8月15日に寄せて2016年08月15日 22時26分43秒


いつものブログは夏休み中なので、今日は大いに「閑語」します。

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「もはや戦後ではない」と言われて久しいです。
「もはや戦後ではない。―もはや戦前だ」…というのが、ちっとも冗談に聞こえないのが、恐ろしくもあり、いきどおろしくもある昨今です。

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「決して鼎立しない三つ組み」というのがあります。

古くはヤスパースが挙げた、「ナチス的である、知的である、誠実である」という3つの性質などが、その代表です。すなわち、この3つの性質は同時に満たされることが決してなく、ナチス的で知的であれば、その者は不誠実(うそつき)であり、知的で誠実な者はナチス的であることはできず、誠実でナチス的な者は知性を持たない…ということで、これはたしかに真理をついています。

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平和憲法と軍隊と日米安保も、ちょっとそれに似たところがあります。

平和憲法と軍隊があれば、他国との軍事同盟は解消すべきであり(スイス型国家)、平和憲法と日米安保があれば、軍隊は不要であり(戦後のある時期までは、それが日本のスタンダードでした)、日米安保と軍隊があれば、平和憲法は矛盾した存在として抹殺されるべきだ…というわけです。もちろん、現在の政権は3番目の道を選ぼうとしています。

実際には、3つの内から必ずしも2つを選ぶ必要はなく、1つだけ選ぶこともできます。
すなわち、軍隊を採って、平和憲法と日米安保を捨てる(孤立的軍事国家)、日米安保を採って、平和憲法と軍隊を捨てる(被植民地化)、平和憲法を採って、日米安保と軍隊を捨てる(理想主義的平和国家)…というイメージです。

結局、平和憲法と軍隊と日米安保という3つのものから、1つ乃至2つを選ぶという単純な状況に限定しても、選択肢は6つあり、今の政府の方針に反対するのでも、5つの立場があるわけです。その辺を曖昧にしたまま、かみ合わない議論をしている例が少なからず見受けられます。

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個人的には理想主義的平和国家を推したいところですが(私は理想と平和が好きです)、その実現が困難であることは認めざるを得ません。

それは「他国は信用ならないから」という外的要因よりも、それを実現・維持するだけの強靭な政治力が、今の日本には欠けていることを懸念するからです。そして、こうした政治力の衰微は、他のどの選択肢を採るにしても、大きな危険要素であり、国を破る元だと思います。

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為政者は愚民政策を推し進めることで、国民を御しやすくなったと喜んでいるかもしれませんが、それは一方で一国の政治力の弱体化をもたらし、国を危うくしているのだ…という事実に、もっと意識を向けるべきだと思います。

コメント

_ S.U ― 2016年08月16日 08時07分09秒

>平和憲法と軍隊と日米安保
 おぉ、これは、わかりやすい数学部分集合的説明をありがとうございます。3つの要素の部分集合は2の3乗=8個ありますが、この例では3要素をすべて含む集合は実現不可能というわけですね。おそらく空集合{φ}の選択も1850年頃から不可能になっているようです。いっぽう、狭い意味での部分集合の残りの6通りはいずれも広い意味で「現実的」ということですね。

  ここで、「現実的」ということばに、まやかしを含む多義性があることに気づきました。この例で「すべての要素を含む集合」および「空集合」は現実的でない、というレベルではなく、ほぼ不可能ということになります。これを「非現実的」と言って相手の論を十把一絡げに非難している人が多いように思います。実は、残りはいずれも現実的で、それほど優劣はないかもしれません。「平和憲法のみ」は非現実的かもしれませんが、「日米安保のみ」もどんな米大統領が現れても日本の政治の独立を維持するためにはかなり非現実的なように思います。だから、お互いを「非現実的」と非難するのはたいした正当性の基準がなく、あまり生産的でないように思います。

 そもそも、現代社会では、この「現実的」というのを知ったげに披露する人が事情ツウで賢い人のように見えますがそれも相当怪しいです。この例では、日米安保と軍隊を取って平和憲法を捨てるのが現政権の当面にとっては現実的かもしれませんが、それはここ数年の都合であって、10年か20年後には受け入れられない非現実を招くかもしれません。現政権はそのころ現実社会で責任を取ることもないでしょう。喩えれば、夏休みを過ごす多くの少年少女たちにとっては、お盆のころは、ぐだーっとしてテレビかゲーム以外は何もしないのが確実に現実的ですが、早くもその1~2週間後には非現実が眼前に現れることもあるようなものです。また、子を見る親には、また別の現実が見えていることでしょう。

