『夏帽子』 の季節2012年08月05日 17時15分50秒

この時期になると読みたくなるのが、長野まゆみさんの『夏帽子(作品社)。


代替教員として、あちこちの学校を回りながら理科を教えている紺野先生と、生徒たちのみずみずしい交流を、端正な言葉づかいで描写した佳作です。

   白い夏帽子。
   旅行鞄。
   ひと夏限りの 理科教師、
   紺野先生が現れたとき ぼくらの 夏の扉は開かれた―。
                                  (本の帯より)

この作品に筋らしい筋はありませんし、特に深い話が展開するわけでもありません。
一所不住の紺野先生と、行く先々での教え子たちが、涼しげな言葉を交わし、美しい理科的イメージを共有し、一抹の寂しさを残して別れていく…その繰り返しです。

(『夏帽子』のラストシーン。紺野先生の「旅」はまだまだ続くようです。)

後から加筆された章には、「人間に化けた子狐」が登場したりして、ファンタジーの体裁を整えようとした形跡がありますが、これはどちらかといえば無用の工夫でしょう。そんなものがなくても、紺野先生の存在自体が、十分にファンタジーだと言えるからです。

この作品は、<理科教師の姿をした風の又三郎>と呼ぶのがいちばんふさわしいと思います。そしておそらくは、賢治作品や、理科教師だった賢治その人へのリスペクトも込められていると思います。

紺野先生の授業は大体がこんな風です。

 登校日の朝礼で、紺野先生のことが知れた。その朝も、すでに鉄棒の妙技を披露していた先生は、生徒たちの少し気恥ずかしいような笑いに迎えられる。さっそく理科室へ落ちついた紺野先生は、通りがかりの生徒たちを集めて観察会をはじめ、ルーペで水入りの水晶を見せてくれた。透徹った鉱物のなかを気泡が移動する。次に、食べられる石があるよ、と云って紺野先生が皆に配ったのは、実は鉱物ではなくて水晶石榴だった。

 石榴といえは紅玉(るびい)色の果しか知らなかった生徒もいて、その後で紺野先生が見つけたという野生の水晶石榴を見にでかけた。学校の裏山だ。先生はこの町に来たばかりなのに、生徒たちよりよほど詳しい。夏の林はヤマモモの果実の盛りで、生徒たちはてんでに摘んでほおばりながら、紺野先生の後をついて行った。
「ほら、玉虫の翅が落ちてる。箪笥にいれておこう。」
 紺野先生はそういって拾った玉虫の翅をポケットへしまった。
                                   (『夏帽子』第2章より)

現役の理科の先生からすると、あるいは紺野先生の授業は、博物学の授業であって、決して理科の授業ではない…と思われるかもしれません。それぐらい先生の授業は系統だっていないし、単なる雑学の披露にとどまっている部分が多いのです。

しかし、こんな授業を受けてみたかったなあ…と多くの人は思うのではないでしょうか。私も心底そう思います。そしてまた、けだるい夏の午後には、これぐらいの授業でないと、頭に入りそうにありません。

   ★

この本には、黒田武志さんのオブジェ作品がところどころに挿入され、理科的興趣を添えています。


とても美しい体裁の本です。
(装丁は松田行正氏。鉱物好きの方には、米澤敬氏による、 『TERRA Sakurai Collection』 や 『MINERALIUM INDEX』 の造本を手がけた方、と言ったほうが分かりやすいかも。というよりも、両書の発行元、牛若丸出版の主宰者その人です。)


【付記】
一応、「新本」のカテゴリーに入れましたが、奥付を見たら、この本が出たのはもう18年も前のことです。最初、雑誌「MOE」に連載され(1993~94年)、その後書き下ろしの章を加えて、94年8月に単行本化されました。

