ステンドグラスのある風景2018年04月30日 11時45分48秒

前回のおまけで、もう1回ステンドグラスについて書きます。

ステンドグラスへの憧れは、教会音楽への関心なんかといっしょに芽生えたのかなあと思いますが、今となってはよく思い出せません。
ただ、それを書斎の窓際に置きたいと思ったのには、はっきりとした理由があります。
それはユングの書斎の光景が、心にずっと残っていたからです。

カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung、1875-1961)は、フロイトともに人間の無意識を探求した人。オカルティズムに近い色眼鏡で見られることもあるし、各界には自称ユンギアンが大勢いて、好き勝手にいろんなことを放言するので、ユング自身も胡散臭い目で見られることが多いですが、彼が人間理解の幅を広げた、知の巨人であることは確かでしょう。

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多くの人と同様、私も河合隼雄氏の著作でユングを知った口です。
昔、そのうちの一冊の口絵で見た写真が、上に書いたところの「心に残るユングの書斎風景」で、その本はいまも手元にあります。

(C.G.ユング他著、河合隼雄監訳『人間と象徴(上)』、河出書房新社、1975より。なお、手元の本は1980年の第12版です)

十代の私にとって、それは理想の家であり、理想の書斎に見えました。
そして、書斎の窓を彩るステンドグラスも、静謐で瞑想的な雰囲気を醸し出すものとして、書斎になくてはならぬものだ…という刷り込みがそこで行われたのです。まあ、幼稚な発想かもしれませんが、若いころに受けた影響は、侮りがたいものです。

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今改めて思うと、日本の若者の目に、ユングの家がかくまで理想的に映ったのは、ユングの家には、若き日のユング自身の理想が存分に投影されていたからだ…という事情もあった気がします。

ユングは、1908年にチューリッヒ湖のほとり、キュスナハトの町に家を建て、終生そこで暮らし、治療と研究に専念しました。晩年には、「家が広いと手入れも大変だ…」と、月並みな愚痴をこぼしていたそうですが、この家を建てるにあたって、彼は設計段階から、建築家と尋常ならざる熱意をもって綿密な打ち合わせを行いました。

(キュスナハトのユングの家の外観。左・1909年、右・2009年撮影。
Stiftung C.G.Jung Küsnachtが2009年に刊行した、『The House of C.G.Jung: The History and Restoration of the Residence of Emma and Carl Gustav Jung-Rauschenbach』裏表紙より)

ユングは、人形やおもちゃの建物などを砂箱に並べて、個人の内的世界を表現させる「箱庭療法」を創始しましたが、この愛すべき塔のある家を築くことは、ユング自身にとって、一種の箱庭療法の実践だったように思います。それぐらい、家とユングは一体化していました。

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ユングの家は、夫妻の没後も子孫に受け継がれ、今は保存のための財団によって管理されています。2階にある彼の書斎は生前のまま残され、例のステンドグラスもそのままです。


キリストの受難を描いたこの3連パネルは、中世のステンドグラスの複製だそうです。私は何か由緒のある品と思っていたので、その点はちょっと意外でしたが、ユングは「古美術品」を収集していたわけではなく、古人が抱いた「観念」に興味があったので、別に本物にこだわる必要はなかったのでしょう。

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ユングには、若い頃ずいぶん心を惹かれました。
たぶん、死が身近に迫るころ、もう一度その著を紐解くのではないかと思います。

コメント

_ Nakamori ― 2018年04月30日 19時41分26秒

10代でユング心理学に興味をもった少年が、同時に?ハーシェルにも心傾けるところが面白いところです。

_ S.U ― 2018年04月30日 19時58分45秒

 前に「神話学」だったかが苦手とコメントさせていただきましたが、それとほぼ同様の感覚で、ユング、フロイトも苦手です。とくに、ユングはうさん臭く思っている口です(すみません。苦笑)。でも、河合隼雄氏や柳田國男は、似たところがあると思うものの私は好きです。オカルトが苦手なのではなく、「唯心論」的なところを汲み取って賛成できないのかもしれません。

