パトリック・ムーア氏のこと ― 2012年12月10日 21時24分08秒
今日は思わぬ初雪。
パトリック・ムーア卿(1923-2012)の訃と重なったのは偶然にしても、窓から見える景色がいつにも増して心に沁みます。
パトリック・ムーア卿(1923-2012)の訃と重なったのは偶然にしても、窓から見える景色がいつにも増して心に沁みます。
ムーア氏は、元はれっきとした英国空軍将校。
禿頭にトレードマークの片眼鏡をかけて、愛用のオンボロタイプライターをパチパチ叩く晩年の姿は、微笑ましくも一寸怪人めいた雰囲気がありました。しかし、写真で見るかぎり、壮年の頃はスラリとした、まことに男っぷりの良い人だったようです(この点は野尻抱影翁もそうでした)。
(36歳のムーア氏)
1つ前の記事で、ムーア氏を「イギリスの野尻抱影」と書きました。
氏は専門の天文学者ではなく、あくまでもアマチュアの立場で情報発信を続けながら、専門家を含む多くの後進を育てた点でも、野尻抱影とよく似た立ち位置の人だったと思います。(ムーア氏の知名度が日本で今ひとつなのは、まさに抱影翁がいたせいかもしれません。もし抱影翁なかりせば、日本でももっとその訳書が歓迎されたかも…)
1つ前の記事で、ムーア氏を「イギリスの野尻抱影」と書きました。
氏は専門の天文学者ではなく、あくまでもアマチュアの立場で情報発信を続けながら、専門家を含む多くの後進を育てた点でも、野尻抱影とよく似た立ち位置の人だったと思います。(ムーア氏の知名度が日本で今ひとつなのは、まさに抱影翁がいたせいかもしれません。もし抱影翁なかりせば、日本でももっとその訳書が歓迎されたかも…)
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ただ、抱影との大きな違いは、その活躍の場が文筆の世界にとどまらず、テレビにまで広がっていたことです。ムーア氏を語るとき、必ず言われるのが、イギリスBBCの天文番組「The Sky at Night」の司会(※)を、長年にわたって続けられた功績です。イギリスでは、氏の名とこの番組は不即不離であり、「同一番組連続最長司会者」というのが、いつの頃からか、氏を語るときの枕詞になっていました。
手元に、「The Sky at Night」の単行本第4巻(1972)があります。1970~72年に放映された内容を書籍化したものですが、その序文で、BBCのオーブリー・シンガーという人が、こんなことを書いています。
「今やテレビの最長寿シリーズとなった彼の番組、The Sky at Nightは、1957年4月に始まった。ロシア人が、小さいながらも偉大な彼らの衛星・スプートニク1号を打ち上げる半年前のことである。それ以来放映された約275本の番組の中で、パトリック・ムーアは宇宙時代が成し遂げた成果と推論を幅広く取り上げ…」
この一文が書かれてから早40年。まさか40年たっても、依然この番組が続いているとは、シンガー氏も予想だにしなかったでしょう。そして、ムーア氏その人が、司会を続けているとは!
(※)「司会」というよりも、語り手/プレゼンターと呼ぶ方が適切かも。
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残念ながら、私は生前の氏とお会いすることはできませんでした。
以前、日本ハーシェル協会の一員として、英国ハーシェル協会の年会に参加したとき、本当はムーア氏も参加されるはずだったのですが(氏は同協会の名誉会長でした)、体調がすぐれず欠席されました。
ただ、以前も書いたように(http://mononoke.asablo.jp/blog/2008/04/20/3209982)、ハーシェル協会の用務で、一度だけお手紙を頂戴したことがあります。あの老タイプライターがカタコト打ち出したお手紙を。。。
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ともあれ、天文趣味の1つの時代が終わったのは確かです。
上で氏のことを老怪人のように書きましたが、実際の氏は誰にも腰の低い、真にジェントルな人であったと言います。心からご冥福をお祈りします。
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以下はおまけ。
『The Sky at Night』第4巻は、たまたま日本関連の記事で始まっています。
1969年10月に発見された「多胡-佐藤-小坂彗星」が、もうじき天空に壮麗な姿を見せることを期待する内容(1970年1月12日放映)。
残念ながら、その期待は裏切られたことが、単行本化するにあたって注記されていますが、氏が日本のアマチュア天文家の活動にも注目していたことが分かる記述です。
