天の河原に流れるものは…2012年07月23日 23時16分34秒

(今日は字が多いです。)

昨日の記事にいただいた、S.U氏のコメントに触発されて、以下の本を手にとりました。

五来重(ごらいしげる)著、『増補 高野聖』、角川書店、昭和50


で、これを読んでいて、おや?と思ったことがあるので、忘れないうちにメモしておきます。以下は、高野聖と踊念仏との関係を説いた章節からの引用です。

                *  *  *

 「京都の右京区大原野の石見上里(いわみかみさと)の六斎念仏には「高野聖」という一曲がある。また北近江塩津の集福寺の花笠踊(ちゃんちゃこ踊)にも「ひじり踊」があるが、その文句は三河鳳来町の大念仏放下(放下大念仏踊)の小唄の「流れ聖」とおなじである。

  大天竺の 天の河原で
  ひじりが三人 流れた
  まず一番に 鉦と撞木と
  二番に 笠が流れた
  三番に 笈が流れて
  四番に その身が流れた
  そういうことが 高野へ知れて
  さぞや弟子衆は なげくらん
 (『鳳来町誌』文化財篇)
 
 さっぱり意味のわからない唄であるが、群行の高野聖がなにかの災害で、溺死した事件をうたったのかもしれない。」 (五来上掲書、pp.276-7)
 
               *  *  *

たしかに、「マザーグースのうた」のような、不可解で謎めいた歌です。ちょっと不気味な感じもあります。五来氏は、何か現実の事件を背景にした歌と想像されたようですが、「天の河原」とあるところからすると、これは一種の星辰信仰を背景にした歌ではないか…というのが、今日の私の駄ボラです。(いつものように話半分に聞いてください。)

「天の川のほとりで流された三人のひじり」と聞いて、ただちに連想するのは、野尻抱影が採録した「さんだいしょう(三大星)」、「さんだいしさま(三大師様?)」のことで、これはオリオンの三つ星を指す民俗語彙です。

曲の方は、まず鉦と撞木が、次いで笠が、さらに笈が流れて、最後に3人のひじりが流されたと歌います。ひじりたちが並んで三つ星になったとしたら、彼らが身につけていた鉦と撞木、笠、笈の「3点セット」はどうなったかというと、これは当然「小三つ星」になったのでしょう。探せば、実際にそういう説話・伝承があったような気がしてなりません。

そして、「そういうことが高野へ知れて、さぞや弟子衆はなげくらん」とありますから、ここには、真言系の三つ星を祀る信仰が反映されていると想像されます。

   ★

インターネットは便利なもので、上の類歌を探すと、すぐに次のような例が見つかりました。遠く九州は鹿児島の甑島(こしきじま)に伝わる盆踊り歌です。

「甑島ヤンハ」(下甑)
☆奥山から ちろちろするのは 月か星か蛍か
 お月様なら拝み上げます 蛍虫ならお手に取る ヤンハ
☆天竺の 天の河原に 赤い赤子を流して 
 その赤子に成育さすれば 親の教えんことをする ヤンハ
(出典「九州の盆踊り唄その2」
http://sky.geocities.jp/tears_of_ruby_grapefruit/minyou3/kyushu01.htm

これまた謎めいた歌です。
一番で「月か星か蛍か」と問いかけながら、以下「月と蛍」のことしか言及していません。当然「星」については、二番で歌われている内容がそれなのでしょう。

ここでも、天竺の天の河原で人が流されるのですが、それは「赤い赤子」だと言います。これが「赤い星」の隠喩だとすれば、さそり座のアンタレス、おうし座のアルデバラン、オリオン座のベテルギウス、それに火星などが候補に思い浮かびます。
その赤子は、大きくなると「親の教えんことをする」というのですが、これは何かよこしまな、凶星としての性格をうかがわせます。

上の三つ星からの類推で、これまたオリオンのベテルギウスを指すとすれば、それこそ諸星大二郎ばりに、「参は猛悪にして血を好む」とかなんとか持ち出して、話をふくらませることもできるのでしょうが、今のところは「何となく星に関する伝承を歌いこんだ曲らしいが、詳細は不明」としか言えません。

   ★

もう一つ例を挙げると、山梨県の旧秋山村に伝わる「無生野の大念仏」という、これまた踊念仏系の民俗芸能があります。その詳細は、写真入りで、以下のウィキペディアのページに紹介されています。

無生野の大念仏 http://tinyurl.com/cjaefp2

大念仏踊りが演じられるのは、「道場」と呼ばれる周囲から一段高くなった場所です。その中央には親柱を、四隅には小柱を立て、親柱から小柱へ向けて張られた4本の縄には、それぞれ7本ずつ、合計28本の御幣を下げます。これは二十八宿を表しているとされるので、この道場は明らかに天空世界の表現であり、この大念仏が星辰信仰の影響を受けていることは明らかです。

