拝星教徒とは何か2009年11月08日 20時35分20秒

(↑砂漠の薔薇)

「大きな国が星のために滅んだ例は枚挙にいとまありません」
「星のために国が滅んだ例だと?」
 王は眉を寄せた。
                       (稲垣足穂 「黄漠奇聞」)

    ★

東亜天文学会に集う人々を、ちょっと異国情緒をまぶして「拝星教徒」と呼んでみました。でも、ひょっとしたら本当に「拝星教」というのがありはしないか…?
もちろん、日月星辰に対する信仰は世界中に遍在していて、日本でも仏教や道教系の星祭があちこちで行われています。七夕祭りなども、まさにそうでしょう。

でも、もうちょっとそれっぽい雰囲気の「拝星教徒」はいないかな…と検索したら、西アジアのサービー〔サービア〕教徒のことを、拝星教徒と呼んでいる例がありました。(→http://www.daito.ac.jp/gakubu/kokusai/asia21/bazaar/egypt.html

サービア教。これはウィキペディアでも項目立てされているので、それをご覧いただきたいのですが、自分の頭を整理するために、下に改めて記述してみます。

実は、サービア教徒には「本来のサービア教徒」と、それが衰滅した後に、サービア教とは無縁の人々が「自分たちはサービア教徒である」と自称したのに始まる「偽サービア教徒」がいるのだそうです。で、拝星教徒として知られるのは後者、「偽サービア教徒」の方。
「偽」とはいえ、偽の歴史も随分と古く、今では「サービア教徒」と言えば「偽サービア教徒」のことであり、sabeism(sabéisme)は普通名詞で「星辰崇拝」の意味になっています〔←東大出版会『宗教学辞典』参照〕。

何でそんなややこしいことになったか?

本来のサービア教は、一種の洗礼儀礼を有するキリスト教の一分派とも目されていますが、今となっては詳細不明の謎の宗教です。

その後、問題の「偽サービア教徒」が発生したのは9世紀。所はシリア北部(現・トルコ南東部)の街、ハッラーン。ここは古代メソポタミアに遡る、月神シンへの崇拝が長く続いた土地で、後にそこに神秘主義的なネオプラトニズムが習合して、独特の星辰信仰が行われるに至り、それがイスラムの時代になってからも続いていました。

西暦830年、アッバース朝第7代カリフ、マームーンは、そんなハッラーンの民にお触れを出します。「イスラム教に改宗するか、それともイスラム教が公許する他の宗教(キリスト教、ユダヤ教、サービア教)に改宗するか、さもなくばジハードだ!」
そこで、ハッラーンの民は止む無くイスラム教やキリスト教に改宗し、また古来の信仰を棄てたくなかった一部の人々は、サービア教徒を名乗ることになったのです。サービア教は、その頃すでに正体がはっきりしなくなっていたので、「これはサービア教の儀礼なのです」と言い逃れをするには好都合だったからです。

学問が花開き、一時はイスラム世界の文化の中心でもあったハッラーンですが、11世紀の前半、周辺の窮乏したイスラム教徒の民兵組織に襲われて、サービア教徒の神殿やコミュニティは徹底的に破壊されてしまいます。悠遠の歴史を持った拝星教徒が、この世から姿を消したのは、それが原因とも言われます。そして大都ハッラーンも、13世紀にはモンゴル軍に攻め滅ぼされて完全に廃墟と化し、今は城壁の一部が、乾いた大地に空しく立つのみ。

その上空を、月と星は千古の昔に変わらず、静かにめぐり続け…。


■参考
○ウィキペディア:サービア教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%A2%E6%95%99%E5%BE%92
○同:ハッラーン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%B3