コメント
_ S.U ― 2012年12月11日 07時39分27秒
_ 玉青 ― 2012年12月11日 20時30分20秒
花の色は移りにけりな…の感慨は、あながち女性ばかりとも限りませんね。
ときに今アマゾンで見たら、ムーア氏の本は邦訳が出てないわけでもないのですね。
ただ、いずれも子ども向きというか、天文マニアの向けの本はごく少ないようです。
日本では、それこそ抱影翁やそのお弟子さんのニッチ的な場所しか得られなかったせいかもしれません。
ときに今アマゾンで見たら、ムーア氏の本は邦訳が出てないわけでもないのですね。
ただ、いずれも子ども向きというか、天文マニアの向けの本はごく少ないようです。
日本では、それこそ抱影翁やそのお弟子さんのニッチ的な場所しか得られなかったせいかもしれません。
_ S.U ― 2012年12月13日 06時07分37秒
パトリック・ムーア氏の訳書の出版で私が具体的に記憶しているのは、『火星』(1975)だけです。書店で見たかどうかは記憶にありません。
Amazonのリストを見てみるに、ムーア氏の訳書は、初期は宇宙開発・SF的なものが多く(上記『火星』はその最後に属するもの)で、その後は入門者向けのものが多くなったようです。私の世代は、それらのちょうど端境期にあたっていて、訳書を読むチャンスを逸したのかもしれません。
Amazonのリストを見てみるに、ムーア氏の訳書は、初期は宇宙開発・SF的なものが多く(上記『火星』はその最後に属するもの)で、その後は入門者向けのものが多くなったようです。私の世代は、それらのちょうど端境期にあたっていて、訳書を読むチャンスを逸したのかもしれません。
_ 玉青 ― 2012年12月15日 11時56分39秒
遅レス失礼しました。
>端境期
なるほど、谷間世代ってありますよね。
そういう谷間は個人の中にも生じ得て、私の場合は天文趣味から遠ざかっていた80年代の天文知識が完全に欠落しています(だから、日本ハーシェル協会が華々しく結成された…なんていうことも全く知らずにいました)。
>初期は宇宙開発・SF的なものが多く
タルホに限らず、デビュー作が著者のその後の方向性を決定づける例は多いようです。
国会図書館のデータベースで改めて見てみると、ムーア氏の場合、本国はいざ知らず、日本でのデビュー作は、昭和31年に講談社の「少年少女世界科学冒険全集」に収められた『金星の謎』であり、第2作は翌年同じシリーズから出た『魔の衛星カリスト』だそうです。
なんでも後者は、「世界連邦遊星省の探検隊がナイジェル少年を交えて木星の第4衛星カリストを探険する」というあらすじだそうですが、この辺がムーア氏の日本における位置づけを決めたのかもしれませんね。
その後も、岩崎書店の「少年少女宇宙科学冒険全集」(講談社のパクリ企画?)から、『火星救助隊』(昭和36)とか、『凍った宇宙』(昭和38;宇宙開発にとりくみはじめた20世紀を基盤に22世紀まで話をのばした英国の空想科学小説だそうです)などが立て続けに出ており、当時の読書界ではもっぱら「空想科学作家」という扱いだったようです。
ムーア氏に対する冷遇は、日本の天文学界が氏を「ジャーナリスティックなアマチュア天文家」以上に見てこなかったことの反映かもしれませんが(そして、それが間違いというわけでもないのですが)、でも英国での厚遇ぶりとの落差はいやでも目につきます。
>端境期
なるほど、谷間世代ってありますよね。
そういう谷間は個人の中にも生じ得て、私の場合は天文趣味から遠ざかっていた80年代の天文知識が完全に欠落しています(だから、日本ハーシェル協会が華々しく結成された…なんていうことも全く知らずにいました)。
>初期は宇宙開発・SF的なものが多く
タルホに限らず、デビュー作が著者のその後の方向性を決定づける例は多いようです。
国会図書館のデータベースで改めて見てみると、ムーア氏の場合、本国はいざ知らず、日本でのデビュー作は、昭和31年に講談社の「少年少女世界科学冒険全集」に収められた『金星の謎』であり、第2作は翌年同じシリーズから出た『魔の衛星カリスト』だそうです。
なんでも後者は、「世界連邦遊星省の探検隊がナイジェル少年を交えて木星の第4衛星カリストを探険する」というあらすじだそうですが、この辺がムーア氏の日本における位置づけを決めたのかもしれませんね。
その後も、岩崎書店の「少年少女宇宙科学冒険全集」(講談社のパクリ企画?)から、『火星救助隊』(昭和36)とか、『凍った宇宙』(昭和38;宇宙開発にとりくみはじめた20世紀を基盤に22世紀まで話をのばした英国の空想科学小説だそうです)などが立て続けに出ており、当時の読書界ではもっぱら「空想科学作家」という扱いだったようです。