念仏踊りの演者は、踊りに先駆けて、まず次の文句を唱えます。

「天竺の天の河原の水絶えて、水なき里にからちりちょうずをわが身にかけて、あぴらうんけんそわか」

ここでは上の類歌とは違って、「天竺の天の河原」には水が絶えています。
これはいわば異常な事態と言えますが、この念仏踊りのテーマは、この異常な事態を回復することにあるように見えます。というのも、この無生野の大念仏は、通常の念仏踊りのような「死者供養」とか「後生祈願」ではなしに、「病気平癒」を目的としているからです。

それを示すのが、大念仏のクライマックスにある、「ぶっぱらい」と呼ばれる、一種の舞い事です。これは、布団をかぶった病人役の上を、囃子に合わせて複数の演者が次々に飛び越え、最後に青竹の棒で、掛け布団を素早く払い除けるという所作です。病人役がたまらず寝具から離れ(=象徴的治癒)、「病気引取り」の祈祷を行ったところで、大念仏の儀式は無事終わります。

これは、あるいは岩戸開きの神事がベースにあったのかもしれませんが、この「病気平癒の祈祷」に込められているのは、通常の病気などではなく、天空の異常現象をなだめ、正常な状態に復することを祈願する意図だったとは言えないでしょうか。

   ★

こういう「トンデモ素人考証」は、いくらでも続けられますし、続ける方はなかなか楽しいですが、読まれる方はウンザリでしょうから、とりあえずこの辺でお開きにします。
この件で、何か耳より情報があれば、お教えください。

コメント

_ S.U ― 2012年07月24日 20時12分36秒

またも「宿曜経」に関するコメントから移動しました。

 私も旦那寺の供養日に「念仏踊り」を見たことがあります。無形文化に属するものでしたが、これが真言宗の儀式なのかそれとも民間習俗なのかは存じません。しかし、私の興味のある方向に話題を振ってくださいましたので、そちらのほうについて行こうと思います。

 それは、民間習俗としての天文民俗と、かつて日本にもたらされたアカデミックな東洋哲学(具体的には、当時の専門家が修める仏教、儒学、易学...)がつながっている事例があるかという問題です。この両者はつながりがありそうで実はかなり明瞭に切断されているというのが私の見方です。そして、あるとするならば、仏教習俗、修験道、易や宿曜道の占い、中国暦・和暦あたりが境界の探索対象になると予想されます。それでも、天文に関する民間習俗で、明瞭にアカデミックな宗教哲学にルーツがたどれるものは私の知る限りありません。

 今回ご紹介されたものも俚謡に属するもので高野山仏教の本来の宗旨とは関係なさそうに思いますが、専門家が見れば何かつながるところがあるのかもしれません。弘法伝説はアカデミーの最高峰にあった人が民間伝承になっているもっとも典型的な例なので、探索対象になります。この方面で成果が上がれば、天文民俗学の新たな展開になると存じます。

 今までの関連する探索の試みとして、「二十八宿和名考」、「北斗岩」(筑波山にある巨岩で弘法伝説があるという)などを取り上げたことがあります。ニアミスはいくつかありそうなのですが、関係ありそうな例があれば随時ご教示いただければありがたく存じます。

_ 玉青 ― 2012年07月25日 08時36分54秒

話半分の話題にお付き合いいただき、ありがとうございます。(^J^)

この問題は、考え出すととても大きくなりそうです。
考えれば考えるほど、つかみどころがなくなってくる感じです。
しかし、あえて考えを整理してみましょう。

  +

>これが真言宗の儀式なのかそれとも民間習俗なのか
>高野山仏教の本来の宗旨

そもそも、この点(=純粋な高野山仏教の存在)が少なからず問題です。
空海その人が、もともと私度僧として入唐直前まで山伏的な山林修行を重ねた、怪しげな一面を持った人ですし、高野山に寺を建てたのも、高野山の山神である丹生津比売神の威徳を頼んで、そこに山岳霊場を作る意図があったと言いますから、高野山の存在自体、本来の釈迦仏教はもちろん、中国仕込みの真言密教の教えからも逸脱する要素を当初からはらんでいたように思います。

平安時代も後期になると、世は浄土信仰一色ですから、高野山も「高野浄土」として浄土信仰の一大霊場と化し、そこから発生した高野聖も「南無大師遍照金剛」ならぬ「南無阿弥陀仏」を盛んに唱えながら回国していたと聞きます。

