいた(http://mononoke.asablo.jp/blog/2015/06/09/)、高橋孝次氏の旧居留地と足穂に関する論文には、「星を売る店」の初出形態が、断片的に引用されていますが、それによると、最初は上の描写に続いて、以下のような文章が続いていたそうです(繰り返し記号を通常の文字に改めて再引用)。

 「やはり神戸はいいなあ」と、私は打ち水をした歩道の上を、コツコツ歩きながら、あたりを見まわした。ほんとうに、こんな夕方の一ときをハバナの細巻でもくゆらして、トレアドルソングの口笛でも吹きながら散歩するのは、何とも云へぬ清新な、そしてはいからな気分がするものだ。

やはり神戸はいい、清新な、ハイカラな気分がする…とまで説明的に言ってしまうと、文章の技巧として拙いので、後で削ったのだと思いますが、これが足穂の素直な気持ちなのかもしれません。

   ★

…と言いつつも、どうでしょう、皆さんはこの書き出し部分を読んで、何か違和感を覚えないでしょうか? 私は上の箇所が、余りにも神戸のスレテオタイプな描写になっているのが気になりました。何だか芝居の書き割りめいた感じがします。

足穂はハイカラ神戸を素朴に讃美すると見せかけて、実は既に読者を術中にはめようとしているのではないか? どうもそんな気がするのです。

主人公の「私」は、この後トアロード沿いに、港の方に坂を下っていきます。
そこにも書き割り臭い「平面描写」が顔を出します。

 坂下には、自動車や電車の横がおや群衆やがごたごたもつれ合って、国々の色彩が交錯した海港のたそがれ模様が織り出されている。その上方、坂の中途から真正面の位置に、倉庫? それとも建築中のビルディングか、何やら長方形と三角形のつみ重なりが見えて、そこへ山の合間から射しているらしい夕陽が桃色に当っている。いずこも青ばんでいる景色の中で、視線正面の一廓だけがキネオラマの舞台のように浮き出し、幾何学的模様に見える形と影の向うに、赤、黄、青の船体とエントツがひっかかっている。
 
さらに、散歩の途中で出会った友人Nと食事を済ませ、再び一人で夜の街を歩き出した「私」の目には、妙にボンヤリとした光景が映ります。

 行手の遠い辻に現れてすぐどこかへ消えてしまうギラギラ眼玉の自動車や、また前後からゴーッと通りすぎて行く明々したボギー電車の中にも、非常にきれいな夢―何かそんな感じの者が乗っているようだ。二条の軌道のまんなかにつづいた鉄柱の上にある二箇の燈火が、やはり二列の光の点線を空間に引いて、向うの坂の所から鋭角をえがいて下方へ折れまがっている。いつか映画で観た表現派の街を歩いているようだ。
 私は、夢だったか、気まぐれな空想であったか、自分がちょうどそんな怪奇映画の都会にはいっていたことをよび起こした。

「キネオラマの舞台」に続いて、今度は「表現派の街」です。

ここで言う表現派の怪奇映画とは、先ほど共に食事をした友人Nが洩らした「こりゃカリガリ博士の馬車じゃねえか」というセリフから、カリガリ博士の物語だと容易に想像が付きます。夜の街を舞台に、夢と現実が溶け合い、話者の視点が複雑に入り組んだ、この狂気と幻想に彩られた映画(日本公開は大正10年=1921)は、「星を売る店」を理解する上で、重要な鍵だと思います。

さらに言えば、「軌道沿いに燈火が形作る2列の光点」は、冒頭の「プラタナスがフィルムの両はしの孔のようにならんでいる」風景と照応しており、この作品は最初から全てフィルムの中に仕組まれていたんじゃないか…という気がするのです。

そして、フィルムの登場人物めいた「私」は、周囲に漂う「いつにないふしぎさ」、「口では云えぬファンタジー」の霧の向うに、ついに「星を売る店」を見出すわけです。

(大正時代のハイカラ神戸。ブルーインクを使った繊細な石版刷りで、文字通り「いずこも青ばんでいる景色」)


(長くなったので、ここでいったん記事を割ります。)

「星を売る店」の神戸(4)2015年06月13日 10時40分58秒

(今日は2連投です。以下、前の記事の続き)

