無理矢理な月(第3夜)…ルナパークへようこそ2018年04月18日 20時40分03秒

今日は夕暮れ空に三日月と金星がスキッと並び、惚れ惚れするような眺めでした。
記事の方は月光幻灯の2枚目。今日は月明かりの公園です。


青い空に白い月。
無人の公園では、池がぼおっと虹色の光を放ち、ほとりに立つ四阿(あずまや)と、遊歩道沿いの若木たちが、おもむろにヒソヒソ話を始め…。
何だか賢治作品の冒頭シーンにありそうな光景です。


でも、例によってこれは日中に撮った写真を青く塗った、偽りの夜景です。
影の具合からすると、夜空どころか真っ昼間の時分でしょう。
これまた無理矢理ですね。

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それにしても、こういう写真ばかり眺めていると、だんだん眼前のどんな景色も、手彩色ならぬ「脳彩色」によって、ただちに月夜の光景に変換できる力がついてきます。今朝も、仕事の労苦を抱えて出勤する道すがら、朝の駅前を一瞬で満月の晩に変えて、大いに心を慰めたのでした。我ながら涙ぐましい話です。

(この項つづく)

無理矢理な月(第4夜)…夢の町へ2018年04月20日 06時40分44秒

月光幻灯の3枚目は、私のいちばんのお気に入り。


月と並んで空一面に星が散っているのもいいし、空が青というよりも深い紺色なのも素敵です。地面までもその紺に染まり、緑の路面電車がカタコト走り抜けていきます。車窓から目をやれば、ビルディングにはためく「TOYS」の旗。


まあ、これも無理矢理といえば無理矢理な人工夜景です。
でも、ここまで来れば、もはや無理が通って道理が引っ込んだところに出現した「夢幻の町」と呼ぶほかありますまい。

   ★

この光景は、かつて鴨沢祐仁さんが筆にした夢の町そのものです。
例えば、1976~77年にかけて、雑誌『ガロ』に掲載された同氏の「流れ星整備工場」を見てみます。


仲良しのクシー君とイオタ君は、素敵な玩具が並ぶ「プロペラ商会」で、ついに念願のスター・チャートを手に入れます。


それを小脇に抱えて、月の電車通りを歩くふたり。

(電車通りなら大好きだ。ネオン・サインやテール・ランプが、星の光と交差して、毎晩来るのに、いつも知らない街みたい)

「毎晩 星座覚えようね」

パンタグラフは電気捕獲機。 
<バチバチッ!> 掴まえそこねた電気が逃げる。

「大きな火花だね」 「おまけのバッヂみたいだ」

ふたりはこの後、怪しい黒猫に導かれて、町はずれにある「流れ星整備工場」を訪ね、星の世界の驚くべき真実を知ることになります。

   ★

現実の町が早く夢の町になったらいいのに…と強く願います。

でも、多くの人が薄々感じているように、夢は夢だから美しいのであって、夢が現実になったら、やっぱりそれは少なからず苦いものでしょう。少なくとも、「甘い無理」が通って、「苦い道理」が引っ込む世の中は、人間の肌にはなじみにくい気がします。人生はコーヒー豆のごとく、苦みと酸味、それにかすかな甘みの程よいバランスが取れているのが良い…というのが、今の私の感懐です。

(この項おわり)

この世をば…2018年04月21日 12時38分50秒

藤原道長のよく知られた歌、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」。この下の句は、「まさに満月のように、何一つ欠けたところがないじゃないか」と、自らの絶頂を得意満面に誇る歌なんだと教わりました。

でも、月の満ち欠け(月齢)は、24時間常に変化しており、同じ日に見上げる月でも、朝と夕方では、すでに微妙に形が違うものです。したがって、月本体が「真の満月」でいられるのはほんの一瞬で、次の瞬間には早くも月は欠け始め、やせ細っていきます。

それを思うと、道長が一門の繁栄を満月に喩えたことは、その栄華が一瞬のものであることを匂わせ、実は大いに不祥の歌ということになります。


でも、だからこそ道長は正しかったのです。

望月を「欠けたることもなし」と思ったり、この世を自分のものだと思ったりするのは、文字通り主観的な思い込みに過ぎません。実際には、望月はこの上なく欠けやすいものであり、権勢もまた衰えやすいことを、この歌は言外に教えてくれます。