記事中で紹介した五来重氏は、この間の事情をこう述べています。
「現在の高野山を知る人にとって、この山が中世には日本随一の念仏の山であったことは、なかなか理解しがたいであろうし、それがわからなければ、高野聖の発生はいっそうわかりにくい〔…〕。われわれの常識は現に目に見、耳に聞くものに固着してしまう性質があるので、念仏は東西本願寺や知恩院・増上寺・遊行寺の専売特許とおもいがちである。そしてなおさらわるいことには、高野山も中世末から近世にかけて、せっせと高野の念仏を抹殺して、大師信仰におきかえていった。さきにのべたように高野聖の痕跡がほとんどこの山から消え去ったのも、この努力の結果なのである。」(前掲書pp.68-69)

要は、高野山仏教の本来の姿は、曼荼羅で彩られた深遠な密教世界一色とはいかず、山岳信仰とか、念仏とか、法華経読誦とか、元から民衆仏教的な面も併せ持っていたということです。

(ちなみに、現在のような真言密教の学理がまとまったのは、15世紀初頭に「応永の大成」というムーヴメントがあって以来のことで、そこから宗内での念仏弾圧が始まったらしいです。)

   +

それと、「民間習俗」と「アカデミックな東洋哲学」との関係についてですが、私自身は多くの場合、両者は連続した存在だろうという考え方に傾いています。
話題を「天文」に限定せず考えると、かつて吉野裕子さんが『陰陽五行と日本の民俗』で魅力的な論を展開したように、陰陽五行説だけでも日本の民俗行事の多くの部分を説明できそうですし(というよりも、陰陽五行説に基づく中国の習俗が、相当数「翻案」されて日本に流入しているのかもしれません)、道教や仏教系の習俗も併せて考えると、結局日本の民俗行事はほとんどすべて、いわゆるアカデミックな東洋哲学をベースにしているんじゃないかという気がします。

問題は、そうしたアカデミックな思想が、民間に流布した経路ですが、そこには当然「専門家」が介在していたはずです。で、当時の「専門家」の実態ですが、その頃「プロの宗教者」と呼ばれる人には、本山に鎮座する学僧から、市中を徘徊する有象無象の遊行者までいて、その幅がものすごく広かったというのがポイントだと思います。民間の需要に応えて、村々で祭儀や祭祀を執り行ったのは、もちろん後者の人たちで、その数はものすごく多かったと想像します。

   +

ここで、もう一つ押さえておきたい点は、伝統的な村社会の在り方です。
近世の村と中世村落の隔たりは、非常に大きいので、近世の村のありようから中世のそれを類推することは、多くの場合困難です。(柳田民俗学は、もともと歴史的視点が希薄で、大正頃の「古老」の言と、せいぜい江戸時代後期の風俗問状答を援用するぐらいですから、中世社会を理解する上では、むしろ障害となることが多いかもしれません。)

現代人がイメージする「昔の村の祭り」は、「閉じられたコミュニティの中で、村人だけで祭祀が執り行われていた」というものでしょう。村には鎮守様があって、寺には和尚さんがいて、たまには旅人も来たでしょうが、多くは閉じられたムラ社会の中で日常が営まれており、祭儀の役割も住民たちが輪番で務めていた…これももっぱら江戸時代の村の姿をイメージしたものだと思います。

いわゆる「イエ」の成立以前は、人と土地の結びつきは、江戸時代のフィルターを通して見たのでは想像できないほど弱く、人々は容易に流民化し、為政者もそれを留めうるとは思っていなかったようです。もちろん、農作業を継続するにはコミュニティが不可欠ですから、村そのものはありましたが、その成員は入れ替わりが激しかったのが実態でしょう。

村は近世に比べてはるかに開かれており、基本的に宗教者は「外から来る人」でした。中世末期以降、無住の堂庵に僧侶が定住する傾向が強まるまで、村に和尚さんはいませんでしたし、いなくても用が足りるほど、外来の宗教者の数は多かったわけです。高野聖もそうですし、御師、山伏、雲水、三昧聖、願人坊、ボロンジ、放下、唱文師、市子…その他、名も知れぬ行者・加持祈祷師・宗教芸能者が、村々の祭儀・葬儀から病気治療まで一手に引き受けていたのが中世社会なのでしょう。(彼らは彼らで自生的組織を作り、中央とのつながりがあった点に、アカデミズムとの連続性を見ることができます。)

もちろん、その残影は近世を越えて近代にまで伸びていますが、その実態と機能において、中世のそれとは大きく異なっていたと言わざるを得ません。

ちょっと突飛な喩えですが、現在言うところの民俗芸能というのは、言ってみれば「村芝居」、「田舎歌舞伎」なのだと思います。つまり、村の中から自生したのではなく、外部にお手本があって、それを咀嚼模倣したものが、今の民俗芸能だろうということです。端的にいうと、中世においては、年々の祭儀をアウトソーシングしていたのが、近世になってサービス供給が断たれたために、やむを得ず村人自らが演じて「素人芸」化したのが、今の民俗芸能ではあるまいか…というのが私見です(ちょっと大胆ですが)。