ムーア氏に対する冷遇は、日本の天文学界が氏を「ジャーナリスティックなアマチュア天文家」以上に見てこなかったことの反映かもしれませんが(そして、それが間違いというわけでもないのですが)、でも英国での厚遇ぶりとの落差はいやでも目につきます。
_ S.U ― 2012年12月15日 22時00分54秒
>当時の読書界ではもっぱら「空想科学作家」という扱い
そうなんですか。それはまったく存じませんでした。私は、はじめから最近まで、パトリック・ムーア氏をプロかアマかは別にして専門の天文研究者だと思っていました。
1970年代には、英国のフレッド・ホイルという超有名な偉い天文学者がSF小説を書いていることが日本でもよく知られていました。その20年ほどのあいだに日本で時代の変化があったのかもしれません。
なお、フレッド・ホイルもBBC の天文学に関するラジオ番組に出演していたといいますので、英国ではその手の活動姿勢を専門家の仕事として高く評価する風土が早くから出来上がっていたのでしょうか。それとも、日本の天文界が(山本一清氏の努力もむなしく)遅れていたというべきかもしれません。
(Wikipedia:フレッド・ホイル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%83%AB
そうなんですか。それはまったく存じませんでした。私は、はじめから最近まで、パトリック・ムーア氏をプロかアマかは別にして専門の天文研究者だと思っていました。
1970年代には、英国のフレッド・ホイルという超有名な偉い天文学者がSF小説を書いていることが日本でもよく知られていました。その20年ほどのあいだに日本で時代の変化があったのかもしれません。
なお、フレッド・ホイルもBBC の天文学に関するラジオ番組に出演していたといいますので、英国ではその手の活動姿勢を専門家の仕事として高く評価する風土が早くから出来上がっていたのでしょうか。それとも、日本の天文界が(山本一清氏の努力もむなしく)遅れていたというべきかもしれません。
(Wikipedia:フレッド・ホイル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%83%AB
_ 玉青 ― 2012年12月16日 12時43分02秒
ふと『ビクトリア時代のアマチュア天文家』を思い出しました。
日本では軽く見られがちなアマチュアの活動や「専門家の余技」が、英国では今でも相対的に重視されているのかもしれませんね。
日本では軽く見られがちなアマチュアの活動や「専門家の余技」が、英国では今でも相対的に重視されているのかもしれませんね。
_ S.U ― 2012年12月17日 07時17分39秒
>「専門家の余技」
日本と欧米との差は結局はここかもしれません。天文分野でアマチュアとプロの肩書きを区別して見ることがかつては多かったのでしょう。
現在では、もうそういうことはなくなったと思います。プロ、アマチュアといっても、経歴や得意分野がさまざまになりましたので、おおざっぱな二分法が機能しなくなったのだと思います。
日本と欧米との差は結局はここかもしれません。天文分野でアマチュアとプロの肩書きを区別して見ることがかつては多かったのでしょう。
現在では、もうそういうことはなくなったと思います。プロ、アマチュアといっても、経歴や得意分野がさまざまになりましたので、おおざっぱな二分法が機能しなくなったのだと思います。
_ 佐藤健Takeshi(Ken) SATO ― 2016年12月29日 10時36分34秒
Mooreの読みは、正しくはモーアです。Mooreさんご自身に問い合わせましたら、「私自身は、私の名前はモーアだと思っているが、私の友人の多くはモーとしか言わない」という返事でした。
_ 玉青 ― 2016年12月31日 20時05分01秒
ご教示ありがとうございます。
固有名詞の表記はほんとうに難しいですね。
上では慣用に従って、「ムーア」と表記しましたが、今後発音する際には気を付けたいと思います。
固有名詞の表記はほんとうに難しいですね。
上では慣用に従って、「ムーア」と表記しましたが、今後発音する際には気を付けたいと思います。
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残念ながら私はムーア氏の訳書を読んだというはっきりとした記憶はありません。抱影ばかり読んでいたからだろうと言われるとその通りかもしれません。でも、その時代にムーア氏の書いたものをまったく目にしていないはずはないと思います。すぐれた星空の解説を書く人は、抱影氏もそうですが、星が好きな少年少女なら作者の名前を知らなくてもその作品に触れることが出来るような人たちと言えると思います。