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▼閑語(ブログ内ブログ)

セクハラというのは、タチの悪い醜怪な問題ですけれど、問題そのものの輪郭は明瞭で、いわば「シンプルな問題」です。にもかかわらず、身内のセクハラ問題すらスマートに捌けないとしたら、そんな政治家に外交問題が捌けるわけがない…と思うのが、健全な常識でしょう。足し算ができないのに、割り算ができるわけがないのと同じことです。

今や安倍政権は完全に死に体で、その退陣は不可避です。
もちろん、安倍氏が退陣すれば、世間の風通しも良くなるし、私もいっときのカタルシスを味わうと思いますが、気になるのは「その後」のことです。

安倍氏がぺったんぺったん搗いて丸めた、特定秘密保護法、安保関連法、共謀罪法…これらの悪法に手を付けず、「座りしままに食うは徳川」とばかり、ちゃっかりそれに便乗しはせぬか、「その後」の某氏の行動には、よくよく注意せねばならんと思います。

月のドミノ2018年04月22日 06時54分16秒

昨日の記事の写真に写っていた「月のドミノ」
あれは古いものではなくて、現代の作品です。

作者はGabriel Fredericks Cohen と Jolie Mae Signorile のお二人。
彼らはニューヨークのブルックリンで、アート/デザインの創作ユニット「Fredericks & Mae」として、2007年以来活動を続けています。

その制作物はゲームに限らず、またテーマも天文に限られるわけではありません。日本でも同様の活動をされている方は多いと思いますが、デザイン性に富んだ生活雑貨や、デスク周りの小物なんかが、彼らの創作フィールドです。


そんなわけで、段ボールの外箱からして、とても洒落ています。


そして、中にはスライド蓋のついた白木の箱。


さらにその中に、木製のドミノ牌が28枚収納されています(牌の裏面は黒塗り)。

(同封の説明書より。彼らは月以外にも、様々なドミノをデザインしています)

通常のドミノ牌との比較でいうと、真っ黒な新月が0で、以下、三日月が1、五日月が2、半月が3、十日月が4、十三夜月が5、そして満月が6に相当します。絵柄を見ると上弦と下弦の区別がありそうですが、実際に遊ぶ時は両者を区別しません(上下ひっくり返せば同じ絵柄になるので、区別のしようがありません)。


…と言いつつ、ドミノの遊び方が今ひとつ分かりませんが、同じ月齢が隣接するように、プレイヤーが交互に牌を並べて、勝負を決するのでしょう。


月愛好家に広くお勧めしたい、この素敵なドミノは、彼らのオンラインショップから購入可能です。


Fredericks & Mae SHOPページ


オルロイの前で2018年04月23日 06時49分44秒

プラハの旧市街で、毎日可憐なからくりショーを演じる天文時計。
「プラハのオルロイ」として知られる、著名な観光名所です。

「オルロイ(orloj)」はチェコ語で、これ一語で「天文時計」の意味。さかのぼれば、ギリシャ語の「ホーロロギオン(時を数えるもの、時計)」に由来し、英語の「horology(時計製作学)」も語源は一緒です。(英語の「hour」は、この「ホーロ」から来ています。)

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プラハのオルロイのことは、以前も何度か記事にしました。その折に、オルロイを描いた、プラハ土産のメカニカル・ポストカードを紹介しましたが(LINK)、最近また違う絵柄の品を見付けました。


淡彩スケッチを元にした、優しい雰囲気の絵葉書です。


他の品と同様、脇のホイールを回すことで、上部の窓から聖人たちが順繰りに顔を出す仕掛けになっています。


時代を判別する手がかりに欠けますが、網目製版のオフセット印刷なので、そんなに古いものではなくて、おそらく戦後の1950~60年代の品じゃないでしょうか。

プラハのオルロイは、第2次大戦末期に、ドイツ軍によって破壊され(※)、1948年にようやく修復が成ったそうです。その後に訪れた、曲がりなりにも平和な時代に、この絵葉書は作られたのでしょう。

(※)その惨状は、「damaged Prague astronomical clock」で画像検索すると(LINK)、ありありと見ることができます。

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今のプラハを訪れる人は、オルロイの前に立って、遠い中世のメルヘンに思いをはせることでしょう。私がその場に立っても、たぶん同じでしょうが、さらに鉄錆の味がする<東西冷戦>の記憶をそこに重ね、現代史の中で揺れ動いた、今はなき「チェコスロバキア共和国」の運命を思って、しばし立ち尽くすかもしれません。