    +

S.Uさんのコメントとずれてしまいましたが、頭を整理するためにメモ書きしてみました。
天文民俗にしぼって、その歴史や教理的背景を考える作業は、今後も続けていきたいです。

_ S.U ― 2012年07月25日 20時31分04秒

おぉ、また大問題を提起していましたね。どうも話半分が増幅されて大展開する危険が大きいようです(笑)。

 一足飛びに解決する問題ではありませんが、おかげさまで、天文民俗の問題について半分くらい指針が示されたように思います。それは、見かけ上の天文民俗と東洋哲学の不連続性は、やはり東洋哲学が日本の村へそういう結果を招くような形態での輸入が中世になされたということが片側の要因としてある、ということではないでしょうか。ご指摘のように、外来の修行者、占い師のような人の影響が大きかったことを物語っているように思います。

 もう片側は受け取る当事者の問題ですが、現在広く知られている天文民俗は、星の和名であっても俚謡であってもまた年中行事であっても、五行説に起因してはいても「大陸臭」、「学問臭」というものがほとんどなく、あってもそこが重んじられていません。むしろ、その土地に合った習俗や農漁業を生業とする人の知恵が価値の高い伝承として伝えられているように感じられます。これは一神教の国に残る土俗信仰のようなものなのかもしれませんし、日本人の性格ということもあるでしょう。ご指摘のように中世と近世で「生活のための哲学」が分断されていることも大きいはずで、そのことが問題を難しくしているようです。哲学のもっともベーシックな部分だけが残ったのかもしれません。

 それでも、この問題は、少数例(例外としてアカデミックな哲学と明瞭に結びついている伝承)を探索することによってより深く検討できるであろう、というのが私の動機です。もともとは、天文民俗学と近世自然哲学史を結びつけて、科学思想普及史のようなものを考えたいというのが私の意図でした。

柳田民俗学も天文民俗の問題も、ほぼ並行した方向の批評になるのではないかと思います。柳田においても、村々に伝わる伝承(少なくとも彼が魅力があると感じたもの)に大陸臭が少ないことから、それを、ダイレクトに「原日本人」(琉球とアイヌにおいて近代まで残った)まで遡ってしまったと考えます。土着信仰、山岳信仰を中世史で説明することは考えたとは思いますが、それは彼にとって魅力あるストーリーの完成とはならなかったのでしょう。特に、彼は始めから「山人の実在」のショックを受けていますから、原日本人→山人→農漁村の常民 (「客人=山人」)というルートを作り上げてしまったことが問題だったでしょう。民俗学が歴史を捨象したところに成立したものだとすると、そこに具体的な歴史的事件を適合させるにはやはり困難があるのかもしれません。また、柳田は、仏教に関する習俗との関連研究を意図的に避けたようです。これについては研究があると思いますが、私は存じません。

 天文民俗については、相手がどこでも見られる自然現象ですから、なおさら民俗学特有の特徴を持っているのかもしれません。でも少数側の例を見つけられましたら、ぜひよろしくお願いいたします。

_ 玉青 ― 2012年07月25日 22時11分19秒

なるほど、私はS.Uさんの問題提起を少し誤解していました。
S.Uさんが民俗とアカデミズムの切断を言われたのは、人々(=柳田が言うところの常民)の意識を問題にされていたのですね。私はその意識の背後にある構造に気が向いていたので、そこに行き違いがあったようです。

確かに意識の上では、両者が完全に切れている場合が多いのでしょうね。
まあ、民俗行事の多くは、行事の当時者もその由来がわからぬまま続けているのでしょうが、しかし、「実はかくかくしかじかで、それは道教の○○に由来しているのだ」といった説明が可能な場合も多いので、そこにはいわば切断と連続の両方があるのでしょう。

柳田は仏嫌いで、仏教的習俗の外皮を剥いで、日本古来の民俗を明らかにしたいという強力なモチベーションがありましたが、それ自体がバイアスとなって、妙な結論を下していることが少なくないように思います。実際にはむしろ、原日本的と思える民俗の外皮を剥いだら、あにはからんや、そこには仏教教理や陰陽五行説が潜んでいた…という例も多いと睨んでいます。

   +

>天文民俗学と近世自然哲学史を結びつけて、科学思想普及史のようなものを考えたい

これは上で述べたこととは、また別の問題として論じることができそうですね。
特に生活の必要の中から生まれた知識については、仏教も道教もないですから、そういういわば「民衆の素朴科学」と「既成科学/外来知識」との相互関係や、その変遷史は興味深い問題だと思います。

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