続・東大発ヴンダーの過去・現在・未来…西野嘉章氏の軌跡をたどる(5)2013年04月28日 11時38分45秒

この連載もだんだん泥沼に入って苦しくなってきました。

私の場合、たいていそうですが、今回も「書いているうちに何とかなるだろう」と思い、書く対象について、ろくすっぽ知らぬまま書き始めました。で、実際どうにかなればいいのですが、今のところあまり結論が見えません。特にマーク・ダイオンの話になると、いっそう私には理解の及ばぬところが出てきます。

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何がそんなに分かりにくいのか。
私には正直のところ、当時の西野氏の思考の流れがよく分からないのです。
西野氏はダイオンの「ミクロコスモグラフィア」展の意義を、展覧会図録の中でこう書いています。

「集類にせよ分類にせよ、近世に至ってからの学問はそのシステマティクスへの参入を拒むモノすなわち、中世にあってあれほど生き生きとその存在感を放っていた欄外物(marginalia)をしだいに許容しなくなった。事実、時代が推移するなかで知識や技術の分化に弾みがつき、古くから大学とともに学術の母胎となった博物館もまた、自然、歴史、民族、美術など、そのコレクションを特化させる方向へ流れていった。〔…〕そのため、博物館は世界全体を包摂する「器」として機能しづらくなり、コレクション形成に不可欠な想像力も眼に見えて衰退してきている。(図録p.19)

「もし、この欠落を補い得る者がいるとすれば、それは美術家なのではなかろうか。サイエンスは論理的であること、実証的であることを義務づけられており、人間の知的活動としていかにも不自由である。その点でアートの世界は自由である。」(同p.21)

私が分かりにくいと思う点はいくつかあるのですが、まず1点目は、上記のことを西野氏がどこまで本気で主張されているのかという点です。

「近代以降、還元主義的方法論が優勢となり、専門分野の細分化が進んだ。学問の対象も、その主体も、ともに切り刻まれて、今や世界全体が見えなくなってしまった。博物館もまた然り。そこで喪われたものがいかに大きいことか。そうした弊害を乗り越えて、もう一度森羅万象を見つめ、全宇宙に及ぶ想像力を取り戻そう。そのために、今こそヴンダーカンマーの復権を!!」

氏の文章を平たく言うと、こういうことだと思います。
これはヴンダーカンマーについて語られるとき、必ず主張される内容のように思いますが、でも落ち着いて考えると、よくわからない主張です。そして、後述のように、たぶん歴史的事実ともずれています。

私の疑念は、西野氏もそのことは百も承知で、学内の文化財保存というシンプルな目的のために、あえてプロパガンダ=お題目として、そういう主張をされたのではないかという点にあります。

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前々回の記事で、「東大120周年展」を特集した『芸術新潮』誌上に、西野氏と荒俣宏氏の対談が載っていたことに触れました。西野氏から同展覧会の狙いの1つに、ヴンダーカンマーの再現があったと聞き、荒俣氏は「やっぱりそうか!」と膝を打ちましたが、荒俣氏はそれに続けて、実はこんなことも述べています。

荒俣  やっぱりそうか! でもね、中世までの学問てきれいに整理されすぎて疑問とか驚きはなかったんですよ。ところが博物館ができて奇妙なものや新しいものを次々に見せた。そのめまい〔3字傍点〕が近代的覚醒につながったんだ。」

西野氏が書かれていることと真逆ですが、たぶん、事実はこちらが正しいのでしょう。

ヴンダーカンマーは、決して中世的知の精華などではなく、あくまでも近代的知(≒実証科学)の曙であり、露払いに過ぎなかったと思います。そして、舞台でちょっとした立ち回りを演じたあと、近代的知の主役たちが登場するやいなや、唯唯として舞台の袖に引っ込んだのではなかったでしょうか。

(デンマーク人、Ole Worm が築いたヴンダーカンマー。1655年。ウィキペディアより)

20世紀の終わり近くになって、ヴンダーカンマーが再評価されたのは、それなりの歴史的必然があってのことでしょうし、それは人々の心に多少のさざ波を立てたことでしょう。しかし、それは決して近代へのプロテストとして大きな力を持ち得るようなものではなかったし、結局は一時の文化的流行として、あっという間に消費されてしまった観がなくもない。といって、それは別に悲しむべきことではありません。かつて歴史的に存在したヴンダーカンマーだって、似たような立ち位置だったのですから。

要は、かつてのヴンダーカンマーの作り手たちは、壮大かつ深遠な全体知など求めてはおらず、単に面白がっていただけではないのか…という疑いを、私はどうしても拭い去ることができません。

確かにヴンダーカンマーは、世界のありとあらゆるものを手中に収めたいという熱意に裏打ちされていたのでしょう。でも、それは権力者が、自己の権力を可視化するものとして、時空を隔てた遠い世界からの到来物を、熱狂的に欲したからに過ぎず、深い叡智の営みなどではなしに、むしろ小児的欲求の反映だと思います。

(ヴンダーカンマーには、権力者のそればかりでなく、学者や聖職者が自己の研究ツールとして構築したものもありますが、そちらは近代的博物館と完全にコンセプトを共有しており、単に方法論が未熟であったために、たまたまヴンダーカンマー的相貌をとったのだと考えます。)

個人的には、ヴンダーカンマーを必要以上に祭り上げてはいけないと思います。
それは好事家が面白がる対象ではあっても、しかつめらしく語るようなものではないんじゃないでしょうか。

だからこそ、西野氏がヴンダーカンマーをアートとして再生しようという、後段の主張はよくわかります。しかし、だったら前段の講釈は不要で、いっそ蛇足ではなかろうか…というのが、私の意見です。むしろ、前段をまじめに主張すればするほど、ヴンダーカンマーの再生がアートという形をとる必然性は乏しくなるような気がします。

はたして西野氏の心底やいかに。

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次に私が分かりにくいと思う第2の点は…
と書きかけて、ちょっと頭を休めるために、ここで記事を割ります。

なんだか、どうでもいいことにこだわっているような気もしますが、自分にとって「驚異の部屋」とは何か、この機会に思考を整理するのもいいと思って、もうちょっとクダクダしく続けます。

(この項つづく)