コメント

_ ねこぱんち ― 2012年08月05日 22時00分55秒

この本は読んだ事があります。
長野まゆみさんといえば昨夜のNHKFMシアターで「八月六日上々天氣」を放送していました。広島局制作で知り合いも出演していましたよ。

_ 玉青 ― 2012年08月06日 06時12分31秒

FMシアターはときどき聴いていますが、先日の放送は聞き逃しました。
私は長野さんの作品を3冊ぐらいしか読んだことがないので、「八月六日」も未読です。
他の方のレビューを読むと、長野さんには珍しく、「硬派」な作品のようですね。

ともあれ、今日がその6日。
67年目の<あの日>を迎えましたね。
蝉がしきりに鳴き、今日も暑くなりそうです。

_ たつき ― 2012年08月06日 09時27分31秒

玉青様
「夏帽子」は私も大好きです。暑さを忘れさせてくれる、透明で涼やかな文章です。玉青さんが買われた硝子のクワガタの説明文など、まさに長野まゆみか宮沢賢治か、という感じで素敵でした。ぜひきちんとした文章にされたら、と思います。楽しみにしております。

_ 玉青 ― 2012年08月06日 21時26分35秒

あ、たつきさんも『夏帽子』ファンなのですね。
本当に夏に涼を求めるのに、ふさわしい作品ですよね。
まあ、私の文章についてはなんですが、でも、ものの見方や感じ方がいかにも散文的という自覚があるので、賢治のような詩ごころが、ほんのちょっとでもあるといいなあ…とよく思います。

_ Sora ― 2012年08月06日 22時46分51秒

「夏帽子」多分持っていた筈なのですが、本棚探したら見当たりませんでした。
昨年の震災時に書籍が雪崩起こしてしまったのを機に、相当数の本を処分してしまったので、その際に一緒に処分してしまったのかもしれません。
皮肉な物で手許に無いとなると読み返したくなってきました…(苦笑)
取り敢えず今宵は長野まゆみさんの「ことばのブリキ罐」でも…。

_ かすてん ― 2012年08月07日 16時30分57秒

この作家のものを私は読んだ事が無かったので、さっそく図書室で借りてきました。
他に『鉱石倶楽部』『天然理科少年』などのタイトルからして理科少年、理科少女の世界は玉青さん趣味にぴったりですね。

_ 玉青 ― 2012年08月07日 21時43分02秒

○Soraさま

震災被害がそんなところにまで及んでいたとは。本当に残念な経験をされましたね。
でも幸い、この本は何度でも買い直すことができますから、このあたりでささやかな復興を志されてもよいかもしれませんね。

○かすてんさま

おお、読まれましたか。長野まゆみさんは、一定年齢以上の男性が決して手に取らない種類の作家だというのが、世間一般の評価だと思いますが、しかし、かすてんさんにしろ、(お名前を出して恐縮ですが)S.Uさんにしろ、長野さんと本来縁遠い方への啓発を成し遂げたことによって、私は長野さんに感謝されるか、あるいはうとまれるか(笑)、いずれにしても、その働きを自ら多としたいと思います。

_ かすてん ― 2012年08月07日 22時29分34秒

>長野まゆみさんは、一定年齢以上の男性が決して手に取らない種類の作家だというのが、世間一般の評価だと思いますが、〜

でも、年令はS.Uさんや私と同世代と言える範囲ですね。時代の風景色(それも東京の)を共有している様なので読むのが楽しみです。

_ 玉青 ― 2012年08月08日 21時35分24秒

なるほど、たしかに同世代ならではの時代感覚というのはありそうですね。
ちなみに長野さんと同世代(1959年プラスマイナス1年生まれ)の作家を調べてみたら、以下のような顔ぶれでした。

山田詠美、田口ランディ、有栖川有栖、内田春菊、中沢けい、東野圭吾、川上弘美、家田荘子、鴻上尚史、石田衣良、新井素子、宮部みゆき

ぱっと見、共通点は思い浮かびませんが、時代感覚という点では何かあるやも…。

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