 それはともかくとして、人間がその精神活動と行動において、感覚・感情動物であることは事実だと思います。もちろん、そうでない人もいるでしょうが、世の中を動かしている人は、ある程度何らかの感情と顕著な感性のこもっている人ではないかと思います。箱庭やステンドグラスを見て自らの頭を整理し安らぎを得る、という点については全面的に賛成です。

_ S.U ― 2018年05月01日 07時24分29秒

 すみません。補足です。

 「神話学が苦手」というのは、2017.01.07のコメントに書かせていただいたのですが、そこで、関連してユング、フロイトが苦手というのも書いておりました。我ながら年寄りの繰り言いまさら特に気にもならなくなりましたが(←こうなると聞いているほうが大迷惑)、そこはさておいて、客観的学問知識として、神話学とユング、フロイトは共通する方法論があるのでしょうか。

_ Nakamori ― 2018年05月01日 08時21分44秒

ユングは端から見ていただけなのでよく知りませんが、深層心理については次のように考えています。

人間も動物なので、長い淘汰の歴史を経験して今があり、その意味から、某かの共通の記憶のようなものはあると考えるのが妥当と思われます。我々は知らず知らずのうちに、そのような記憶に左右されて生きている。そのように感じることがあります。

_ 玉青 ― 2018年05月02日 07時08分31秒

○Nakamoriさま

星に興味を持ったのは小学生のときで、ユングは高校生になってからですから、付き合いは星の方が古いですね。でも、当時はハーシェルのことなんて、まるで知りませんでした。思うに、ハーシェルの偉さ・すごさは、ある程度人生経験を積んでからでないと分からない類のものかもしれません。(理屈でいうと、ある人の業績と、その生活史的背景は分けて考えるべきですが、あえて分けずに考えたくなる人もいる…というのが、年を経て分かったことです。)

○S.Uさま

ユングはなかなか懐の深い人で、だからこそ胡散臭くなってしまうのかなと思います。要は、「人は自分の見たいものをユングに見る」といいますか、自分の思いを投影するのに、ユング理論ははなはだ便利な対象なので、「理屈と膏薬とユングはどこにでもくっつく」ことになりがちです。その意味で、ユング理論はtheoryというよりも、quasi-theoryなのかもしれません。でも、「だからユングはだめだ」というよりも、ユングが曖昧な形で示唆したものに、しっかりとした内実を与えるのは、後世に託された仕事であり、それは依然完成途上にある…と見る方が能産的であり、そう思わせるのが、彼の懐の深いところでしょう。(何だか我ながら適当なことを書いていますね・笑。正直、なかなか評価は難しいです。)

なお、神話学は「神話を対象とする学問」という、あくまでも対象に基づく区分けであり、その多様な方法論の一つとして、ユングやフロイト学説を援用するアプローチがある…という関係でしょう。逆にユングやフロイトから見れば、神話は他の文化事象や、眼前のヒトの行動と並ぶ、人間理解のための「素材」の一つです。結局、両者は並立するカテゴリーではないのでしょう。

_ S.U ― 2018年05月02日 07時33分20秒

>「理屈と膏薬とユングはどこにでもくっつく」
 ありがとうございます。何となく理解できたように思います。
 「唯心論」とか「オカルト」いうよりは、研究の方法論の示し方なのだと思います。私が、(深く理解しているわけではないのですが)、河合隼夫、柳田国男、フロイトは許容範囲内でユングは範囲外と判断するとしますと、前者は、客観的で広く適用可能な分析法、実地の調査法の工夫に力点を置いているのに対し、後者は客観的に実証不可能な領域まで一線を越えたところにあるのだと思います。しかし、将来、新しい研究手法によってその一線を後退させることができるかもしれないし、できないにしても、新しい研究方法を探る強いモチベーションにじゅうぶんになっているという評価をすればよいと感じました。でも、苦手は苦手でどうしようもないですね。

