雨上がり2016年07月27日 07時10分14秒

ブログの趣旨とはずれますが、もう1回、思いを書き付けます。

   ★

私なりに被害者の気持ちを推し量って、あの犯人に向って何か言うとすれば、「馬鹿野郎、勝手な理屈をこねるな。こっちだって、別に好きで障害者やってるわけじゃねえんだよ」と真っ先に言いたいです。

ハンデと、ハンデを負わされている人を同一視することは、彼(犯人)自身の過ちであり、彼に関する議論を歪ませることにもなると思います。端的に言って、彼は「袈裟が憎いから坊主まで憎む」愚を犯しています。

もし障害を憎むのだったら、障害に立ち向かう医療や教育の道を志したり、障害が障害とならないよう社会の仕組みを改めたり、世間の意識を変えていく方向に力を傾けるのが、より正義にかなった行いです。障害を憎むあまり、障害を負った人自身を攻撃するのは、どう言葉を尽くしても、不正義のそしりを免れません。

   ★

もちろん、障害はアプリオリに「憎むべきもの」ではありません。
「障害も個性であり、その人の切り離せない一部だ」という、大切な論もあります。

ただし、それは、「私は障害者以前に『人』である。何よりも障害を持った『人』として尊重してほしい」という意見と、何の矛盾も無く両立します。「その上で、この障害も私の個性として認めてほしい」という意見を、私は尊重します。そして、「障害を受容している人」や、さらに「自らの障害を愛している人」を、私は無条件で尊重します。そして、その人とともに、彼(彼女)の障害を大切にしたいと思います。

そのことを認めつつも、私はあの犯人に立ち向かうために、最初の論に立ち返る必要を感じています。

コメント

_ ZAM20F2 ― 2016年07月27日 08時31分28秒

今回の事件、整理できずに混乱していたのですが、記事を拝読して、すとんと心に落ちました。ありがとうございます。
今回の犯人の考えを推し進めていくと、劣った人間は生きている価値がないというナチスの思考につながっていくわけですが(そういえば、ナチスは障碍を持った人も収容所に送り込んでいたようです)、ちょっとした運不運によって社会の階層が固定していくような世の中にあって、「価値」と称するもので人を区別していくような考え方はなんとしても防がなければと感じています。
サンテグジュペリは人間の平等さについて、人の能力などというものは、神の前には無に等しいので、他の人より優れているなんて考え方は無価値だし、人間社会は伽藍のようなもので、伽藍においては基礎の石も頂上の石も等しく必要なものなので同じ価値を持っており頂上にいるからといって誇ることは意味がないというようなことを記していたと思いますが、さて、神のいない世の中で人の平等の基盤をどこに構築するのかは悩むところです。(それに神がいても、異教徒を殺すようでは人の役にはたちませんしね)
それにしても、科学技術の発達により世の中は、さらに難しくなっています。出生前診断により生まれてくる子供が障碍を持っているのかが分かるようになってきました。人はいつ人になるのでしょうか、きちんとした合意は存在していない気がします。一つの基準を作ってしまうのは間違いなのかもしれませんが(多様性は重要なことであります)、それにしても、ある程度の考えの整理は必要なのだろうと思えています。

_ S.U ― 2016年07月27日 08時54分30秒

人間の心理の問題として、
 
 人間は、誰でも、自分については、自身の容貌や肉体の形態と自分の精神とを完全に切り離して認識している。
 一方、他人については、その容貌、肉体の形態とその精神とを、相当連結させて認識している。

 ということを聞きます。自分の経験でも、大なり小なりそんなものかな、と思います。「人間は外見が9割」ということも聞きます。いっぽう、その外見を知らずに通信やネットだけでつながっている友だちには、独特の密接な感情や妄想が生じることがあります。
 おそらく、これは人間が、他人と密着した集団生活を行う上での、.自己の生存や種の保存のために身につけた本能なのでしょう。でも、理性的に考えると、これは手前勝手なあまり正当らしくない見識だということになると思います。
 少なくとも、この「本能」については理性で克服するように努力する、他人についても外見と精神を切り離すというまっとうな見方ができるように普段から意識的に気をつけるべきではないかと思います。