手のひらのオルロイ2018年04月25日 05時42分20秒

オルロイへのこだわりから、こんなプラハ土産も買いました。


台座からてっぺんの十字架まで、全高約12cmのミニ・オルロイ。
もちろん今出来の品で、現地に行けば、今でも売ってるかもしれません。
素材はオール金属のダイカスト・モデルです。

(文字盤の直径は約2cm)

オルロイの中で一番目立つ、アストロラーベ風のカラフルな文字盤は、金属印刷で再現。その下の12か月の農事と星座を描いた「暦表」と呼ばれる部分は、小さな時計に置き換わっています。

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土産物というのは、それを買った時の愉しい思い出とか、届けてくれた人の心遣いなどと結びついて、初めて意味を持つものでしょう。ですから、こんなふうに見知らぬ人からお土産だけ譲ってもらっても…という思いもあります。でも、当面プラハに行く機会もありませんし、土産物というのは現地にはあふれていても、それ以外の土地では意外と手に入らないものですから、オルロイ好きとして、つい食指が動きました。


机上でカチコチ時を刻む、まだ見ぬオルロイの似姿。
これは過去の思い出ではなく、未来の夢と結びついた、一風変わった土産物と言えるかもしれません。

(クルッと後を向けたところ。背部や底部に「MADE IN CHINA」のシールがこっそり貼られている…というのも、ありがちなオチですが、原産国表示はどこにもありませんでした。)

中世がやってきた(1)2018年04月28日 07時46分15秒

理系アンティークショップ、すなわち天文や博物趣味にかかわる古物を扱うお店は、往々にしてその手の品とともに、宗教アンティーク(ここでは主にキリスト教の)も扱っていることが多いようです。

科学と宗教はしばしば対立するものとされるので、これは一見不思議な光景です。
でも、両者は等しく「目に見える世界の背後を説くもの」であり、いわば「異世界を覗き見る窓」ですから、この二つの世界に共に惹かれる人がいても、不思議ではありません。かく言う私も、理科趣味を標榜する一方で、妙に抹香臭いものを好む面があります。

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「中世趣味」もその延長線上にあります。

中世というのは、日本でも西洋でも、戦乱と疫病に苦しんだ暗く冷たい時代で、そこにお伽チックなメルヘンとか、深い精神性とか、侘び寂びの幽玄世界を重ねて、むやみに有り難がるのは、現代人の勝手な思い込みに過ぎないというのも事実でしょう。

(日本の中世文学史家である、田中貴子氏『中世幻妖』(幻戯書房、2010)は、「近代人が憧れた時代」の副題を持ち、帯には「小林秀雄、白洲正子、吉本隆明らがつくった<中世>幻想はわたしたちのイメージを無言の拘束力をもって縛りつづける」とあって、その辺の事情をよくうがっています。西洋でも事情は似たようなものでしょう。)

…と、予防線を張ったところで、やっぱり中世って、どこか心惹かれるところがあるんですよね。これは子供時代からの刷り込みもあるので、ちょっとどうしようもないです。

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そんな中世趣味の発露が、見慣れた光景の向こうに潜んでいます。
わりと最近わが家にやってきたもので、理科趣味とも天文趣味とも縁遠い品ですが、一種のヴンダー趣味ではあるし、これまた前から欲しいと思っていたモノなので、この辺で登場させることにします。

(この項つづく)

中世がやってきた(2)2018年04月29日 15時46分50秒

わが家にやってきた、ささやかな「中世」。
それは、窓際に置かれたステンドグラスの残欠です。


その姿はブラインドの角度を変えると現れるのですが、ご覧のように書斎の窓は隣家の窓と差し向かいなので、気後れして、腰を落ち着けて眺めることができないのは残念です。




でも、思い切ってブラインドを上げると、こんなふうにアクリルフレーム越しに「中世の光と色」が部屋に差し込みます(隣家の壁と窓は、ゴシックの森か何かに、脳内で置き換えて味わってください)。


