「星を売る店」の神戸(9)…星店へのナビゲーション(後編の上)2015年06月20日 07時23分24秒

時計を見ると、もう八時になっている。
〔…〕で、早々に立ち上がってKに失敬した。

友人Kが開店準備中のレコード屋で、「私」は1時間ばかりレコードを聞かせてもらい、おもむろに辞去します。

 ぞろぞろと、人が出さかり初めた賑やかな通りをぬけて、私は三角形になった辻に出た。「さて、電車に乗ろうか?」と思ったが、何となく気分の爽快な夜であるし、ブラブラと歩いて帰るのも一興だろうと、私は中山手通りの南側の歩道を、コツコツと西へ歩を進めた。

「電車に乗ろうか?」の言葉から、「私」は今電停のそばにいるようです。
生田神社の最寄り電停は「中山手一丁目」で、ここは5差路にも6差路にも見える複雑な交差点です。はすかいになった道筋は、そこに三角形の小街区を形成しており、「三角形の辻」とはそれを指しているのではないかと想像します。

(MAP 4:生田神社脇から西へ)

結局、「私」は路面電車に乗るのをやめて、中山手通りを西に歩き出します。そうすると実際には自宅から遠ざかることになるのですが、この晩は興に乗って、わざと遠回りして帰ることにしたのでしょう。

 もうこのあたりは、人通りがほんのチラホラ見える切りだ。両側の家は大方、植込につつまれた西洋館で、このうす暗い広い路の左右にならんでいる瓦斯燈が、殊の他、静かな街区にふさわしい美観をそえている。
〔…〕私は又あたりを見まわさないではおられなかったと云うのは、そこはほんとうに私の好きな、これこそ注文通りとでも云いたい山手通りの美しい夜なのである。〔…〕遠い辻に現れて、又どこかへ消えて行くギラギラ目玉を光らした自動車や、又、前後からゴーッと通りぬけて行く明々としたボギー電車のなかに、非常にきれいな夢―言葉はおかしいが、そう云った感じのものが載っているような気がするのである。〔…〕ちょっと表現派の舞台を歩いているような感じを起させる。

周囲には静かで謎めいた、“表現派”風の街並みが続きます。
そこを抜けると、再び賑わいのあるエリアに出ます。

 で、こうして、私の足はともかく、坂上の緑色の灯の下までやって来たのである。〔…〕私はやはりそのままに、南側の歩道にそって、坂下に向って歩きつづけたのである。このあたりには、カフェや、ビリヤードホールがあって、人影も又かなりたくさんに見かけられる。ところが、ありや、たしか中山手三丁目の辻だったろうか、何にせよ、新規に建った四階の石造の小学校から、A公園までの中間であった。

さて、「私」は今どこにいるのか?
文中には「中山手三丁目の辻」とあり、これはトアロードとの交点です。地図でいうと、「中山三」(印刷がかすれて「中山二」に見えますが、「中山三」です)の電停の位置で、角に北野小学校が立っています(現在は統廃合により閉校。その校舎は「北野工房のまち」という観光施設に転用されています)。

しかし、「私」はこの時すでに、「新規に建った四階の石造の小学校から、A公園までの中間」に至っているはずで、中山手3丁目ではどうも話が変です。しかも北野小学校が「石造」(鉄筋コンクリート)になったのは昭和6年(1931)で、しかも3階建ですから、文中の記述と照応しません。

(MAP 5:説明の便のため、左側に地図を足しました)

結論から言うと、これはもっと西側の山手小学校(現・こうべ小学校)のことだと思います。ここに小学校が2つ並んでいるのは、男子(諏訪山)と女子(山手)を別学としたためで、山手小学校のほうは、大正10年(1921)に、鉄筋コンクリート4階建に建て替わりました。文中の記述とピタリ合います。

一方「A公園」とは、明治44年(1911)にオープンした大倉山公園とおぼしく、これは「ハイカラ神戸」の西を画すランドマークです。「A公園」とは単なるアノニマスな表記かもしれませんが、大倉山は元々「安養寺山」と呼ばれたので、そのイニシャルを取ったとも考えられます。

結局、中山手三丁目の辻」は足穂の勘違いということになるのですが、なぜ彼はそんな間違いを犯したのか?これは「星を売る店」の成立事情にも関わることです。

(予想以上に長くなったので、ここで記事を割ります)

「星を売る店」の神戸(10)…星店へのナビゲーション(後編の下)2015年06月20日 07時48分41秒

(今日は2連投です。前の記事も併せてお読みください。)

(MAP 6:「私」の夜の散歩道)

上の地図で、<中山手三丁目>から県庁前の<下山手四丁目>にいたるまで、市電が斜めに街区を横切っているのは、いったいどういうわけか、不思議に思われないでしょうか? 私も最初訳が分かりませんでした。

しかし、よく話を聞いてみると、この市電路線(山手上沢線)が開通したのは、大正10年(1921)8月のことで、それに合わせて道筋の付け替えが行われたのだそうです。この地図の発行準備段階では、まだその詳細が不明だったため、とりあえず旧来の地図に、予定経路だけ朱線で刷り込んだのでしょう。

(現代の地図。画面中央下、「兵庫県公館」が旧県庁舎の位置)