 それとは別の問題として、今回の犯人は、福祉や障碍者の介護についてかなりの勉強の機会と実地の経験があった人のようですので、こういう特異な感情をもつ何らかの原因あるいは事件があったのではないかと思います。それが何かを突きとめ、それがある程度普遍化できるものであるならば、そういう動機を減らせるような努力を施設や行政においてしていただきたいと思います。

_ 玉青 ― 2016年07月28日 21時31分23秒

○ZAM20F2さま

先日はどうもありがとうございました。
本当にびっくりするやら、嬉しいやらで、十分お話もできず残念でした。

ときに例の事件。
勢いで書いてはみたものの、まだ思いはグルグルしています。
上で書いたことは間違ってないと思うのですが、でも上では書ききれない闇がまだまだ広がっているのを感じます。いずれにしても、皆に省察を迫る事件ですね。

○S.Uさま

>犯人は、福祉や障碍者の介護についてかなりの勉強

そこですよね。
犯人の人物像がいろいろ分かってくるにつれて、この事件の更なる特異さが明らかになってきた気がします。実にこの闇は深いです。

○ZAM20F2さま&S.Uさま

書きながら、ふと思ったのですが、この事件の居心地の悪さは、安楽死とか優生思想などとも絡む「他者による生命の価値づけ」の気色悪さとともに、あの犯人は障害を持った人に無関心ではいられなかった――むしろ過剰な関心を抱き続ける人間だったということがあるのかなあ…と思いました。

ヘイトクライム一般にそういう傾向はあるのでしょうが、この「接近と回避」のアンビバレンスが、この不可解な闇を解くカギではあるまいかと、ボンヤリ考えています。

_ S.U ― 2016年07月29日 07時27分09秒

昨日までの政治家やマスコミの関心を見ていると、どうも措置入院とか薬物の管理とかそういう現象論的対処策ばかりにいっているようです。ことがことですからそういう検討も大事でしょうが、それはいわば社会の「一部の人」を管理する方向であり、より重要な人間の普遍的な心理・行動や社会の問題点を建設的に掘り下げることにはならないのではないかと思います。一部の人を管理することは排除することにつながり、これでは犯人と同方向になってしまいます。今のところは、今後の捜査、研究になって心理、行動のメカニズムも明らかになって報道されるものと期待して待つことにします。

>過剰な関心~「接近と回避」
 ヘイトスピーチやそれに関連する集団行動は、日本でも近隣国でもおこなわれていますが、こういうのは近くにあって密接な歴史がある国の間で起こるものですね。これは何となくわからないでもないです。相手に、自分のルーツとか、ちょっと違う道をたどってしまった自分自身を見るような思いがあることが一つの要因ではないでしょうか。
 それから、「かわいさあまって憎さ百倍」とか「いやよいやよも好きのうち」という言葉があって、これは私には、その意味も心理もよくわからないですが、これも関係あるかもしれないと思います。介護士とか教師とかの職業は、仕事をビジネスと割り切ってしまえば、相手に対して問題となる可能性のある行動に出ることもないのでしょうが、それでは十分な仕事が達成できないという難しさがあるのでしょうね。

_ 玉青 ― 2016年07月29日 23時18分29秒

>現象論的対処策

結局、そこがいちばん論じやすいのでしょう。
この点は、必ずしも今の世の中だから…ということでもなく、昔からあまり変わらないような気もします。人は常に答を求める存在であり、「分からなさ」に耐えることは、とてもしんどいので、気持ちはよく分かります。でも、ここはS.Uさんの仰る通り、しっかりとした掘り下げが必要であり、今しばらくは「分からなさ」に耐える努力がほしいです。

_ S.U ― 2016年07月30日 08時01分36秒

障害はアプリオリに憎むべきものではなく、「分からなさ」も直ちに避けるべきものではない、ということですね。

_ 玉青 ― 2016年07月30日 13時40分23秒

ここは「溜め」が必要ですね。

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