目にパッと飛び込む星模様に…


華麗な甲冑姿の騎士。



何百年も色褪せない、鮮やかな赤、青、緑、黄のガラス絵。

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その技法から、おそらく1500年代にドイツ語圏(スイスかもしれません)で作られたものらしく、ちょっと「中世」と呼ぶには苦しいですが、近代以前の作であることは間違いありません。それに、ステンドグラスの制作は、16世紀後半~18世紀にひどく衰退し、19世紀になって俄然復活したので、その断絶以前の「中世ステンドグラスの掉尾を彩る作例」と呼ぶことは、許されるんじゃないでしょうか。

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ところで、上の写真で明らかなように、このステンドグラスは絵柄がバラバラです。
これは古いガラス片を寄せ集めて、再度ステンドグラスのパネルを拵えたためです。

誰が何のためにそんなことを…というのを考えるために、ここで記事を割って書き継ぎます。


中世がやってきた(3)2018年04月29日 15時54分00秒

(今日は2連投です)

尚古趣味とか、好古家というのは、古代ローマ時代から存在したそうですが、特に「中世」という時代に注目が集まり、もてはやされた時期があります。それは、18世紀後半から19世紀にかけてのことです。

図式的に言えば、前代のグレコ・ローマンに範をとった<古典主義>に対抗するものとして、中世を称揚する<ロマン主義>が勃興するのと軌を一にする現象で、一口にロマン主義と言っても、その実態は国によって様々でしょうが、現象面でとらえれば、中世趣味が最も先鋭的に表現されたのは、イギリスだったようです。それは産業革命の進展と、とめどない社会の世俗化に対する精神的反動でもあったのでしょう。

その動きはジョージ王朝末期に、まずはゴシック・リヴァイバルという「擬古建築」の形で幕を開け、続くヴィクトリア朝を通じて、文化のあらゆる側面に波及し、絵画ではラファエル前派を、そして工芸分野ではウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動を生み出しました。中世の写本蒐集熱が高まったのもこの時期です。

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そうした中で、古い中世ガラスやルネサンス・ガラスを求める人も現れました。
たとえば、サー・ウィリアム・ジャーニンガム(Sir William Jerningham、1736-1809)という人がいます(以下、引用はヴァージニア・チエッフォ・ラガン著、『世界ステンドグラス文化図鑑』、東洋書林、2005より。改行は引用者)。

 「彼は自宅のテューダー様式マナー・ハウスの近くにゴシック・リヴァイヴァルの礼拝堂を造り、その窓に嵌めこむ中世ガラスの収集を始めた。〔…〕パネルの少なからぬものがジョン・クリストファ・ハンプを通して購入されたらしい。

ハンプはノリッジの毛織物商人で低地地方のアントウェルペン、ブリュージュ、フランスのパリ、アミアン、ルーアン、ドイツのケルン、アーヘン、ニュールンベルクを訪れた。ハンプはナポレオン征服後の世俗化時代に、解散した修道院から大量の中世ガラスを入手し、イギリスのかなりの教会へ売った。

〔…〕84パネルを数えるジャーニンガム・グラスは、サー・ウィリアムの死亡した年、1809年までに完全に設置されたようである。」(上掲書 pp.171-172)

当時、高まる中世熱に応えて、古いガラス片をヨーロッパから買い集めて、大英帝国で売りさばく専門の商人までいたようです。その顧客は、由緒付けを求める教会であったり(イギリスの教会は16世紀の宗教改革と国内動乱によって、かなり荒廃した時期があります)、広大なマナーハウスを抱えた新興貴族だったり、様々でした。

それがどんな風に使われたかは、ヨークの聖マイケル教会(現在はレストランに改装されています)の内部を見ると、およそ想像がつきます(以下、画像出典はhttp://www.docbrown.info/docspics/yorkscenes/yspage04b.htm)。


こんな風に、部分的に絵柄のつながった隙間を、似た色模様のガラスで補ったものもあれば、


全くランダムにピースをはめ込んだパネルもあるという具合。

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こうして再び安住の場を得たステンドグラスですが、オーナーである貴族が没落すれば(ダウントン・アビーの世界ですね)、再び売りに出され、最終的には博物館に収まることになります。サー・ウィリアム・ジャーニンガムの場合もまた然り。

 「一回目の売却は1885年、その中には領地の建物のパネルが多く含まれ、二度目は1918年、礼拝堂の建物が解体されたときで、それによりすばらしい作品の多くがロンドン、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館やニューヨーク、メトロポリタン美術館など公共のコレクションで展示される道が開けた。」(ラガン上掲書、p.172)

