モノ思いにふける春2010年04月16日 21時05分55秒

今日は湯船につかりながら、外の雨の音を長いこと聴いていました。

  ★

このサイトは、「理科趣味の雅致をモノにこだわって嘆賞する」ことをうたっているのですが、モノにこだわることの有効性ということが、最近ふと頭をよぎります。

たとえば私の部屋を見回すと、当然いろいろなモノが目に飛び込んできます。
そこに置かれた様々なモノたちを眺めていると、何だか頼もしいようでもあり、痛ましいようでもあります。彼らは、あたかも結界を守る護符のごとく、また仏国土を護持する四天王のごとく、この空間に<平板な日常>が侵入するのと必死に戦っているように見えます。彼らの聖性(もしそう言ってよければ)が失われたとき、この部屋は、そして私の心は、まことに荒涼寂寞としたありさまになることでしょう。

古書にしろ、古物にしろ、彼らの力は一体いつまで、そしてどこまで有効なのでしょうか?
そもそも、私の「ヴンダーカンマーごっこ」の果てに、はたして真のヴンダーはあるのでしょうか?

濁った頭で考えているので、なんだか問いもクリアではありません。

あるいは、事態はまったく逆で、今の私は単なるモノの虜囚であり、モノの力が失われる時、私はようやくリアルな世界に還れるのでしょうか?

こういうドヨーンとした話題を書くのは、年度替りで疲れているせいかもしれません。
ゴールデン・ウィークにゆっくり休めば、たぶん回復するはず。

(↑Photo by TOKOさま。昨春の撮影。許可を得て画像を一部加工。)


コメント

_ かすてん ― 2010年04月16日 22時16分59秒

良く整理されたかっこいい部屋ですね。人体くんもお行儀よく立っています。おや、左上には色っぽい人体ねえさんもいますね。

_ S.U ― 2010年04月17日 06時52分54秒

ついにお部屋の全貌?が姿を現しましたね。まず、私の気になるのは、大型の箱入りの古書らしきものです。

 「古い物」といってもそれをモノとしてとらえる限りは、ただの原子の集団に過ぎず、原子は古くても特に価値はありませんから、この「聖性」は、人間が、それも「心ある人間」だけが与えることが出来る、というふうに考えました。そこからあとは頭が濁ってしまいました。

_ 玉青 ― 2010年04月17日 20時04分20秒

○かすてんさま

ありがとうございます。
ただ…何と言いますか、写真撮影の前にものすごく片付けを頑張ったということを申し添えておきましょう(笑)。
人体ねえさん(笑笑)は、別記事にまとめました。

○S.Uさま

画面下、左寄りに見える箱のことでしょうか。
とすれば、これらは岩石標本やら、植物標本やら、その他の理科教材やらの木箱です。
かさばるので収納に苦労していますが、でもカタッと蓋を開けた時の匂いが何とも言えず、容易に手放せません。

さて、古物の聖性。
もちろんこれは人間の側に宿っているもので、だからこそモノ自体は変わらないのに、ある日を境にあれほど光り輝いていたものが、瓦礫同然のつまらないものに見えたりすることも起こりうるのでしょう。
そういうことは日常もしばしば経験しますが、同じことがこの部屋で大規模に起こったら…。投下資本を考えただけでもゾッとする…というようなセコイことを考える人間は、そもそもモノと向き合う資格はないのかもしれませんが(笑)。

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