 してみると、現実性の評価の主張は、個人単位かつ短期の時代単位でしか存在しないものであり、決して歴史的に普遍化できないものではないか、そのへんをよく考えてみないといけないと思います。といっても刻々と移りゆくその時代時代に非現実な手を打つことはできないのも事実で、ここは囲碁の名人のごとく、あるいはAIアルファ碁のごとく、つねに盤面広くをスキャンして次の一手を探しうるだけの能力がほしいところです。

_ S.U ― 2016年08月16日 08時29分05秒

 もう一点、別の観点を思ったので、書かせて下さい。

 昨日の「終戦の日」の追悼式の中継を見ました。天皇陛下の「おことば」を聞いて昭和の頃の記憶をたどっていたのですが、戦後そのものが遠くなってしまったことは否めません。でも、先の戦争は自分にとっては近いものになってきたように思います。それは、昨今のけしからぬ政治のことのみならず、自分の年齢のこともあるのではないかと思います。

 私が子どもの頃には、戦争は、自分の人生(自分が物心ついてから現在までを「人生」の期間とします)の期間を遡る倍くらい昔のことだったのですが、今気づけば、戦争は、なんと自分の人生からみてわずかその3割未満の昔でしかないのです。今後、我々は、「戦争を知らない老人たち」になって、そして、それなりの使命はあるのではないかと、暑さボケの頭にふと浮かんだ次第です。

 ところで、また、話が飛びますが、この「終戦の日」、通常は、太平洋戦争の終わった日ということで問題ないのでしょうが、正しい戦争を堂々と戦い武運つたなく敗れた、その精神と経験を今後に生かしたい、と考えるならば、「大東亜戦争敗戦記念日」とでも呼ぶのが潔いのではないかと思いますが、そう主張する人が武士道や軍人精神を説く人の中にもほとんど見られません。どうも不思議なことが多いです。

_ 玉青 ― 2016年08月17日 06時47分09秒

「それは非現実的だ」、「現実味がない」、「もっと現実を見ろ」…etc

たしかにもっともなときもありますが、あまり意味のない、空疎な掛け声だけの時もありますね。現実、現実と言う人は、現実とは唯一絶対のものではなく、常に多面的なものであることを忘れているのでしょう。

そもそも、いくつもある「現実」を互いに擦り合わせて、共通の認識を生み出す営為が人間のコミュニケーションであり、大きくは政治ですから、最初から「(俺にとっての)現実」を持ち出して、他を駁するのは滑稽ですらあります。

>不思議なことが多い

本当ですね。靖国に参って、国に殉じた者の遺志を継ぐ…と聞けば、「なるほど、ではまた鬼畜米英を叫んで、アメリカに攻め込む算段でもするのかな」と思って見ていると、むしろ米軍を喜々として迎え入れて、たっぷりチップまではずむ厚遇ぶり。何だか訳がわかりません。別に鬼畜米英と叫んでほしいわけではないですが、何だか言ってることと、やってることが、首尾一貫しないぞと思います。

_ S.U ― 2016年08月17日 07時54分32秒

今朝の朝日の「天声人語」を読んで思ったのですが、「日本国憲法はアメリカに押しつけられた」、「日本の戦後の平和は駐留米軍が守ってくれた」という論も、この70年間の日本の広範な人々の努力を思うと、これこそとてつもない「自虐史観」でないかと思えてきました。

 「自虐史観」などというのもしょせんレッテル張りにすぎず、これに振り回されるのは、生産的でないというか「現実的」ですらないようです。

_ 玉青 ― 2016年08月18日 16時45分40秒

自虐史観という言葉を使う人は、戦争責任論とかになると、まるで自分が責められているように感じて、耐えがたく思うみたいですね。

ここには国家と自己を同一視して区別できていないという問題と、ちょっとでも過ちを指摘されると、まるで自分を全否定されたように感じる、あまりにも脆弱な自己という問題の2つを指摘できます。まあ未熟といえば未熟ですが、こんなふうに自他が未分化で、容易に自我が他者によって侵襲されてしまうといのは、日本人一般に広く共有されている傾向のようでもあります。

…と、評論家的なことを言っても、あまり実りはないですが、そういう視点も時には必要だろうと思っています。

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