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市電開通とともに、この付近は急速に街並が整備されました。
下の絵葉書は、当時のこのエリアを写したもので、疾駆する自動車とモダンなボギー電車が、タルホ的世界を彷彿とさせます。

(夕映えの神戸山手通り。昭和初年の絵葉書。正面は東方の布引~摩耶山系。人工的に着色しているので、東に夕日が沈むような、変な具合になっています。)

左手前は第一神戸高等女学校。落成は大正13年(1924)。
その奥の塔のある建物は、兵庫県県会議事堂
さらに奥の、茶色く塗られた建物は、兵庫県試験場です。
また道路をはさんで右手にそびえる教会は神戸栄光教会で、これら3つの建物は、いずれも大正11年(1922)に完成しました。そして、この北側(画面左手外)には、前述のとおり山手小学校のモダンな校舎が大正10年(1921)に完成しています。

「星を売る店」の成立にとって、上記各年代には大きな意味がありそうです。

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足穂は大正10年(1921)に上京し、佐藤春夫の弟子として作家デビューしました。その後、大正12年(1923)に、兵役の観閲点呼のため明石に一時帰省し、そこで「星を売る店」を書いたのですが、執筆に先立って、彼は当然なつかしい神戸の町を歩き回ったことでしょう。

しかし、彼はそこに「自分の知らない神戸」を見出します。
 山手を往くボギー電車、
  見慣れぬ大通り、
   明治の洋館とは違った表情のモダン建築の数々…
足穂は小説の主人公と同様、そこに夢幻的な、表現派の舞台めいたものを感じ取ったに違いありません。

このとき、足穂は神戸をいわば「異邦人」として見る目を獲得し、それが「星を売る店」執筆の原動力となったのではないか…と私は想像します。足穂の「勘違い」も、彼の心の中の神戸地図に、突如として出現した、この奇妙な一角の影響かもしれません。

作中、「私」が「南側の歩道」にこだわったのも道理で、仮に北側の歩道を歩いていたら、そのまま中山手通りを直進する形になり、この新しい街路に踏み込むことはなかったでしょう。これは必然的に南側でなければなりません。

なお、この経路を歩くと、山手小学校の脇ではなく、その1ブロック南を通過することになりますが、それでもあえて小学校に言及したのは、足穂がこの場所を実見したとき、校舎建て替えのため、女学校の校地が一時更地になっていたため、山手小学校が素通しで見えたからだと推測します。

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さて、こうして、「私」は山手小学校と大倉山公園の中間にある交差点までやってきました。「私」はここで道路を渡って北側に移ろうとして、ついに「星店」を発見します。

 その辻から、北側の歩道にうつろうとした私は、辻をへだてた向うに―即ち、まんなかにスクエヤーをはさんだ歩道の私が立っている対辺のところに、青くかがやいた一つの美しいショーウィンドーを見たのである。

(画面をスクロールするのが面倒くさいので、MAP 6を再掲)

その場所は、下山手通5、6、7丁目の交差点のうちのどれか。
以前ご紹介した(http://mononoke.asablo.jp/blog/2015/04/29/)、ハイカラ神戸幻視行』の著者・西秋生氏は、7丁目説をとります。しかし、私はここであえて6丁目説をとりたいと思います。

さして深い理由はないのですが、6丁目のほうが、より小学校と公園の中間点に近いし、「私」がここで道路を渡ったのは、そろそろ家路に就こうとしたからだと思うのですが、そのためには6丁目の方が動線がスムーズだからです。

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もちろん真実は分かりません。
でも、現時点では「下山手6丁目交差点の西北角」を第一候補に推します。
地図上で青い星マークを付けた位置がそれ。これぞ「星店」の立っていたとおぼしき場所。(これは現在の「下山手6丁目」の表示信号よりも、1本西の筋になります。「星店」の位置には、現在ガソリンスタンドが営業しています。)


ストリートビューの画像を借りると、今ではこんな光景(矢印がガソリンスタンド)で、いくぶん散文的なムードであることは否めません。でも、若き日の足穂が見たら、このマッチ箱のような建物群こそ「表現派」めいて感じられたかもしれません。(お向かいの「アストロ工具」さんが、ちょっと星っぽいですね。)

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さて、彷徨の末にやっと「星店」にたどり着きました。
以上は長い前振りで、以下、話題は「星店」そのものに移ります。

(この項つづく)

そういえば…2015年06月20日 09時22分24秒

そういえば…

「私」と私が神戸をさまよっている間も、手荒い風がビュービューと世間を吹きまくっていました。そして、昨日のNHKの19時のニュースは本当に非道いと思いました。もちろん「合憲派の憲法学者」の意見を紹介しても構わないんですが、だったらその数百倍の時間を割いて「違憲派の憲法学者」の意見も報道しなければ、不公正のそしりを免れないでしょう。あるいは、他のいろいろな問題についても、広く少数意見を紹介するとか。

あんまりだ…と思って、私は昨日、生まれて初めてNHKに電話しました。予想通り「ご意見として承ります」と簡単にあしらわれ、「まあ、オペレーターの人に怒ってもしょうがないか…」と、分別を働かせて電話を切りましたが、でも後から「じゃあ、誰に対して怒ればいいんだろう?」と疑問がわきました。いったい何のために開設されている窓口なのか?どう考えても、単なるガス抜きにしかなっていないし、ガスを抜かれた感じもしない。