私は「星を売る店」は非常に技巧的な作品だと思います。
そこには、ストーリーと無関係なように見えて、実は全体を象徴する「或るもの」が繰り返し顔を出します。それは即ち「マジック」です。

「私」は散歩を始めるとすぐに、シガレットを使った手品のことを思い出します。

 Tという男が、いったいどこで覚えたのか、ポケットに入れた紙箱の中から寸秒のあいだにタバコを抜き取る。先日私が湊川新開地の入口でスターを二箇買って、その一つをかれに手渡した時、奴さん、もうその中の一本を口に咥えている!〔…〕先生、「奇術すなわち練習なり」とか何とか云って、再びポケットに手を入れたと思ったら、さらに一本、蠟引きの吸口をつけてまで取り出した。

「私」もそれを真似て、その後何度も練習するのですが、どうも上手くいきません。この日も散歩しながら、ポケットの中でゴソゴソやってみますが、てんでダメです。
トアロード沿いに坂を下った「私」は、さらにチャイナクォーター(南京町)の小路で、中国人の大道芸を見物します。

 …華人があぐらをかいて、色のはげた赤毛布の上に皿を三つならべていた。
「一二三!」と声をかけて、伏せてある皿をのけると、下には黒いつぶが数個ずつおいてある。「ほいッ!」とつぶをひとまとめに皿の下に入れて、他の皿も同様に左右に伏せた。一二三でまんなかの皿をのけると、そこは何にもなく、ヤッと左右の皿を取ると、つぶはちゃんと四箇ずつに分れて現れた。

その後、この中国人は小さな蛇を鼻孔から押し込んで、口から出すという芸を披露したすえに「イノチガケ、イノチガケ」とアピールして、観客からお代を求めます。
もちろん、これは命懸けなどという代物ではなく、至極他愛ない芸なのですが、そうした他愛なさは、煙草抜きにも、豆粒の移動にも共通しています。なぜ作者がそんなことに字数を費やすのか、不思議なぐらいですが、そこに足穂の冷静な計算があるのでしょう。

(すずらん灯が並木のように続く夜の元町通。昭和戦前の絵葉書。繁華なはずなのに、妙に森閑としています。)

「私」は、ここで友人のNと出会います。Nは歩きながら、盛んに話しかけます。

 このあいだ君の創作をよんだよ。―ありゃ面白い。出たらめをかいて小づかいが取れるっていうから、愉快な話さ。あれをよんで、神戸にそんな事件があったかナ、と云っていた奴がいたぜ。

この「創作」が、前年(大正11年、1922)発表した「星を造る人」を指すことは明らかでしょう。これは世界的魔術師・シクハード氏が、神戸上空に無数の星を飛ばせる畢生の魔術を披露し、神戸の街を大混乱に陥れるというファンタジーでした。

この箇所には、3人のマジシャンが登場します。
まずは「スターメーカー」の異名をとる、シクハード氏
そして、そんな「出たらめ」をパッと金銭に換える、イナガキタルホ
さらに、そうしたエピソードを織り込んで、「星を売る店」というフィクションにリアリティを与え、読者に背負い投げを喰らわせようと企む作家、稲垣足穂

自己作品への言及、繰り返し起こる視点の転換、世界の複雑な入れ子構造。
それによって、読者はすっかり足穂の術中にはまってしまいます。
歩きながら「私」が、Tの煙草抜きの件を持ち出すと、Nは一笑に付します。

 全神戸に唯一つの謎あり、それは余輩(わがはい)のタバコ抜きなり、なんてぬかしているが、あれにはしごく簡単なたねがあるんだ。本当に箱から抜くんじゃないとおれは睨んどる。べらぼう奴(め)、それにきまっているじゃねえか。〔…〕真に受ける奴の方がどうかしている。

この「T」は無論タルホ自身のことでしょう。
すなわち、作者・足穂は「星店」の世界において「私」と「T」に分離し、自らをだますと同時に、読者をもだまし、そして「真に受ける奴の方がどうかしている」と、ニヤリとして見せるわけです。何と小憎らしい男でしょうか。しかし、読者はその「イノチガケ」の口上に、喜んで投げ銭をしてしまう…。

   ★

他にも、この作品にはいろいろと仕掛けが施されている気がしますが、それはまたその都度振り返ることにします。
ちょっと作品論めいた話になったので、ここで時計の針を戻して、再び「私」とともに、往時の神戸散歩を続けます。

(この項つづく)