 「神話学」のほうも、私が触れたものはユング、フロイト的研究手法が幅を利かせていたのかもしれません。これも、ひと言で言えば実証不可能な分析法ということです。神話学は実地調査を重んずる民俗学的手法よりも、古代人の心理描写に訴える研究のほうが人目を惹くのかもしれません。でも、古代人の心理などは、決して想像の域を出ないのだから、そういう研究手法に頼るのは良くない、という考え方も相当の理があるのではないのでしょうか。

_ 玉青 ― 2018年05月03日 07時12分47秒

純粋な主観に基づいては学問が成立しないのは自明ですが、主観性を超克する手立てとしては、「客観性」を持ち出す以外に、「間主観性」に拠るという行き方もあります(君はAと思うだろ。僕もAだと思うよ。それなら、少なくとも君と僕の間では、Aを真と見なそうじゃないか…という、かなりゆるい真の決め方です)。ユング理論も含めて、人間をテーマとする学問は、客観性を担保することがなかなか難しく、いきおい間主観性に頼らざるを得ないことが多くなって、下手をすると宗教との境目が混とんとしてきますが、原理的にどうしようもない局面(主観的経験そのものがテーマの場合とか)もありますね。

_ S.U ― 2018年05月03日 08時36分29秒

>「間主観性」
 デカルトの「我思う、故に我有り」もこのたぐいと考えてよいのでしょうか。確かに、この道筋で考えていくと、かなり発展できそうですが、気がついてみると、心霊学やスコラ哲学まで行ってしまうかもしれないわけですね。ところどころで反省することが必要ということになりますでしょうか。お陰様で、ユング的研究手法についてもちょっとわかった気がします。

 客観的思考と観測を尊重する物理学や天文学でも、どうしようも無い時というのがありますね。素粒子の深淵とか宇宙の始まりとかは、観測手段はごく限られていますし、人間の推測の及ぶ範囲とも思えません。でも、そこで引き下がると商売になりませんので、こういう場合は、そこで起こっている機構の推定において、仮説の一種として「シナリオ」というものを考えます。観測の事実とは矛盾せず、説明できる理論という意味ですが、シナリオというのは演劇作品ですから、無数に書け、膏薬同様どれもよく付き、どれが正しいかは選びようがありません。
 研究者にとっては、どれだけの範囲のシナリオが書けるかというところに眼目があるのでしょうが、何系統かのシナリオが書けることがわかれば、それはもう「わからない」ということがわかったわけですから、そこで引き下がるのがよいということになりそうです。また、「シナリオ」と神話とどこが違うのだ、という批判も出そうです。でも、最低源、科学ですから、「シナリオ論文」には、当面、他に研究方法がない、既存の観測とは矛盾しないということをどこかで謳っておく必要があると考えます(個々の論文では省略されているかもしれませんが、原則的には明言すべきでしょう)。

 それから、「いくら科学が進んでもわからないことがある」というのがありますね。これも、将来を含め、当分の間は事実だと思いますが、だいたいこういうことを言って持論を展開する人は、科学で知られていることと知られていないことの境界をほどんどご存じないように見受けられます。どこまで知られていて、どこからが知られていないかというのは、プロの研究者の自分の専門領域でないと判断できないほどの難題ですから、こういう言葉を軽々に使って持論を展開するのは無責任で、シナリオ論文というのも本質的に、相当の経験を積んだ研究者にしか書けないものと思います。かなり脱線してしまってすみません。

_ 玉青 ― 2018年05月04日 22時28分59秒

今回もだいぶ深いところに入りましたねえ。
例によってこの辺でいったん幕引きにしたいと思いますが、シナリオの考え方はいいですね。「素粒子の脚本家」あるいは「宇宙の戯作者」なんて、実に素敵ではありませんか!『泡沫世界始原時(うたかたのゆめ うきよのはじまり)』という外題で、ビッグバンをネタにした芝居なんてどうでしょう?(^J^)

_ S.U ― 2018年05月05日 08時26分36秒

>芝居
 うーん、シナリオ論文も甘く見たものではないですね。文字通り「世界の大芝居」だったんですね。

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