ジャーニンガムのものではありませんが、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館のサイトを見たら、似たような感じのものとして、こんなステンドグラスのパネルが紹介されていました。


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わが家のステンドグラスの素性も、上のような事実に照らせば、だいたい想像がつきます。これも19世紀の<中世熱>の中で見出され、マーケットに流出した品なのでしょう。

詳細な出所・伝来は不明ですが、直近の持ち主は(売り手曰く)彫刻・ガラス工芸作家にして、南コネティカット州立大学で美術を教えた、ピーター・ペレッティエリ氏(Peter Pellettieri、1997年に58歳で没)だそうで、まず確かな品と言っていいでしょう。

ペレッティエリ氏は、ヨーロッパの古美術コレクターとしても知られた人で、このステンドグラスも、美術的な見地と作品制作の資料という二重の意味合いで、氏が手元に置いていたものだと思います。

ステンドグラスのある風景2018年04月30日 11時45分48秒

前回のおまけで、もう1回ステンドグラスについて書きます。

ステンドグラスへの憧れは、教会音楽への関心なんかといっしょに芽生えたのかなあと思いますが、今となってはよく思い出せません。
ただ、それを書斎の窓際に置きたいと思ったのには、はっきりとした理由があります。
それはユングの書斎の光景が、心にずっと残っていたからです。

カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung、1875-1961)は、フロイトともに人間の無意識を探求した人。オカルティズムに近い色眼鏡で見られることもあるし、各界には自称ユンギアンが大勢いて、好き勝手にいろんなことを放言するので、ユング自身も胡散臭い目で見られることが多いですが、彼が人間理解の幅を広げた、知の巨人であることは確かでしょう。

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多くの人と同様、私も河合隼雄氏の著作でユングを知った口です。
昔、そのうちの一冊の口絵で見た写真が、上に書いたところの「心に残るユングの書斎風景」で、その本はいまも手元にあります。

(C.G.ユング他著、河合隼雄監訳『人間と象徴(上)』、河出書房新社、1975より。なお、手元の本は1980年の第12版です)

十代の私にとって、それは理想の家であり、理想の書斎に見えました。
そして、書斎の窓を彩るステンドグラスも、静謐で瞑想的な雰囲気を醸し出すものとして、書斎になくてはならぬものだ…という刷り込みがそこで行われたのです。まあ、幼稚な発想かもしれませんが、若いころに受けた影響は、侮りがたいものです。

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今改めて思うと、日本の若者の目に、ユングの家がかくまで理想的に映ったのは、ユングの家には、若き日のユング自身の理想が存分に投影されていたからだ…という事情もあった気がします。

ユングは、1908年にチューリッヒ湖のほとり、キュスナハトの町に家を建て、終生そこで暮らし、治療と研究に専念しました。晩年には、「家が広いと手入れも大変だ…」と、月並みな愚痴をこぼしていたそうですが、この家を建てるにあたって、彼は設計段階から、建築家と尋常ならざる熱意をもって綿密な打ち合わせを行いました。

(キュスナハトのユングの家の外観。左・1909年、右・2009年撮影。
Stiftung C.G.Jung Küsnachtが2009年に刊行した、『The House of C.G.Jung: The History and Restoration of the Residence of Emma and Carl Gustav Jung-Rauschenbach』裏表紙より)

ユングは、人形やおもちゃの建物などを砂箱に並べて、個人の内的世界を表現させる「箱庭療法」を創始しましたが、この愛すべき塔のある家を築くことは、ユング自身にとって、一種の箱庭療法の実践だったように思います。それぐらい、家とユングは一体化していました。

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ユングの家は、夫妻の没後も子孫に受け継がれ、今は保存のための財団によって管理されています。2階にある彼の書斎は生前のまま残され、例のステンドグラスもそのままです。


キリストの受難を描いたこの3連パネルは、中世のステンドグラスの複製だそうです。私は何か由緒のある品と思っていたので、その点はちょっと意外でしたが、ユングは「古美術品」を収集していたわけではなく、古人が抱いた「観念」に興味があったので、別に本物にこだわる必要はなかったのでしょう。

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ユングには、若い頃ずいぶん心を惹かれました。
たぶん、死が身近に迫るころ、もう一度その著を紐解くのではないかと思います。